平凡

平凡

憎しみの種は確実に育つけれど、その収穫物は誰の腹も満たさない

本日の記事にはポジティブなものは何もない。ただの愚痴だ。

 

インボイス制度が話題になっている。

わたしも零細フリーランスライターなので、影響を受ける。もろ受ける。

ここでは制度について説明しないし、意見も書かない。

 

インボイス制度にどう対応していくか以前に、いまキツいのは、ネットの意見を見ることだ。

 

インボイス制度については、3年ほど前から自営業者の間では話題になっていた。

ネット上で大きく取り上げられはじめたのは、ここ半年ぐらいだろうか。

最初は自営業者以外からは無風だった。

話題が広がるにつれて、いろんな立場の人の意見が見られるようになった。

多様な立場の人が意見を言うのはしかるべきことではある。

しかし、「インボイス制度のあおりを受けるような稼ぎの少ない自営業者はそもそも失敗しているのだから、畳んだ方がよい」を前提としているものも見受けられるようになった。

「(インボイス以前に、働き方として)自営業者はラクをしている、ズルをしている」と見ているのだな、とわかるものも多い。

 

かつて一部のインフルエンサーが「会社員よりフリーランスのほうがすぐれている」と言い、「消耗してるの?」などと煽って対立の種をまいた。

それが芽吹いたことを感じる。

もちろん、自営業者というか、会社員以外の働き方全般に関して、昔からさまざまなイメージがある。

この分断や対立の起点は彼らにあるわけではない。彼らはその亀裂を深めただけだ。

 

また、コロナ禍で自営業者向けに用意されたさまざまな給付金の話題も、「ラクしている」「焼け太りしている」といったイメージの強化に結びついているようだ。

 

ネットを見なければよいのだが、インボイスに関しては気になることが多く、情報収集もしたいのがつらいところである。

 

意見の対立そのものではなく、その底にひそむ――というより、もはやおおっぴらに開帳された偏見やヘイトに疲れる。

そういう場合、反対意見はおまけで、本体はヘイトなのだ。

もっとはっきりとしたマイノリティ属性の方々には、もっと臆面のないものが降り注いでいるのだろう。

 

インボイスに限らず、「意見はおまけ、本体はヘイト」な意見表明は、いろいろなところで見かける。

「ネットに本音は書けなくなった」と言われて久しく、わたしもそれには同意する。

一方で、立場が違う相手へのヘイトは、年々大胆に表明されるようになってきているように思う。

 

この20年ぐらいネットを見ていて思うのは、「憎しみの種」というものがあること、それは撒いて、確実に育てられること。

最初は「ちょっとあいつらズルしてるんじゃない?」と書くぐらいでいい。悪意はない冗談に偏見をまじえてもいい。

繰り返すうちに、憎悪や偏見、軽視は育っていく。

10年も続ければ、うっぷんがたまった誰か、あるいは認知がよりゆがんだ誰かが、「あいつら」に物理的な攻撃を加えるようになる。

そこには社会不安しか残らない。

 

自営業者に対してそうなっていくとは思わないし、それを危惧しているわけではない。

インボイスや自営業の話から離れて――。

変えがたい属性に対し、偏見や憎しみを育て、暴力を向けさせる「流れ」のようなものを、強く感じている。

 

きっとこうした対立は、ネットでみんながつながっている現代では、避けがたいことなのだろう。

ネットにはよい影響もある。が、それは「憎しみの芽」を自然と枯らすようなものではない。

おそらく、メリットとデメリットは一対一ではないのだ。

 

わたしに気をつけられることがあるとしたら、意見を言うとき、立場が違う人をおとしめないこと。

自分の中にある憎しみや妬みに目を向け、それをWebに放流したいと思ったときは、立ち止まってみること。

 

子どものころは、「日本人は建前でばかり語る、大切なのは本音では」といった言説を目にすることが多かった*1

いまは、建前の大切さ、誰だって持っている何かへのヘイトを隠すたしなみ、理想論的建前を貫く気力の必要性を感じている。

建前なき本音は暴走する。

本音と建前はどちらも大切なのだ。

 

まずは隗よりはじめよ。

「零細フリーランスはご逝去なされよ」のような意見を見ても攻撃的にならないよう、自制していきたいものである。

*1:今は、海外にだって本音と建前はあるよなあと思う。ただ、使い分け方が国によって違うことはあるのかもしれない