平凡

平凡

絶滅危惧種、その名は“紙”ライター

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ノートパソコンの前でお座りして固まる猫のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210942245post-36490.html

 

そのツイートを見たとき、自分が絶滅危惧種になったことを悟った。

 

 

 

この、レイアウト上の文字数ぴったりに書くこと。

これを「ハコで書く」と言う。

わたしはライターで、主戦場は紙の雑誌で、そして、我が戦場でも、「ハコ」がマストのところはある。

「ハコ」がマストでない媒体で書くときも、紙雑誌のライターは、たいてい「ハコに近いほうがベターである」感覚を持っていると思う。

ひとつは、見た目のおさまりがいいから。

ふたつめは、限られた文字数いっぱい使って情報を伝えるため。

上記ツイートのリプライで解説している方もいる通り、もともとは手書き原稿×写植時代がルーツのようだが、

同年代のライターは、だいたい見た目と情報量の兼ね合いで「ハコがベター」と感じていると思う。

 

駆け出しのころは、リリースをまとめ、120字程度の原稿を作る、なんて仕事を山ほどやった。

今でもキャプションを大量に書く仕事、というのはある。

なので、15字×8行ぴったりに、一発でおさめる、なんてことはけっこう得意だ。

 

上記ツイートを見たとき、それが「めずらしいこと」になっていると、はじめて気がついた。

リプライを見ると、「ほんとだ!」「なんでだろ!」「すごい!」と、かなり特殊なこととして扱われていたからだ。

 

雑誌全盛期でさえ、「ハコ」なんて気にせず読んでいた読者は多いだろう。

それでも、時代が違えば、もうちょっと反応も違うのではあるまいか。

「ああ、こういうの雑誌でときどき見るよね!」みたいな……。

 

そんなふうに紙の雑誌の慣習どっぷりのわたしだが、近年、たしかに「ハコにする」機会は減っていると感じる。

理由のひとつは、紙媒体の製作体制の変化だ。

DTPオペレーターではなく、編集者自身がレイアウトにテキストを流し込むことが増えた。

それにつれ、DTPソフトのカーニングの具合で、ライターの手もとの計算だけでは、ハコにならないケースが多くなったのだ。

 

何より、紙雑誌の売り上げがどんどん落ち、ネットに移行していくなか、「ハコ」や「字数」などという概念はもはや意味をなさない。

それはわかっていた。

「Web媒体は文字数制限ないから、かえってやりづらいね~」

「でも、いままで泣く泣く削っていた話を入れられるのは楽しいね」

なんて、同業者とはよく話す。

そして、ハコで書ける技術なんて、たいしたことはない。

問われるのは、記事の中身なのだから。

それでも、ある程度のテキストなら、すばやく文字数ぴったりに収められる技術、というのは、それなりに役に立ってきた。

 

ワープロがパソコンになり、携帯がスマートフォンになり、校正の修正は赤字ではなく、DTPソフトで直接打ち込む……といった、技術の進歩により“外面的”な何かが変わること、には慣れている。

しかし、その流れのなかで、自分が体得した技術が、いつの間にか珍しいものになるとは、考えたことがなかった。

 

Webの台頭により、「ハコにする技術」は消えていく。

手書き原稿がワープロになり、写植がDTPになったときも、きっと同様のことが起こったのだろう。

そのすべてを体験し、数年前に定年退職した編集者が言っていた。

「この間、Web記事作成講座を受けたの! 

デジカメでちょちょっと写真を撮って、自分でササッと文章を書けば、記事がアップできる。

知っていたけれど、あんなに簡単だとは思わなかった。

クオリティだって悪くない。

いい時代だよね」

彼女は子どものころから雑誌フリークで、高校のときから、いまでいうZINEのようなものをつくっていたという。

そして、定年後のいまも、編集者の仕事を、実に楽しそうにつづけている。

 

ハコにする技術が滅びても。

紙媒体が滅びても。

発信して需要がある情報がある限り、この仕事はなくならない。

ハコにする技術は滅びても、"紙"ライターでなくなっても、"ライター"部分は生きる。

生き残れるはず。

これからも、わたしは書いて生きていかねばならないのだから。

 

などと書いたものの、今夜もわたしは15×8の原稿を複数書く仕事を抱えていたりする。

「でもなあ、あの、ピタッと16×5とかに収まった瞬間、めっちゃ気持ちいいんだよう」

ぼやきながら、絶滅しかけの技術を使って、キーボードを打っていく。