そのツイートを見たとき、自分が絶滅危惧種になったことを悟った。
久々に「婦人画報」を手にとると、ほぼすべての写真キャプションが文字数ピッタリに書かれてるところに目が吸い寄せられてしまうんだよないつも。きもちいい〜〜、と、こえ〜〜〜〜をいったりきたり。文章力は鍛えられますねこれは。 pic.twitter.com/nesfZlAWNX
— 伊藤ガビン (@gabin) 2020年12月29日
この、レイアウト上の文字数ぴったりに書くこと。
これを「ハコで書く」と言う。
わたしはライターで、主戦場は紙の雑誌で、そして、我が戦場でも、「ハコ」がマストのところはある。
「ハコ」がマストでない媒体で書くときも、紙雑誌のライターは、たいてい「ハコに近いほうがベターである」感覚を持っていると思う。
ひとつは、見た目のおさまりがいいから。
ふたつめは、限られた文字数いっぱい使って情報を伝えるため。
上記ツイートのリプライで解説している方もいる通り、もともとは手書き原稿×写植時代がルーツのようだが、
同年代のライターは、だいたい見た目と情報量の兼ね合いで「ハコがベター」と感じていると思う。
駆け出しのころは、リリースをまとめ、120字程度の原稿を作る、なんて仕事を山ほどやった。
今でもキャプションを大量に書く仕事、というのはある。
なので、15字×8行ぴったりに、一発でおさめる、なんてことはけっこう得意だ。
上記ツイートを見たとき、それが「めずらしいこと」になっていると、はじめて気がついた。
リプライを見ると、「ほんとだ!」「なんでだろ!」「すごい!」と、かなり特殊なこととして扱われていたからだ。
雑誌全盛期でさえ、「ハコ」なんて気にせず読んでいた読者は多いだろう。
それでも、時代が違えば、もうちょっと反応も違うのではあるまいか。
「ああ、こういうの雑誌でときどき見るよね!」みたいな……。
そんなふうに紙の雑誌の慣習どっぷりのわたしだが、近年、たしかに「ハコにする」機会は減っていると感じる。
理由のひとつは、紙媒体の製作体制の変化だ。
DTPオペレーターではなく、編集者自身がレイアウトにテキストを流し込むことが増えた。
それにつれ、DTPソフトのカーニングの具合で、ライターの手もとの計算だけでは、ハコにならないケースが多くなったのだ。
何より、紙雑誌の売り上げがどんどん落ち、ネットに移行していくなか、「ハコ」や「字数」などという概念はもはや意味をなさない。
それはわかっていた。
「Web媒体は文字数制限ないから、かえってやりづらいね~」
「でも、いままで泣く泣く削っていた話を入れられるのは楽しいね」
なんて、同業者とはよく話す。
そして、ハコで書ける技術なんて、たいしたことはない。
問われるのは、記事の中身なのだから。
それでも、ある程度のテキストなら、すばやく文字数ぴったりに収められる技術、というのは、それなりに役に立ってきた。
ワープロがパソコンになり、携帯がスマートフォンになり、校正の修正は赤字ではなく、DTPソフトで直接打ち込む……といった、技術の進歩により“外面的”な何かが変わること、には慣れている。
しかし、その流れのなかで、自分が体得した技術が、いつの間にか珍しいものになるとは、考えたことがなかった。
Webの台頭により、「ハコにする技術」は消えていく。
手書き原稿がワープロになり、写植がDTPになったときも、きっと同様のことが起こったのだろう。
そのすべてを体験し、数年前に定年退職した編集者が言っていた。
「この間、Web記事作成講座を受けたの!
デジカメでちょちょっと写真を撮って、自分でササッと文章を書けば、記事がアップできる。
知っていたけれど、あんなに簡単だとは思わなかった。
クオリティだって悪くない。
いい時代だよね」
彼女は子どものころから雑誌フリークで、高校のときから、いまでいうZINEのようなものをつくっていたという。
そして、定年後のいまも、編集者の仕事を、実に楽しそうにつづけている。
ハコにする技術が滅びても。
紙媒体が滅びても。
発信して需要がある情報がある限り、この仕事はなくならない。
ハコにする技術は滅びても、"紙"ライターでなくなっても、"ライター"部分は生きる。
生き残れるはず。
これからも、わたしは書いて生きていかねばならないのだから。
などと書いたものの、今夜もわたしは15×8の原稿を複数書く仕事を抱えていたりする。
「でもなあ、あの、ピタッと16×5とかに収まった瞬間、めっちゃ気持ちいいんだよう」
ぼやきながら、絶滅しかけの技術を使って、キーボードを打っていく。