書き慣れちゃったなあ、と思う。
上手い、下手は別にして。
わたしは書くのが遅いけれど、それでも説明的なエントリーなら、書き上げ時間の目測がつく。
最近では、「どうまとめていいんだ!?」と迷うことはあっても、「これはいつになったら書き上げられるんだ!?」と、茫然とすることはあまりない。
迷ったときは、即「じゃあ、いらないものをそぎ落として、まとめられるような形にしよう」と考え、実際、そうする。
問題に対して解決法がある――すばらしいのではないか?
そう思う一方で、「これでいいのか」という思いがある。
「文章に悩んだときのTips」(https://hei-bon.hatenablog.com/entry/2022/01/06/070000)とかアップしておきながら矛盾しているようだけれど。
上記エントリーにあるTipsは、「頭のなかにある抽象的なものをいかにアウトプットするか」を考え、試し、長年かけて編みだしたものだ。
しかし、それがこぎれいにまとめる技術になっていないか。
「こぎれいにまとめる技術」それ自体はじゃまになるものではない。
けど、それ「だけ」でいいのか。
世の中はわたしにとって、そんなに簡単に書けることであふれているのか?
解像度が低いんじゃないのか?
Tipsを使ってなお迷いに迷う。そんな経験がなくていいのか?
評論的な文章、エモい文章。
何を書くにしても、どこかで「書けないことを書こうとする」プロセスはぜったいに必要なのだと思う。
ひとつの語句を選ぶたび、頭をガツンガツンぶつけるように考えなければならない、そんな文章。
と思うのは自分の文章に対してであって、他人の文章はどんなタイプのものでもみずみずしく、「生」あるものに思える。
だからいろいろなブログを訪れる。
誰かの広がりのある人生。
ほかの方のブログ記事は、その一部を切り取った尊いもののように感じる。
ただ、自分の文章に関しては、あくまで自分から出たものだ。
書き慣れて、「自分が書ける範囲でしか、世界を見ない」ことはおそろしい。
文章には、その人の世界の見方が反映される。逆もまたしかり。
世界の見方が、文章に反映されることもあるだろう。
とはいえ机上で嘆いて思考を空回りさせるのは、得策ではない。
動くこと。
外に出て、人に会って、書物を読んで、映像含め、さまざまな作品にふれてインプットすること。
椅子に座るなら、不完全でもいいから何かを書くこと。読むこと。
――とかなんとか書いて、下書きにしまいこんだのは数ヶ月前だった。
今日は、「ああああっ」と叫び、ひっくり返ってしまった*1。
一年ほど前に書いた文章を読み返したら、あまりにもあまりにも……な不備を見つけたのだ。
そのうえ客観的に見て、文章がつたない。心の奥底がカタカタ震えるほどにつたない(ブログもつたないが、この件はブログ以外)。
「心の奥底が震える」って感動に使う表現じゃないのか……。
つたなさを客観視した動揺が、いまも指先を冷たくする。
こうして書く文章は何かが足らない。
それがいままでの生き方、取り組み方の帰結であることもわかる。
しかし、何を書くとしても、公開せずに閉鎖空間で素振りをしていたら、ぜったいに前に進めない。
昔読んだ五木寛之氏の著書には、「『あきらめる』の本来の意味は、『あきらかに見る』こと」と書いてあったような記憶がある。
書いて、丸出しになったものを「あきらかに見る」。「これがいまの自分だ」とあきらめて飲みくだす。
苦さにくらくらしながら、よりよきものをつかむための方法を考えられたら。
ひとつだけたしかかなのは、その「方法」とやらが魔法のようなものではないことだ。
明日もEvernoteに何か書こう。エディターを開こう。読もう。歩こう。考えよう。
結局は、それしかできることはないのだから。
大みそかに、こんなエントリーを書いた。
自分の文章が下手過ぎて笑っちゃった話からの、結局、文章は中身って話 - 平凡
今年は何度自分の文章の下手さに思わず笑い、声をあげ、頭を抱え、肩を落とすんだろう。</p>
願わくば、その先に何かが見えますように。
《ノートにメモをする女性のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210434106post-34389.html》
*1:ほんとに声が出たので自分自身驚いた