平凡

平凡

自分の文章が下手過ぎて笑っちゃった話からの、結局、文章は中身って話

とにかく書く。

いろいろ書いてみる。

思い浮かんだら、断片でもいいから、形にしてみる。

 

ブログにつづってているような雑文も、何かの断片になるかもしれない(ならないかもしれない)文章も、とにかく思い浮かんだらなんでも書いてみる。

そんなふうに、自分なりにフットワークが軽くなったのは、ここ2年ぐらいのこと。

 

きっかけははっきりしている。

創作メモを読み返していたら、主人公が熊と対峙するシーンに、「身の丈2メートルはある! 大きい!」と書いてあったことだ。

「ええええ、そのままやん……」

思わずお国言葉が飛び出した。

中学時代に書いたものではない。

ここ3年以内、いい大人になってからのもの。

しかも、メモとはいえ、緊迫したシーンの描写として書かれたものだった。

あぜんとしたのち、思わずゲラゲラ笑ってしまった。

「わたし、むっちゃ下手くそやん!」

なーんだ、ぜんぜん下手だ。

あまりのダメさに笑う。そんなこともあるのだ。

 

それ以来、なんであれ、書くことが楽しくなった。

どうせ下手なのだ。

書かないでどうする。

下手さを見つめないでどうする。

書いたところで、この下手さはどうこうできないかもしれない。

が、書かないままでいて、突如として「文才」なるものが芽生えることは、絶対にない。

「もうちょっと上手くなってから」「いつか」と言っている時間は、もうない。

「仕事以外には書かない」と決めるなら辞めてもいいが、どうせ書いてしまうのだ。

せいぜい精進したまえよ、ハハハ。

 

もちろん、書くだけではなく、自分なりの文章修行やインプットは必要だ。

漫然と書いているだけでは、上手くならない。

ただ、「書く」は上達の必要条件だ。

 

「書く」フットワークを軽くすると、頭の中にあるモヤッとしたものを、モヤッとしたまま外に出すことになる。

これは、けっこうストレスを感じるものだ。

その点では、

「とりあえず書いてみる」

「上手くまとまらないときはとにかく手を動かす。『書こうと思っていること』を箇条書きにする」

「箇条書きにした要素を読み返してみる」

「資料を読み返してみる」

など、仕事のライティングで慣れ親しんだ行動が役に立ってくれている。

 

そうやって頭から出したものを読みながら、うっすらと絶望する。

文章で大事なのは、究極的には「何が書いてあるか」だからだ。

「身の丈2メートル超の熊と向き合った主人公がもらす、驚きのことば」をもっと上手く書けたとしても、

その物語が人の感情を揺り動かさなければ、意味がない。

 

当たり前だが、「文章の中身」を規定するのは、文章の上手い、下手ではない。*1

書き手自身の内面やその掘り下げ、あるいはそこに含まれる情報量だ。

見えていない情景は、書くことができない。

取材が足りないリポート記事は、読むに値しない。

思考が浅い論評は、新たな視点を示すことがない。

それらを隠すことができる「表向きの文章の上手さ」は存在しない。

 

逆に言えば、

感動的な物語が提示できていれば、

情景がつぶさに想像できていれば、

取材によりじゅうぶんな情報が得られていれば、

深い思考ができていれば、

多少の文の巧拙など問題ではない。*2

 

わたしが「身の丈2メートルはある! 大きい!」にゲラゲラ笑ってしまったのは、はっきり言ってしまえば、浅く、つまらないからだ。

主人公の驚きを、場の緊迫感を想像できていないことが、その一文から伝わってきたからだ。

それらが伝わってきさえすれば、「大きい!」でもなんでもいいのだ。

「稚拙だな」とは思っても、笑いはしなかっただろう。

 

文章は、意外と嘘はつけない。

書けば必ず、思考の浅さ深さ、情報の多さ少なさが白日のもとにさらされる。

 

その意味では、書くこととは、内面を見つめることだ。

そしてそれを他者に見せる(届ける)のは、広義のコミュニケーションだ。

文章を書いていれば必ず、内面との向き合い方、他者との向き合い方が問われる局面がある。

 

浅い、ちいさい、つまらない。

情報量が足りない。

他者に対して閉じていて、開き方がわからない。

こんなに長年やっているのに?

書けば書くほど、げんなりする。

と、同時に気楽にもなる。

「こんなに下手なのに、手を止めちゃうの?」

当たって砕けろ。

残された時間は短いけれど。

 

そんなことが、読書猿氏のブログに、ズバリ書かれていた。

readingmonkey.blog.fc2.com

 

上記のエントリーを読んで思い出したのは、ある人にインタビューしたときのことだ。

多くの人が憧れる職業につき、第一線で活躍するその人は言った。

「学校を卒業するとき、いまの仕事を目指すのをやめて、就職も考えました」

わたしは不思議だった。

その人のキャリアを振り返ると、学校を卒業する年齢には、すでに頭角を現しているように思えたからだ。

尋ねると、こう返ってきた。

「今の仕事はぜんぜん上手くできなくて、落ち込むことばかりでした。

就職を考えたのは、きっと、努力しないで、なんとなく上手くできる自分のままでいたかったんでしょうね」

 

「努力しないで、なんとなく上手くできる自分でいたい」。

ああ、わかる。

才気あふれ、努力を惜しまぬその人とわたしは違うけれど。

でも、わかる。

挑戦しなければ、ずっと「努力しないで、なんとなく上手くできる自分」でいられるのだ。

それは、幻なのだけど。

 

書くことや夢を叶えることに限らず、何かを得たいと思ったら、いつかはその幻から抜け出さねばならない。

世間の多くの人は、とっくにそこから抜け出しているのだろう。

 

ずいぶん遅い目覚めだけれど、わたしはわたしのままやるしかない。

わたしはわたし以外のものにはなれない。

この年齢になれば、その「わたし」を育てのも、また「わたし」であることもわかっている。

いままで培ったものも総動員して、凡人には凡人の戦いを。

そんなことを考えながら、「平凡」という名のブログをつづっている。*3

 

そんなわけで。

本年は当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

*1:逆に、中身は文章の上手い、下手をある程度規定すると思う

*2:もちろん内面にあるものを引き出せるかどうかも、文の巧拙の一種ではあるが

*3:ブログ名の「平凡」は、平凡な暮らしの喜びを綴る、といった意味合いで、それはいまも変わりません。ただ、こんなことを強く感じ始めた今となっては、このブログ名は示唆的だったなと思います