平凡

平凡

駆け出しフリーランスに必要なのは「未熟さに耐える力」では

あいかわらず。ずーっと考えてしまうのです、このこと。

とても短い雑感です - 平凡

手短にいうと、あるWebライティングスクールが破綻した……という話ですね。

そこは27万円払うと月2回×6回の講座が受けられ(原稿添削含む)、修了後は月3万円を払うことで、単価がとてもよい仕事を紹介してもらえると謳っていました。

しかし、スクール始動から6~7カ月で破綻。

 

このスクールに通っていた人、あるいは別のスクールに通っている人のツイートを追っていて感じたのは、「未経験だから、とりあえずスクールに入りたい」需要がけっこうあることです。

順当っちゃ順当です。

 

スクールに通う人たちの目標は、表向きは「スクールでしっかり学び、スキルを身に着け、自信を持って仕事を請けられる自分になる」こと。

 

ただ。

このスクールに限らず、漏れ聞こえてくる講座の内容を聞く限り、何万円、何十万円も払う価値があるようには思えないんですね。

実用書1冊読んで、「自分が書いた文章の読み方、直し方」を工夫すれば対応できるのではないか。

スクールに通っていた人たちの声を追っていくと――。

「フィードバック(原稿を読んでの添削)はまあよかったかな」とか、「講師によって質はまちまち」とか、いろんな感想が目に入ってきます。

ほめているものであっても、「費用対効果」を実感しているようには思えません。

受講生の方々も、スクールの講座の内容がお金に見合ったものではないとうすうす感じているのでは……と思いました。

 

じゃあ、なぜ受講生の方々はスクールに通うのか。

「練習ライティングでの添削」「クライアントへの提出原稿の添削」があることに魅力を感じている人が多いようです。

破綻したスクールの場合、何より「高単価な案件紹介」がウリ。それがあまりにもまぶしいので、他の不足や不満はかすんでしまう。

でも、そこだけで思考が止まってしまうのは、ちょっと違っていて――。

本当に根っこのところで受講生の方々が買いたいと思っているのは、「安心」なんじゃないでしょうか。

 

そう思ったのは、

「ここがつぶれちゃったから、次のスクールも探さないと!」

クラウドソーシングで仕事を請けてみた。クライアントからOKもらっても安心できないから、スクールに通いたい」

という声を見かけたとき。

 

みんな、未知の仕事をやってお金をもらうことへの不安や、スキルに自信がない状態でお金をもらうことへの罪悪感がある。

それを、「誰かに指導してもらうこと」「スクールで学んだという既成事実」の安心感で塗り替えたい。

さらに、「仕事が取れるかどうかわからない」不確定要素もある世界。

スクールが仕事を紹介してくれたら、そこもちょっとは「確定要素」に変えていけそう。

 

単価が高い案件にしても、原稿添削にしても、魅力的に見えるのは、「なんだか荒れ地に見える『フリーランス稼業』に軟着陸させてくれそうだから」。

そのための料金として、みんな決して安くはないお金を払っているのではないかと感じました。

要するに安心料です。

 

でも、こういった不安って、スクールで解消できるのでしょうか。

安心はお金で買えるのでしょうか。

わたしは「ノー」だと思うんですね。

 

駆け出しのころって、みんな不安です。

わたし自身、編集プロダクションに入るとき、「書くのは好きです……でも、書いてお金もらったことはないし、雑誌に載るような文章を書いたことはありません……」とぶつぶつ言って社長を困らせたので、よくわかります。

てか、よくそんなこと言って入社できたな!

フリーになるときは、ライティング経験は多少は積んでいましたが、むき身の個人が裸一貫で仕事をするのは不安でした。

 

「駆け出しでもベテランでも、仕事は仕事。発注者側には関係ない(だからクオリティで勝負せねばならない)」とはよく言います。発注者側の絶対的な現実です。

けれど、誰にだって駆け出し時代はある。これは、受注者側の絶対的な現実です。

 

「駆け出しでもベテランでも、仕事は仕事」の世界の中で、「でも、駆け出しの自分は駆け出し以上になれないから、そこでベストを尽くすしかない」時期があります。

必ず、誰にでも。

そして、「未熟な自分がやった仕事」に対して、お金をいただく。

それに耐える瞬間も、誰にでもやってきます。

どこかに所属して、ベテランになってから独立するなら別ですが、未経験、または駆け出し状態でフリーになる場合はもれなく、です。

 

フリーになったら、「クライアントがOKと言ったらOK」なんです。どんなに自信がなくても。それを受け入れ、次へ進んでいく。それしかやりようがないんです。

 

スクールに行っても行かなくても、それに耐える瞬間は絶対にやってくるんですよ。

「駆け出しのうちは、講師が添削します!」と言ったって、いつまでもそうするわけにいきませんし。

スクールに行ったことで自信が身につけば、ひょっとしたら「未熟さに対する罪悪感」をやわらげてくれるかもしれません。

でも、ゼロにはしてくれません。

 

もっと良心的な価格、内容のスクールが世に溢れていたら、わたしも「不安がゼロにはならなくても軽減されるなら、スクールもありかもね」と言えたと思います。

けれど、現状、多くのスクールや情報商材の講座内容は不透明で、費用対効果があやしい。「安心料」にしても高すぎると、わたしは感じています。

みんなが持っている“ベーシックな不安”につけこんでいないかい? と思っちゃうわけです。

 

駆け出しのフリーランスに必要なのは「未熟さに耐える力」。

というとかっこよすぎで、テーマパークに入るときの入園料みたなもんです。

「そのタイミング」が来たら否応なく求められ、支払うもの。

待機列を多少短くしたり、あるいは短く感じる工夫はできても、「ないこと」にはできないもの。

あきらめるべきもの、といったほうが近いかもしれません。

 

ついでにいうと、わたし、独立して16年経ちますが、「クライアントがOKというからOKなんだろう」と言い聞かせることはまだまだあります。

駆け出しのころと、深度や方向性は違いますけれど。

フリーランスには、相対的な評価がほぼありません。

あの仕事はよかったの? 悪かったの? あの人から最近仕事をふられないのは、わたしの何かが悪かったの?

それでも――。会社での評価に皆目馴染めなくて、個人プレイしか理解できないわたしにとっては、フリーの方が断然「わかりやすい」のです。

不安だけど、そっちのが安心できる。そんなタイプの人間もいます。

もちろん、会社にもなじめるけれど、フリーになっている人も大勢いて、それはすばらしいことです。

 

ちょっと話がそれてしまいました。

独立して時間が経っても、「未熟さに耐える」「相対評価のなさに耐える」ことはある。

入園料を支払って「フリーランス」という名のテーマパークに入った後も、アトラクション料はときどき発生するってことです。

新しい仕事や、大きな仕事を任されることもありますしね。

そんなときにプレッシャーを感じるのは、会社員でも団体職員でも変わらないとは思うのですが、フリーランスの場合は、よりはっきりくっきりしています。

 

そういった“心の通貨”に対して、現実の通貨が対価として求められるのはちょっと違うかなあ、とわたしは思うのでした。

すくなくとも、ライティングの世界において、何十万円に値するような、どこにでも通用するような絶対的な技術はないんじゃないでしょうか。あったとしても、教えられる人は相当希少です。

また、フリーランスの世界にお金で買える安心はないんじゃないかな。“安心感”はあるのかもしれないですが。

 

「だから甘えるな」と言いたいのではなくて。

「お金をいただくならちゃんと学ばなきゃ」「未知の業界で仕事をするのはやっぱり不安」。

どちらも真面目だから感じることですよね。

それを利用しようとする人もいる。

でも、わたしはそれらを利用されてほしくない。

それだけなのです。

 

*画像はphotoACより。未熟さってことで……。

8月の栗の木(青イガ) - No: 24638143|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK