平凡

平凡

自由に書く、しばられて書く

なんだかんだ、このブログをはじめてから1年半ほどが経過した。

更新間隔が1か月に1回という時期もあったので、

「続けている!」と実感があるわけではない。

それでも、はじめたころの記事は、すでに内容を忘れていたりして、

ああ、それなりに持続したのだなという気持ちになる。

(読めば思い出すが)

 

本数をこなそうとは思っていないし、

更新頻度も決めてはいないのだが、

実際に書いてみての実感として、

更新頻度を高くする、または一定に保つのは、そうとう難しい。

 

そういうことをやりたいかは別にして、

短期間で100記事書きました! なんて人を見ると、

すごいなと思う。

ひとつひとつの記事が内容が薄かったとしても、

完結させた何かを作るのはそれなりに労力がいる。

それを、100本ノックしているわけだ。

 

ところで、事情あって、わたしは制約のある文章を書くことに慣れている。

縛りの中ではそこそこ上手くまとめる自信はあるが、

反面、縛りの外へ出ることが、すっかり苦手になっていた。

ネット上の文章、とくにブログを読んでいると、

容れ物に自分をいれたことがないからこその

飛び跳ねるような自由な表現、飛躍、いきいきとした文章に出会うことがある。

うらやましく、まぶしく思う。

 

ただし、何度か書いているが、わたしは仕事にせよ文章にせよ、

縛りがあるのは悪いことではないと思っている。

制約のある中で、クオリティを高めるのは楽しい。

また、型にはめても、どうしようもなくにじむ個性も、確実にある。

自分を黒子にすることで、何かの魅力を伝えられることもある。


 http://hei-bon.hatenablog.com/entry/2016/03/10/180000

「縛り」と「自由」について書いた記事。


しかし、いちばんの理想は、

制約があることも、自由なことも楽しめることではないのか。

制約があるときはきっちりとそれを守り、そこにやりがいを感じる。

自由に書くときは、枷を外して、

型にはめていたときとは違った発想、表現を使って書く。

両方を行き来できたらいい。

一定期間、ブログを書き続けたことで、

そう思うようになった。

 

世間の多くの人が、

「制約があるのはかわいそう、本意ではないこと」

「自由は善」と漠然と思っているのと鏡合わせで、

わたしは「制約があるのは善」「自由は悪ではないにしても、自分には必要がない」と

思い込んでいたのかもしれない。

 

最近、ブログを書くのが楽になった。

頭の中にあるテーマを、外にアウトプットすることに慣れたのだろう。

縛りの外へ出られているとは思わないが、

「自由に書く」ということ自体に、すこし慣れてきたのだろう。

 

世の中には、いろいろなブログを書いている人がいる。

ティップスを与えてくれるもの、

読んだ本について書いているもの、

日記や雑記、

学習について、

プログラミングについて、

アフィリエイト至上主義、

有名無名いろいろあるけれど、ひとまず、

どんなことでも書けるというのは、すばらしいことだ。

中身のない記事があったとして、

それが発表され得ることは豊かだと思う。

もっとも、検索結果が無駄な情報で溢れるのは問題であるが。


わたしのブログも、その豊かさの中でこそ、存在し得ている。

このブログのような内容を、世の中に発する意味があるのかと思うこともあるが、

すくなくともわたしのなかでは、「自由に書くこと」に対しての、変化があった。

書くことに限らないが、自由に振る舞うにも、それなりに慣れと技術がいるのだと思う。

そのことに気が付けただけでも、わたしにとって、このブログは意味がある。

 

また、たいへんに個人的な内容にも関わらず、

アクセスがあり、読んでくださる方がいる。

これは、すごいことで、ありがたいことだと思う。

そのすごさ、ありがたさは、数の多寡は関係がないの。

これもやってみて、感じたことだ。

 

これからも、明日には忘れてしまいそうな日常の出来事を、

あまり何も考えず、綴って行こう。

そうすることで、自分なりの自由を獲得していけたらいいと思っている。