でっかい本棚を買った。
冷蔵庫を買った。
食器洗い乾燥機を買った。
これからベッドフレームが来る。
マットレスも来る。
廊下では、テレビ台が組み立てられるのを待っている。
新しいノートパソコンを買った。
はじめてのメカニカルキーボードを買った。
来週には、お高めのワークチェアをみつくろいに行く。
その椅子を使うには、新しいデスクが必要だ。
今、使っている机は片袖のため、椅子が入るスペースが限られているからだ。
デスクが大きくなったら、モニターを買って、ノートパソコンを母体にデスクトップ風に運用する。
来たるべき老眼対策だ。
ありていにいうと、めっちゃお金を使っている。
年内は、札がバンバン飛んでいく予定だ。
言いかえると、今までほったらかしにしてきたことを、一気に進めようとしている。
結婚したとき、家具・家電類はほとんど買いかえなかった。
引っ越しさえせず、わたしが住んでいた物件に夫婦ふたりで暮らし始めた。
「しばらくふたりで暮らして、暮らしに合った間取りがわかったら引っ越そう」
「ふたりで暮らすうち、あるいは引っ越しをしたら、必要な家具家電が見えてくるだろう」
と夫婦で話し合ったのだった。
独身時代から引きつづき、167リットルの冷蔵庫を使い、
漫然と家にあった古い布団を並べて眠り、
テレビ台はカラーボックスを横に倒したものを代用し続けた。
それから……えーっと、もう7年弱。
とりあえず、2回、引っ越しをした。
家具家電は、ほぼそのまま。
変わったことといえば、布団がますます薄くなったぐらいだ。
夫もわたしも忙しく、また、家のことにうとかった。
こだわりもなかった。
さらに言えば、ふたりとも整理整頓が苦手で、わたしは極度のめんどうくさがり屋だ。
とはいえ、さすがに7年も経てば、限界が来る。
結婚して3つ目の物件に越した今こそ、環境を改善しようと意気込んでいるわけだ。
遅くない?
仕事部屋に関しても同様で、「なんとなく」で決めていた部分が多いため、一気に見直そうとしている。
うすうすわかっていたが、「家のなかをきちんとする」ことは選択と決定の連続だ。*1
「何をどう置くか」「そもそも置けるのか」「他の家具との置き場所の兼ね合いはどうか」「どんなデザインのものを選ぶか」「予算感は」「インテリアにはこだわるのか」「こだわるとしたら、どの方向性でいくのか」「予算はないが統一感がほしい場合、何にせよ白か黒で統一したほうがよいのではないか」などなど。
加えて、「なんかよくわからないけど、その辺に溢れてしまっているもの」の収納場所をひとつひとつ考えていかないと、部屋はすっきりしない。
たとえば、「使うかもしれないクーポンがついたDM」とか、「病院でもらった薬の飲み方が書かれた書類」とか。
なんにせよ、ひとつ決めるごとに、ひとつ可能性は減っていく。
家具を置けばそのぶん部屋は狭くなるし、布団をベッドにすれば眠る場所を移動する自由はなくなる。
しかし、「きちんと整えられ、使いやすく、居心地のよい部屋」は、その先にしかないのだ。たぶん。
「たぶん」とつくのは、自分の力でそういった状態を作り出せたためしがないからだ。
何から手をつければよいかわからず、必要なものは空いている場所になんとなく置いて、漫然と暮らしてきた。
ひとり暮らしのときからずっと。
この年齢になると、気づくのだ。
「『いつか』『いつか』と思っていたけれど、その『いつか』っていつ? わたし、このまま一生、漫然と暮らしていくんじゃないの?」
不惑を越えれば、「いつか」はすなわち老後である。
老いていく親を見ていると思う。
今できていないことは、これからますますできなくなる。
わたしは凡人である。
老いてなお、ハイパーに活動する老人には、まずなれない。
ベッドひとつ買うにもうんうんうなり、仕事部屋のレイアウトを考えて頭が爆発しそうになる。
本棚を買っても、溢れる本と資料。
テレビ台を組み立てたら、テレビ台がわりのカラーボックス下に収納した説明書ファイルの置き場がなくなる、といった玉突き事案。
部屋を整えるって、なんて大変なんだろう!
映画やアニメを見ていても、漫画を読んでいても、SNSを開いて人様の室内写真を見ていても、とにかく感心する。
「この人はベッドで眠ることを選んでベッドを買い、その置き場所を窓際に決め、テレビの大きさを決め(これは部屋の大きさに規定されたのかもしれない)、テレビ台を購入し、おっと一人暮らしなのに、ダイニング風にテーブルと椅子を置いている……これはどんな決断から生まれたのだろう……」
で、最近考えるのが、「家を建てる人のすごさ」だ。
上物だけでもさまざまなグレードがあり、注文住宅であれば、キッチンからドアノブまですべてを選ぶケースもあると聞く。
壁紙だって自分で選べてしまう。
建てたあとは、家具の配置を決め、カーテンや家具を選ぶ。
家電も新調するかもしれない。
そんな偉業を、人はどう成し遂げているのだろう。
しかも、当たり前の顔をして。
そう考え始めてから、この季節に増える、「クリスマスの電飾をほどこした住宅」の見方が変わった。
そういった電飾をほどこす人たちは、
「家を建て」
「室内および、庭やエクステリアを整え、維持し」
「庭やベランダに出て電飾を何らかの方法で固定する」のだ。
たったひと月足らず、季節のイベントを楽しむために。
そもそもイルミネーションで我が家を飾るには、「どんな電飾が理想か」というイメージがなければならない。
そのうえで、「それはどこで手に入るか」「どこから電源を取るか」「シーズンが終わったときの手入れ」「保管」など、さまざまなステップをこなしていくのだろう。
気が遠くなる。
“浮かれ電飾”などと、揶揄を含んだ言い方をされるが、偉業だと思う。
見ている分には労力はかからないし、何より目に楽しくもある。
世の中、上を見ていてはきりがない。
わたしにはとても、家を建てることも電飾をほどこすことも無理だ。
なんらかの天啓を受け、家に電飾をほどこせる器を持つに至ったとして、ほどこしたいと考えない可能性も高いが……。
ともあれ、せめてこの自分より古びた部屋を、最低限居心地がよいものにしたい。
今はまだ、大海に漕ぎ出したいかだのように頼りない。
嵐や大波を乗り切り、完璧でなくてもいい。
「モノの番地が決まっていて、その気になったら片付けられる部屋」ぐらいには。
人を……きょうだいや昔からの友人を呼べるくらいには。
次の次のクリスマスには、クリスマスツリーとはいわない、ちいさなクリスマスの置物ぐらいは飾れるように。
(それには置物が置ける恒常的なスペースと、シーズンが終わった後のお手入れ法、保管場所などが必要だ)
なんとも弱気な結びになってしまった。
わたしはやる気なのだ……。
やるぞ……。やれる……。
今度こそ、やれるはずだ……。
えいえい……おー……。
※使用写真はフリー素材.comより。
こんなきれいな部屋が我が家であるはずはなく……。
いや、がんばります……。
*1:要するに、めっちゃウィルパワーってヤツがいる