「頭のなかにあるうちは傑作。書いたら駄作」
とは、創作界隈ではよく言われることば。
つまり、構想しているときは名作になりそうなのに、興奮して書きはじめると、そうでもない……。
ブログでも小説でもなんでもそうだ。
なんなら、仕事で書く原稿でも、そういうことがある。
さすがに仕事は数をこなしているので、ギャップを感じる機会はすくないし、感じても断崖絶壁レベルではないけれど。
とにかく、「書きたくて書く」文章については、
「こういういい感じの情感を込めよう! エモい!」
「これはかっこいいシーンになるぞう!」からの、
「こんなはずじゃなかった……」の繰り返しだ。
自分のなかからアウトプットした時点で、まず、その落胆がある。
めげずに自作をネットの海に放流すれば、第二の落胆がある。
同じお題で書いた他人の文章を読んで、ひねりや技量、あるいはとんでもなく力強いストレートに驚愕し、かえりみて自分は……と落ち込んだり、
他者からの反応の多寡で、自分の立ち位置がわかってしまうこともある。
すみません。
「こともある」は嘘です。
そんなことばっかりです。
不思議なのは、
「書かなきゃよかった」
「ずっと頭のなかに納めておけばよかった」
「誰の目にもふれさせず、ローカル保存しておけばよかった」
とは思わないこと。
結果がしょっぱくても、また書いて、発表しようと思う。
立ち位置がわかるのはつらい。
上手く書けないのは情けない。
「才能がない」と直視するのは痛い。
それでも、また打席に立ちたいと思う。
ボールを投げたいと思う。
できることなら、次はもうすこしだけでも上手く、ほんのすこしだけでもひとの心を打つものを。
超速球を投げ、打席に入ればホームラン連発、いつも観客をわかせている、てな剛腕な書き手は別として。
おそらく、ネットで文章を発表しているひとの多くは、同じようなメンタリティを持っているのではないかと思う。
ただ、自分自身に関しては――。
嫌なことは極力やらない。根性がない。気力がない。
会社員時代は、通勤が嫌過ぎて、会社の近くに引っ越した。
そんなわたしが、どうしてそのようなメンタリティを持てるのかは皆目わからない。
書くことの不思議。
「書くことには、それだけの魔力がある」なんてピンとこない。
「書く」のはコミュニケーションの一手段だ。
なのに、どうして我々は、いや、わたしは、虚空に向けてボールを投げつづけてしまうのか。
あるかないかもわからないボールにバットを振りつづけているのか。
理由も機序も何もわからない。
頭のなかにある妄想も、胸をしめつけるあの想いも、取材に行ったいい感じの店の「いい感じ」も、ぜんぶ書きたい。
元気に思考できるうちは、できるだけ長く書いて、できるだけ遠くへ届けたい。
人生の残り時間を頭の片隅に、手書きで、ブラインドタッチで、フリック入力で、何かを書きつづっている。