平凡

平凡

わたしたちの、静かな時間

「あー、だいぶ伸びちゃってるねー」。

そう言いながら、いっちゃんはわたしの髪に、鋏を入れる。

床に、パサッ、パサッと毛が落ちる。

 ずいぶん年季の入ったコンクリートの床は、ところどころ黒い塗装がはげている。

 
代官山のはずれにある小さな美容室には、

わたしといっちゃんしかいない。

こうやって、いっちゃんに髪を切ってもらうようになってから、13年が過ぎた。

 

いっちゃんと知り合ったのは、友人からの紹介だ。

「友達に、すごく腕のいい美容師さんがいるんだ」と教えてもらった。

共通の友人もまじえ、プライベートでも遊んだこともある。

だから、いっちゃんとは客でもあり友達でもあるような、

その両方でもないような、不思議な距離感がある。

 

「ねえねえ、不妊の検査、行った?」

いっちゃんが聞く。

「近所の産婦人科に行ってみたんだけど、頼りなくてさあ。

別のところに行こうと思いながら、二の足踏んでる」

「平凡ちゃん、いくつだっけ? まだチャンスあるでしょ、早く行きなよ」

そういういっちゃんは、血圧が高いと診断され、不妊治療をこの先どうするか、悩んでいるらしい。

「血圧の薬ってさ、ずっと飲まなきゃいけないんだよねえ」

わたしの毛先を指で挟みながら、いっちゃんがぼやく。

いっちゃんは私より4歳ほど年上だが、とてもスリムで若く見える。

それでも血圧が高いのだという。

わたしたちのからだはもう、若くないのだ。

 

この美容室へ通いはじめた13年前、まだ、わたしたちは若かった。

しゃべることと言えば、

いつか結婚したいけど、今の彼氏はねえとか、

子どもほしいんだよねーとか。

こんな家庭にしたいんだよね、なんてことも話したことがあったっけか。

 

この先、仕事、どうしよっかなあ。

店、変わろうかと思うんだよね。そういう話も来てるし。

わたしは今の仕事で、フリーランスになろうかなあ。

 

そのころは、私生活も仕事も、未来はもっと曖昧模糊としていた。

 

今のパートナーと結婚したいけど、なかなかそこまでこぎつけなくてねえ。

同棲を始めたけど、こんなところでぶつかっちゃうんだよね。

いっちゃん、忙しいのにめっちゃ家事やってるじゃん。えらいよ。

 

結婚式はどうするの?

身内だけでやるよ。ヘアメイクは美容師仲間に頼むんだ。

へえ、わたしは神社でちっちゃくやったんだ。

 

なかなか妊娠ってしないねえ。

とにかく一回、産婦人科に行かないとダメみたいだね。

 

描いた将来像は「今」となり、「現実」となった。

わたしたちは、あのころより、具体的なことを話している、と思う。

 

13年の間、いっちゃんには何回か店を変える話が出た。

でも結局、本格的にどこかへ行くことはなかった。

わたしは独立し、収入に大きな不安があった1、2年は近所の安い美容室へ駆け込み、

その後はまた、いっちゃんに切ってもらうようになった。

いっちゃんへの予約方法は、携帯電話のメールから、LINEへと変わった。

 

いっちゃんは慎重に、慎重に、鋏を入れる。

髪のうねり、頭の形を把握し、伸び放題の髪を、思い描いたヘアスタイルへと変えていく。
彫刻みたいだ、といつも思う。

そうしていつも、オーダーにプラスアルファして、何かしらの驚きのある髪型に仕上げてくれる。

いっちゃんに髪を切ってもらうと、すごく気分がいい。

13年間、これは変わらない。

 

「はい、できあがり~」

いっちゃんが四角い鏡を両手に抱え、後ろや横がどうなっているか、見せてくれる。

手鏡じゃないところが、なんとなくいっちゃんらしい。

「ありがとう、すごくいい感じ!」

いっちゃんは、うれしそうにする。

 

他愛ないことをとりとめなくしゃべる、

3か月に1回ほどの、いっちゃんとわたしの静かな時間。

これは、いつまで続くのだろう。

次の13年、またわたしはいっちゃんに髪を切ってもらえるだろうか。

切ってもらえるとして、場所はこの代官山の美容室なのだろうか。

いっちゃんもわたしも、元気でいられるだろうか。

 

「ダンナとさ、一緒に店をやりたいねって言ってるんだ」

すぐじゃないよ、いつかだよと付け加えて、いっちゃんは笑う。

いっちゃんの旦那様については、自営業ということ以外、何をやっているのかはよく知らない。

それでも、いっちゃんがプライベートに近い場所で、髪を切っているのを思い浮かべる。

いっちゃんは、ニコニコしている。

うん、すごくいい感じ。

「いいねえ。そしたら、またそこで、髪を切ってほしいな」

 

いっちゃんが店の外まで見送ってくれる。

短くした髪に、夜風は冷たく感じられる。

風に乗って、かすかに花の香りがする。

「もうすぐ、春だねえ」といっちゃんが言う。

「そうね、じき、暖かくなるね」とわたしは答える。

店の前で2人、夜気を胸いっぱいに吸い込みながら、次の季節の到来を感じている。