平凡

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わたしが保護猫カフェにハマる10の理由

はてなブログ10周年特別お題「私が◯◯にハマる10の理由

 

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雨降りそうだにゃんのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200221053post-25942.html

 

ここ10年――いや、正確にいうと5年ぐらいだが、ハマっているものといえば、保護猫カフェだ。

今回は、その10の魅力を綴っていこう。

 

1.猫がいる

そりゃいる。

しかも、かわいい子がいる。

何かの事情で保護されれば「保護猫」なので、特定の猫種の子もいれば、ミックス、つまるところ雑種もいる。

いろんな性格の子がいる。

気が強い、弱い、ひと好き、ちょっと苦手、ほかの猫が好き、嫌い。

いろいろいる。かわいい。

 

2.ドラマがある

猫がいるところに、ドラマあり。

モテモテのいかつい雄猫が、なぜか雌猫にすり寄られると目が泳ぐ非モテしぐさをかましたり、

兄弟姉妹で仲良くしたり、

ケンカをいつも仲裁に行く学級委員長っぽいキャラがいたり。

猫関係が発生する。

見ていて飽きない。

 

3.入れ替わりがある

里親をさがす「譲渡型保護猫カフェ」だと、メンツの入れ替わりがある。

子猫キッズが来たり、ほかの猫に当たりが強い猫が来たり、最初はおびえていた猫が慣れるとデロデロにひとに甘えたり、その都度さまざまなドラマが生まれる。

また、子猫だと思っていた猫が、さらにちいさな猫が来ると、おにいさん、おねえさんの顔をのぞかせたり、そういった変化も楽しい。

 

4.罪悪感がない

猫好きの相手をしたからといって、猫に得があるわけではない。

それと、店に通っていて言うのもなんだが、やはり猫は1~2匹、落ち着いた環境で暮らすことを好む生き物だと思う。

ふつうの猫カフェに行くと、「人間だけ楽しんで……サーセン」てな気分になる。

しかし、譲渡型保護猫カフェは、里親探しという名目がある。

猫を迎え入れる予定のない客にとっても、「我々が払うお金が、猫たちのカフェでの生活を支え、よりよき環境に行くための資金として使われる」と思うことができる。

どっちにしろ、「猫に得がある」ように思えるので、罪悪感がない。

 

5.客筋がよい

猫ならなんでもかわいい。猫ファースト。猫ちゃんの都合に合わせましょ。

そんな客が多いので、抱っこしたり、眠っている猫を起こしたりする客がいない。

「あわわわわ。猫ちゃんのストレスになっちゃうー!」と気をもむ必要がなく、ストレスフリー。

 

6.人間とのドラマがある

人間が、運命の猫と出会い、迎え入れる。

そこにもドラマがある。

「なぜか夫の膝にすぐに乗ってくれて、猫に興味がなかった夫もメロメロ」

「前飼っていた子に面差しが似ている」

「とにかく惚れた」

などなど、迎え入れるに足る理由があり、プライバシーに問題がなければ、

店側がブログなどで発信することがある。

「えっ、あの子が膝に来てぺろぺろ!? 他の人間にはしなかったよね。

そりゃ運命だよねえ」

など、一客として、しみじみする。

それもまたおもしろし。

 

7.ルールがある

利用する猫カフェを選ぶときの二大条件は、以下。

1.抱っこ禁止(すごく人懐っこい猫でも、拘束される抱っこは嫌がるもの。しかも、不特定多数とあればなおさらだ。抱っこは飼っている人の特権だと思ったほうがいい)

2.オヤツを常時販売していないこと(オヤツで猫を釣れるのは客にとってうれしいが、猫の健康は?)

保護猫カフェだと、このふたつを満たしているところが多い。

 

8.(里親希望者にとって)猫の自然な姿を見られる

催事場などに猫を連れてきて行う譲渡会では、大人の猫は、たいてい恐怖で身をすくめている。また、保護している人のところへ「お見合い」に行く形でも、人見知りする猫が固まってしまう。

保護猫カフェなら、「いつも猫たちが生活している場」へ人間がやってくる形となるので、より自然な猫たちの姿を見ることができる。

 

9.(里親希望者にとって)人柄を見てもらえる

保護猫を迎えたいと思っても、保護団体の機械的な審査だとハネられてしまう属性、というものがある。とくに独身男性。

店にもよるが、保護猫カフェだと、属性だけで判断しないところが多い。

猫を幸せにしてくれそうかどうかをしっかりと見てもらえる。

 

10.「その先」を見られる

里親さんによっては、譲渡したあとの猫の様子をSNSで発信してくれることもある。

店では見せなかった顔、ポーズを見せて、安心しきって暮らしている猫たちを見られるのは至福だ。

ボス猫っぽい顔をしていた子も、ちいさな子たちのめんどうを見て、おにいさん、おねえさん然としていた猫も、でろんでろんの甘えた顔になる。

ああ、この子たちがしあわせになってよかった、と思える。

惚れこんで猫を迎えた里親さんたちもしあわせそうだ。

店に通うことで、こういったしあわせな猫、人間が増えるなら、こんなにうれしいことはない。

 

以上が、猫狂いが保護猫カフェにハマっている理由だ。

 

都内に増えている保護猫カフェは、保護とかなんとか考えず、気楽に楽しく通える雰囲気の店がほとんどだ。

ただ、ちいさな個人店が多いので、いずれもクセは出る。

 

たとえば、猫たちの安全に対し、何にどれぐらい気を付けているかもそれぞれだ。

猫の誤飲にめちゃくちゃ気を付けていて、おもちゃはレーザーポインター型のみ、みたいなお店もある。

わたしが通っている店は、その辺はわりにざっくりしている。

「ここは合わないな」と思ったら、ほかの評判よさげなところを当たってほしい。

猫好きなら、きっと満足できる店が見つかるはずだ。

絶滅危惧種、その名は“紙”ライター

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ノートパソコンの前でお座りして固まる猫のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210942245post-36490.html

 

そのツイートを見たとき、自分が絶滅危惧種になったことを悟った。

 

 

 

この、レイアウト上の文字数ぴったりに書くこと。

これを「ハコで書く」と言う。

わたしはライターで、主戦場は紙の雑誌で、そして、我が戦場でも、「ハコ」がマストのところはある。

「ハコ」がマストでない媒体で書くときも、紙雑誌のライターは、たいてい「ハコに近いほうがベターである」感覚を持っていると思う。

ひとつは、見た目のおさまりがいいから。

ふたつめは、限られた文字数いっぱい使って情報を伝えるため。

上記ツイートのリプライで解説している方もいる通り、もともとは手書き原稿×写植時代がルーツのようだが、

同年代のライターは、だいたい見た目と情報量の兼ね合いで「ハコがベター」と感じていると思う。

 

駆け出しのころは、リリースをまとめ、120字程度の原稿を作る、なんて仕事を山ほどやった。

今でもキャプションを大量に書く仕事、というのはある。

なので、15字×8行ぴったりに、一発でおさめる、なんてことはけっこう得意だ。

 

上記ツイートを見たとき、それが「めずらしいこと」になっていると、はじめて気がついた。

リプライを見ると、「ほんとだ!」「なんでだろ!」「すごい!」と、かなり特殊なこととして扱われていたからだ。

 

雑誌全盛期でさえ、「ハコ」なんて気にせず読んでいた読者は多いだろう。

それでも、時代が違えば、もうちょっと反応も違うのではあるまいか。

「ああ、こういうの雑誌でときどき見るよね!」みたいな……。

 

そんなふうに紙の雑誌の慣習どっぷりのわたしだが、近年、たしかに「ハコにする」機会は減っていると感じる。

理由のひとつは、紙媒体の製作体制の変化だ。

DTPオペレーターではなく、編集者自身がレイアウトにテキストを流し込むことが増えた。

それにつれ、DTPソフトのカーニングの具合で、ライターの手もとの計算だけでは、ハコにならないケースが多くなったのだ。

 

何より、紙雑誌の売り上げがどんどん落ち、ネットに移行していくなか、「ハコ」や「字数」などという概念はもはや意味をなさない。

それはわかっていた。

「Web媒体は文字数制限ないから、かえってやりづらいね~」

「でも、いままで泣く泣く削っていた話を入れられるのは楽しいね」

なんて、同業者とはよく話す。

そして、ハコで書ける技術なんて、たいしたことはない。

問われるのは、記事の中身なのだから。

それでも、ある程度のテキストなら、すばやく文字数ぴったりに収められる技術、というのは、それなりに役に立ってきた。

 

ワープロがパソコンになり、携帯がスマートフォンになり、校正の修正は赤字ではなく、DTPソフトで直接打ち込む……といった、技術の進歩により“外面的”な何かが変わること、には慣れている。

しかし、その流れのなかで、自分が体得した技術が、いつの間にか珍しいものになるとは、考えたことがなかった。

 

Webの台頭により、「ハコにする技術」は消えていく。

手書き原稿がワープロになり、写植がDTPになったときも、きっと同様のことが起こったのだろう。

そのすべてを体験し、数年前に定年退職した編集者が言っていた。

「この間、Web記事作成講座を受けたの! 

デジカメでちょちょっと写真を撮って、自分でササッと文章を書けば、記事がアップできる。

知っていたけれど、あんなに簡単だとは思わなかった。

クオリティだって悪くない。

いい時代だよね」

彼女は子どものころから雑誌フリークで、高校のときから、いまでいうZINEのようなものをつくっていたという。

そして、定年後のいまも、編集者の仕事を、実に楽しそうにつづけている。

 

ハコにする技術が滅びても。

紙媒体が滅びても。

発信して需要がある情報がある限り、この仕事はなくならない。

ハコにする技術は滅びても、"紙"ライターでなくなっても、"ライター"部分は生きる。

生き残れるはず。

これからも、わたしは書いて生きていかねばならないのだから。

 

などと書いたものの、今夜もわたしは15×8の原稿を複数書く仕事を抱えていたりする。

「でもなあ、あの、ピタッと16×5とかに収まった瞬間、めっちゃ気持ちいいんだよう」

ぼやきながら、絶滅しかけの技術を使って、キーボードを打っていく。

また新しい夢を見る

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都会のマンションと雲空のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200539128post-27326.html

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

 

10年前の春、わたしは引っ越しをしていた。

ひとりには広すぎる2DK。

郊外の格安物件。

当時、付き合っていた恋人と暮らそうと思い、借りた部屋だった。

とりあえず、わたしの名義で借りて、ひとりで家賃を支払った。

ライターとして独立して5年。

それぐらいの蓄えもできていた。

ずっとほしかった古物の片袖机を買って、窓際に置いた。

「文豪みたい!」

と、手伝いにきてくれた友人ときゃっきゃした。

窓からは、郊外の広い空が見えた。

ここで、彼と新しい暮らしをするのだ。

そして、たくさんの文章を書こう。

 

恋人とはさまざまな話がごたついた。

けっきょく、わたしはその家でひとりで東日本大震災を経験し、

ひとりで引き払うにいたった。

 

ひとりであれぐらいの家賃が払えるならばと、心機一転、都心に越した。

小ぢんまりした2K。

狭いながらも東西南に窓がひらけ、異常なまでに日当たりがよい部屋だった。

そして、広々としたロフトがあった。

蔵書が多いから、ここに本を上げて、図書館みたいにして……。

ベッドを買って、ソファがわりにして、恋人ができたら、そこで毛布にくるまって、映画を見よう。

仕事机の横には出窓があって、隣の古いアパートに這うつたが見えていた。

そこで昼夜を問わず、仕事をした。

 

hei-bon.hatenablog.com

 

明るく開けた部屋に触発されたのか、そのころ、わたしは人生でいちばん活発に他者と交流し、いまの夫と出会った。

 

夫と結婚してもしばらく、その2Kの部屋にいっしょに暮らした。

そのころ、彼と過ごす日々のディティールをわすれたくないと思って、このブログをはじめた。

 

やがて、2Kの部屋が手狭になり、新居探しとあいなった。

夫はなるべく家賃を抑えたく、わたしはなるべく便利な場所に住みたい。

都心の物件では条件が折り合わず、疲れ果てたころ。

不動産屋が持ってきた資料にたまたままぎれていたのが、郊外のとある物件だった。

台所に大きな窓があり、不動産屋が開けると、五月の気持ちよい風が頬をなで、木々がさわさわと鳴った。

夫婦ともにひと目で気に入った。

「将来的には子どもも」と話す我々に、不動産屋は、「ファミリー向けの物件ですから、そのへんも安心ですよ」と笑った。

実際、同じ物件には、ちいさな子がいる家庭が多かった。

緑道の散歩、直売所巡りなど、夫婦だけの郊外での暮らしは思いのほか楽しかった。

キッチンが大きくなったことで、料理をする回数も、品数も増えた。

朝は夫を見送って、ふすまに向けて置いた机に向かい、仕事をした。

現実的なしあわせのなかで、それまで自分のなかで響いていた空想の呼び声が聞こえなくなった。

そのこともふくめ、わたしはブログを書いた。

hei-bon.hatenablog.com

 

 

夫婦ふたりの暮らしはつづき、わたしには毎月、生理がきた。

 

猫を飼いたいね、という話は、夫婦の間では頻繁に出た。

しかし、子どもを持つなら動物を飼うことは避けたかった。

彼もわたしもアレルギー体質で、子が動物アレルギーを発症する可能性は高いように思えるからだ。

ペット可物件は何度か見に行ったが、そこが引っかかって、踏み出せなかった。

hei-bon.hatenablog.com

 

そのうち、コロナ禍が来た。

緑豊かでゆったりと散歩できるスポットがあり、スーパーの敷地も広い郊外は、自粛期間をしのぎやすかった。

夫婦ともに、このエリアでずっと住まいたい、とあらためて思った。

独立して10年以上、はじめて、仕事がストップした。

直売所で買った野菜を調理し、家をかたづけ、ひたすらに暮らしをした。

そうするうちに、結婚以来、影に身をひそめていた空想が、一気にあふれ出す瞬間があった。

わたしは昼夜をわかたず、書いた。

仕事以外の文章を、あんなに熱心に書きつづったのは、いつ以来だろう。

昼は常に、夜は眠りに落ちるまでスマホフリック入力をして、朝はそれを読みたくて起きた。

仕事以外の文章を書くリズムがつくられた。

秋になって仕事が戻ると、その合間に書くようになった。

 

hei-bon.hatenablog.com

 

今年の夏の終わり。

なんとなく近隣のペット可物件を見ていたところ、気になる物件があった。

夫婦ともに在宅仕事が増え、「こうだったらいいな」と思っていた間取り。

馴染みのある生活圏。駅からの近さ。そう高くない家賃。

夫婦で見に行くと、「ここ、いいね」と自然となった。

断わる理由は見つからなかった。

 

というわけで、いま、新居で机に向かい、この文章を書いている。

新しい住まいでは、窓に向けて机を置いた。

晴れた日、窓を全開にして仕事をすると、郊外の広い空が見える。

10年前と似ているな、と、ずいぶん使い込んだ片袖机に向かいながら思う。

猫を飼える契約は結んでいるが、動物はまだ飼っていない。

ほんとうに、飼うのだろうか?

ひょっとして、最後の最後、子どもに恵まれるのだろうか?

それは神のみぞ知る。

 

なんにせよ、わたしはまた新しい夢を見て、相変わらず文章を書いている。

この10年、そのことだけが、変わらない。

鍵をかける

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扉を閉めて、鍵をかける。

ちゃんと閉まっているか、確認する。

そのとき、疑問が浮かぶ。

わたしは、いま、なんのために鍵をかけているのだろう。

 

ところで先日、引っ越しをした。

いつものことながら、引っ越しは嵐のよう。

バタバタとして、今回もあまり計画通りには運ばなかった。

残置物がいくつか出てしまったので、何度か旧居に行き、

運び出したり整理したりしている。

さいわい、新しい住まいはそれほど遠くはない。

 

荷物をあらかた運び出し、あとは掃除を残すだけ、という日。

ひとりで扉を閉めた瞬間、冒頭の疑問が浮かんだ。

守るべき家財はなく、住まった年月なりの汚れと、何匹かの蜘蛛だけが残った部屋に、

わたしはなぜ、鍵をかけているのだろう。

ドアノブをガチャガチャやって、確認までして。

 

もちろん、侵入者があって荒らされては困る、などの理由はいくつか思いつく。

しかし、三日ほどまで住んでいたころ鍵をかけていたのは、そんな理由ではなかったはずだ。

家財を守り、休んでいる最中に不届き者に襲われないこと。

それが施錠の主目的であったはずだ。

 

いま、わたしが鍵をかけた目的は、そのいずれでもない。

繰り返していたから、繰り返しただけの、反射的な行為。

 

そのときわたしは、もうこの部屋の住人ではないのだと悟り、

明日には返却することになっている鍵を、キーケースにしまった。

 

というわけで、今月の目標は、荷解きをすすめること。

もうひとつ、この嵐のような引っ越し余波で、体調を崩さぬことです。

 

 

 

今週のお題「今月の目標」

ホンモノとニセモノのはざま、あるいは「13日の金曜日」から「ジャンク」まで

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フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com) photo by すしぱく


人はなんのためにホラー映画を見るのだろう。

安全な場所で、スリルを楽しむため?

だとしたら、なんのためにスリルが必要なのだろう。

どきどきすることで、生きていることを実感できるから?

すくなくとも、いまいる場所には、命をおびやかす脅威がないと確認できるから?

 

母はホラー映画が大好きだった。

核家族専業主婦ワンオペ育児が当たり前、主婦に求められるクオリティも高かった時代。

幼い子どもをふたり育てながら、いつそういった映画を見ていたのかは、さだかではない。

母はそういった映画を子どもの目に入れないように徹底しつつ、どこかのすき間時間で楽しんでいた。

幼いころから怖いものが苦手なわたしは、強いて見ようとも思わなかったが、たまに、「『13日の金曜日』の新しいやつ、どうやったん?」などと聞いた。

「う~~ん。ジェイソンはなんやかわいそうやったけどねえ……」と、母は気乗りしない感じで感想を口にした。

そして最後は必ずこう言うのだ。

「しょせんはニセモノやから」

 

そんな母は、「衝撃の瞬間!!!!」と煽りがついた、事故映像などを集めたテレビ番組を必ず録画して、やっぱり家族に隠れて見ていた。

心霊、オカルト、ゾンビ、スプラッター。ホラーにもいろいろジャンルはある。

母は雑食で、「ポルターガイスト」も「バタリアン」も見ていたけれど、いちばんは、スプラッターだったのだろう。

それも、できるだけ“ホンモノ”に近い。

 

母は“ホンモノ”を求め、近所のビデオレンタル屋をさまよった。

さまよって、さまよって、当時、“ホンモノ”をうたっていた「ジャンク」というビデオにいきついた。

検索すればすぐに出てくるが、「衝撃の瞬間!!!!」を、ご遺体ふくめて映したような作品だ。

ともあれ、このシリーズ、いまとなってはかなりフェイクもあったと判明している。

 

想像でしかないが、母はどきどきしながら、借りてきたVHSをビデオデッキに飲み込ませたにちがいない。 

 

母がスプラッター映画をぱったり見なくなったのは、その後だった。

それは、わたしが小学校高学年になり、母が外でパートをし始めたころだった。

後年、「なんでスプラッター見るのやめたん?」と尋ねたところ、「むなしなって」と返ってきた。

「『ジャンク』ってあったやろ。あれでグロいもんだけをつづけて見とったらなあ、『わたし、何を求めてたんやろ』って」

 

そしてつづけて言った。

 

「あんたらがちいさいころなあ、揚げものしとると、『このちいさい手、油に入れたら、どんなんなるんやろ』とよう思た。あ、もちろんほんとにはやらへんよ。ぜったいにやらへんのやけど」

 

「ぜったいにやらへん」と母が念押しするほどに、そういうシチュエーションになると、「ぜったいにそんなことを考えてしまった」のだなと、かえって鬼気迫るものを感じた。

兄もわたしも無事育ってよかった。

 

こう書くとかなりエキセントリックな母だが、いや、実際にエキセントリックなのだが、対外的には「人当たりがよくて上品な人」で通っていた。

子どもたちにとってもよい母であろうと、できるかぎりのものを与えようとしていた。食事は三食手作り、おやつもできれば手作り。

部屋はいつもきちんとして、寝る前には毎晩、「不潔のもとになるから」と、シンクの水を一滴残らずふき取った。

年末年始はフルでお節を作る。大掃除はぜったいに手抜かりなく。しめ縄も飾る。

 

父と母のなれそめを聞くと、母は言った。

「あのころはなあ、24、25にもなって結婚してへんと、『売れ残りのクリスマスケーキ』って言われたんよ。職場でもお局様になってしまう。焦っとったなあ」

 

そうして結婚した父は悪い人間ではないのだが……賭け事も酒も浮気もしないのだが……どうにもモラハラ気味で、そのうえ母との相性は悪かった。

どちらかのひと言が火種になって、ほとんどまともに会話がつづかない。

家族旅行へ出かけると、斜め向かいの斉藤さんの家の角を曲がる前に、もうケンカが始まっていた。
 
義実家との仲も最悪。自らの実家、つまりわたしの母方の祖母もある種の毒親だった。何しろ祖母は、幼き日の母が歯磨きを嫌がると、「かわいそう」と言って歯磨きさせるのをやめてしまった人間である。

そんな祖母に子育ての応援など、とても頼めたものではない。

祖母は料理が苦手で、母は「おふくろの味」など受け継いでいない。

結婚してから料理本を山ほど買って勉強した。

子育ても同じこと。家には育児書が何冊もあった。

 

そんな孤立無援の状態で「よき母」をしていた母は、血と臓物が飛び散るスプラッタ映画に、“ホンモノ”に、何を求めていたのだろう。

たぶん、聞いても本人すらわからない。

 

10年ほど前、母に、「インターネットにはとても残酷な動画があるんだよ、“ホンモノ”の」と話したことがある。

「そんなん、よう見やんわ。“ホンモノ”やろ。悲惨やもん。最近は、“ニセモノ”でも見たないわ。あのころ、なんであんなものが見たかったんやろなあ」

 

紆余曲折あって、母はいま、ひとり暮らし。
「若い子なんかにハマったことなかったんやけど」と言いながら韓流アイドルにハマり、『鬼滅の刃』の煉獄さんにハマり、なんだかたいへん楽しそうである。

他人の目から見ると、スプラッターよりも煉獄さんや韓流アイドルのほうがずっとずっと健全に映る。

 

いまも変わらず、ホラー映画やスプラッター映画は制作されつづけている。

人々は吹き出す血と臓物に何を求めているのだろう。

きっと千差万別の理由があろうが、我が母は、なぜスプラッター映画を見ていたのだろう。

あのころの母の年齢を追い越して、ときどきそんなことを考える。

当然、答えはない。

 

 

 

内容としては、以前書いた「母の人生」と共通。

hei-bon.hatenablog.com

母娘は近いだけに理解できないところがあり、大人になり、年を取るほどに彼女の人生を考えてしまうのです。

「お義母さんって何が好きなの?」「アイスかな」

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数年前のこと。

夫と結婚の準備を進めるなか、そのステップがついにやってきた。

義母に挨拶に行く――。

で、手土産である。

 

「お義母さん、何が好きなの?」

「アイスかな」

「じゃあ、ハーゲンダッツ? ゴディバにもアイスクリームあるよね。あ、この間行ったジェラート屋さんでも、持ち帰りができるし……」

 

夫は微妙な表情をしている。

 

「う~ん、そういうんじゃなくてさ、オカンはもっと……」

 

もっとこう、千疋屋のシャーベットみたいなものがいいのだろうか。

それともアメリカンにサーティーワンか。

 

「安いのがいいんだよ。300円ぐらいで8本ぐらい入ってる、“箱アイス”」

「それじゃ、手土産になんないじゃん。

もっと考えて! あるでしょ! 

息子なんだから、知ってるでしょ、好物」

「そう言われてもなあ。ほんとにアイスぐらいしか食べてるところ見ないんだよ」

 

結局、手土産は、昔、どこからかお中元やお歳暮でもらい、家族で楽しみにしていたというヨックモックの「シガール」にした。

「なつかしい! 子どもはみんなこれをストローがわりにして、コーヒーを吸おうとしたわよねえ」

「それで、モロモロになったよなあ」

思い出のある食べ物は、強い。

見事に話を弾ませてくれた。

 

しかし、実家でともに暮らしながら、母親について、「アイスぐらいしか食べているところを見ない」とは。 

このひと大丈夫なのかしらと思ったが、結婚してわかった。

それは事実だった。

 

義実家へ遊びに行くと、義母は、夫にもわたしにも上げ膳据え膳。

何もさせない。

これは夫と義母、ふたりだけのときも同じらしい。

やっと席についても、自分は「料理するときにつまんだのよ」と言って、 あまり食べない。

「お義母さん、刺身食べてます? めっちゃ美味しいですよ」を、表現を変えて3回ぐらい言うと、「そう、じゃあ、いただこうかしら」と一切れつまむ。

何度義実家を訪問しても、義母が いつ何を食べているのか、何が好きなのか、さっぱりわからない。

 

しかし、そんな義母にも、ひとつだけ目の色を変えるものがある。

箱アイスだ。

冷凍庫には、常に棒状のアイス、シューアイスなどを常備。

どれも6~10本入りで300円未満で売られている、安価なものばかり。

箱から出されて保管されているあたり、どこか玄人っぽさを感じさせる。

食後、義母はそれを何本かセレクトし、食卓へ運んでくる。

料理だけではなく、ほかのこと全般、すすめるときは「よかったら……」と遠慮がちな義母。

しかし、このときだけは、「食べるよね」とアイスが供される。

そして、実にうれしそうにアイスを食べる。

ときには2本ぐらい立てつづけに食べることもある。

 

そんなこんなで、わたしも思うのだ。

たしかに、義母は箱アイスが好物だ。

それ以外のものを食べているところはめったに確認できないし、何が好物なのかもよくわからない。

 

一度、夏に義母と和風ファミリーレストランへ行ったときのこと。

料理を選ぶときは、「こんなに食べられるかしら」と不安そうだった義母が、あるメニューを見たとき、「あら!」と目を輝かせた。

そこには、かき氷が掲載されていた。

「かき氷ですって! あなたたちも頼みなさい」

料理の量を気にしていたのが嘘のよう。

義母は、迷いなくかき氷をオーダーした。

食後に「いちご練乳かき氷」をほおばりながら、「最近のファミリーレストランは、いろんなものが置いてあるのねえ」と義母はしきりと言っていた。

冷たいもの全般が好きなのかもしれない。

ただし、いま流行りの、1000円ぐらいするかき氷は喜ばない気がする。なんとなく。

 

そしてその息子たる夫は、やはり箱アイスが好きだ。

冷凍庫には、箱アイスを常備。

夫はショートケーキのいちごを最後に食べるタイプだが、アイスだけは別。

「俺はアイスを食べ過ぎる……」と、一日一本だけと決めているらしいが、休日ともなれば朝から一本食べてしまい、夜にうめくことになる。

気軽さが大事なようで、心置きなく食べられる安価な箱アイスを愛している。

 

わたし自身は箱アイスではなく、1個100円ほどのアイスを、食べたいときだけ買ってくるスタイルだ。

たまに食べるには、箱アイスは、ちょっとさみしく感じてしまう。

 

最近、そんな夫とわたし、両方にほどよくフィットするアイスを見つけた。

シャトレーゼの「チョコバッキー」である。

大きさは、スーパーで売っている70円のアイスぐらい。

バニラアイスのなかに、ランダムに砕かれたチョコが入っており、この食感が楽しい。

値段は6本で税込302円也。

箱アイスよりやや高いが、気楽に食べられる範疇だ。

www.chateraise.co.jp

 

コロナ禍にあって、もう一年以上、我々は義母に会えていない。

ときおり電話をしているが、やはり、「食後のアイスに目の色を変え、アイスだけはちょっと強引にすすめてくる」みたいなテンションは、実際に会い、空間を共にしないと体験することはできない。

家族全員がワクチンを2回接種すれば……と思っていたが、デルタ株の大流行で、見通しは立たない。

この夏中には、義母に会うことは叶わないかもしれない。

そんなことを考えながら、わたしは「チョコバッキー」をかじる。

 

幸いなのは、義母のアイス熱は季節性ではないことだ。

春夏秋冬、箱アイスとなればテンションが上がる。

この夏は無理でも、秋には、冬には……。

次、会うときは、「チョコバッキー」を手土産にしたいと思う。

 

今週のお題「好きなアイス」

記憶の飛び火

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夫の横顔が好きだ。

額から鼻にかけてのラインが、なんというかイラスト的な稜線を描いていると、いつも思う。

それでいて線が細すぎない。

漫画家の絵でいうなら、きたがわ翔か、あるいは……。

 

ある日、「夫の鼻筋はきれいやなあ」と口に出してみた。

夫は照れてふふっと笑ったあと、はっきりとした目つきで、「あ、いま、急に思い出した」と言った。

 

「親父が亡くなって、棺のなかの顔を見たとき。『きれいな鼻してる』って思った」

 

結婚したとき、義父はすでに鬼籍に入っていたので、わたしは彼に会ったことはない。

写真のなかの義父は、全体としては、夫にあまり似ていない。

ただ、眉から鼻筋にかけてのラインは、かなり近いものがある。

 

「いままで親父の鼻のことなんて、忘れていたのに」

 

夫はぽつりと言う。

たぶん、その日見た、父親の顔のことを思い出しながら。

わたしは、目の前のひとの鼻筋から、もう会うことのできないひとの鼻筋を思い浮かべている。

 

なんてことない日、生活感あふれる部屋で起こる、記憶の飛び火。

それが線香花火のようにちかちかまたたいて、何かをあえかに浮かび上がらせる。

ひとと暮らしていると、ごくまれに、そういうことが起こる。

それがおもしろいな、と思う。