平凡

平凡

昨日より今日、ほんの少しだけ成長していればいい。それでいい、それがいい。大人だから。

10か月ほど、ずっと絵を描いている。

描き始めた経緯はここにある通りで、ほんのささいなことだった。

 

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描く前に考えていた「描く」と、やってみての「描く」はまったく違うし、描くほどに自分の目が変わっていくことはおもしろい。

その発見を自分の得意分野である文章でしたため、同人誌にまとめ……としているうちに10カ月が経ったのだった。

 

とはいえ、絵に関する取り組みは細々としたものだ。わたしは基本的に「文の人」なので、小説も書きたいし、そのための鍛錬もしたい。ことに「お絵描き体験をまとめた同人誌」制作に集中した秋ごろは、お絵描きは二の次にならざるをえなかった。

 

描いているものは時期によって違い、2024年の春から夏までは動物の模写絵をデジタルで描き、夏以降は主に鉛筆とコピー用紙でスケッチやジェスドロ(ポーズを素早く描く練習)を中心にやっている。

 

なかでもいちばん長く続いているのは、8月からはじめた夫のスケッチだ。夕食後に描いていたところ習慣化し、ほぼ毎日……仕事や同人誌原稿に追われているときも3日と空けずに描いてはいた。

 

「夫を描く」といっても、夕食後、くつろぐ夫をササッと15分ぐらいで描くだけのこと。意図して動かない、というのもなかなか大変なものだ。だから、描くのはせいぜい1ポーズ。

 

2024年8月16日にはじめて描いた夫のスケッチ

 

わたしは立体をまだよく把握できないので、できあがる絵は極めて平面的だ。毎日、

「ちょっと上手くいったかも!」

「指がいい感じだね」

「今日はなんかムクムクした体形になっちゃったよ……」

「ほんとだ! 俺、冷蔵庫みたいな体形してる!」

と夫婦で会話をかわして楽しんではいるけれど、「毎日の積み重ねで、めきめき成長!」といった実感はまったくなかった。

 

「冷蔵庫のよう」と評された絵。2024年10月17日

 

そんなこんなで迎えた年末年始。すこし時間ができたので、デジタルでのお絵描きを再開した。ペンタブを出すのはおそらく1カ月以上ぶり。

 

デジタルのお絵描きは、慣れていないわたしにはやや「重い」ものだ。ペンブラシから塗り方、レイヤーの分け方まで、選択しなければならないことが膨大で、色塗りはどうやっていいのかまったくわからない。

対して、アナログのスケッチは彩色もなく、鉛筆でササッと描くだけ。楽ちんでシンプルなのだ。

 

しかし……散歩中に見かけたカルガモ、直売所で見つけた葉付き大根を持つ夫など、ここ最近「描いてみたい」と思ったものを描いてみたところ、案外すいすいと描ける。

決して上手くなったわけではないのだが、以前は感じていた「重さ」がない。

 

2025年1月2日に描いたカルガモの絵。散歩中に撮影した写真を参考に

 

そこで気がついたのは、線を引くことへの抵抗がなくなっていることだった。

 

絵を描く前には想像もしなかったことだが、線を引くのは非常に難しい。単純な一本の線であっても、思ったように引くことも、それに強弱をつけることも、何もかもが難しい。その「線」でものの輪郭を描こうとするなら、なおさらだ。

 

「線を引くのが難しいよー」とお絵描き歴10ヶ月のわたしがSNSで嘆けば、絵がべらぼうに上手い人たちから共感を示すレスポンスが返ってくる。それほどに「線」を引くことは奥深いのだろう。

 

だから、もちろん、たかが10か月で思ったような線が引けるわけがない。それでも、線を引くときの「ぐぬぬ……」という抵抗感がなくなっている。「上手い」「下手」の手前に、「抵抗がなくなる」「慣れる」があるのだということを、はじめて知った。

 

思えば、文章もそうかもしれない。ライターになる前は、文章を書くことはそれなりに特別なことだったように思う。「書く」を仕事にしてしまってからは、パソコンを立ち上げ、文書作成ソフトに文章を打ち込むことはごくごく日常的なことで、そこには「よいしょ」と腰をあげたり、モチベーションに左右されるような要素がほぼない(もちろんまったくないわけではないが)。

パソコンの前に座る気力がなければ、手元のスマートフォンに、あるいは裏紙にペンで、箇条書きでもいいので書きつければよい。そのように「分割」だってできる。

ライター仕事と創作的な文章では、ずいぶん書く内容が違うのだけれど、そういった「軽さ」や「慣れ」は、文章を書くこと全般に波及している。

 

「描く」にも、そういった「慣れ」のゾーンがあるのだろう。

 

線を引くとき、「やりにくいことをやっているぞ……」という体感がない。だから線画に集中できるし、気楽にできる。また、いつのまにか、「形を取る」ことにも慣れていた。これも線と同じだ。上手くはできない。でも、とりあえず「抵抗感」は低減した。

 

そういった「摩擦」のようなものが軽減した結果、「デジタルは『重い』」という感覚がなくなったのだろう。

 

板タブにペンを走らせながら、スケッチも無駄ではなかったのだ、と感じる。

1日たった15分。ときには2日空いてしまう日もある……しかもたいして上手くなっている気もしない。遊びの延長のように、目の前にいるひとりの人物を描いているだけ。でも、無駄じゃなかった。手を動かしたことで、何かが確実に変わっている。しかし、その「進化」はとても目に見えにくい。わたしの手だけが知っている。

 

それがおもしろかったので、1月1日からは夫のスケッチを意図的に、毎日、切らさずにやるようにしている。まだ10日あまりだが、それでも、「あっ、体重が乗っているって感じるかも!」という出来栄えのものがいくつか描けた。

 

体重が乗っている感じがする! と感動した2025年1月8日のスケッチ

 

ためしに、めったに描かないキャラクターのイラストを描いてみると、前よりはましになっている気がする。

 

久しぶりに描いたキャラ絵。厨二満開な感じ

 

何かを続けるとき、わたしは基本的に、「途切れても気にしない」をモットーとしている。「ああ、今日、できなかったな」と自分を責めるのは、長期的な持続のためには邪魔にしかならないからだ。習慣が続かないときに有効なのは、自分を責めることではなく、「毎日続けやすいよう、『やること』をよりスモールサイズにする」「すぐできるように準備をしておく」などの環境づくりだと思う。だから、途切れても責めない。気にしない。とにかく「まったくやらなくなる」ことだけを回避すればよい。

 

そんなふうに途切れることを許しながら持続している期間は、成長が鈍ることが多い。ただダラダラ続けているだけじゃないの? これでいいの? と思うこともある。でも、無駄じゃない、とスケッチは教えてくれた。

 

たとえ途切れず毎日続けても、何かがいきなり上達したりはしない。感じる手応えは本当にわずかなものだ。

絵であれば、持続してやっと手に入るのは「上手い絵」ではなく、「線を引くのが楽になったな」というささやかな実感だけ。その地味な段階がえんえん続いて、いつか「ちょっとだけ絵、変わったかも」があり、そのずっと先に、「絵、ちょっと上手くなったかも」があるのだろう。

 

そして、やればやるほど、「上手い絵」への距離が遠いことだけがはっきりと見えてくる。その距離は、描く前に想像したものよりも、ずっと遠い。

 

だから、わたしがこの年末年始に感じた成長の手応えはたとえるなら――土の中に広大な巣を作りたい蟻が砂をひとつ粒、ふたつ粒かき出して積み上げた。そんなところ。

 

でも、それでいい。それがいい。

広大な巣を作るには、まずは砂のひと粒から。それがよくわかっているのだ、大人だから。

 

2025年1月9日のスケッチ。マグカップの持ち手が立体的に描けてうれしかった

 

若いころは、「才能のありなし」がやたらと気になった。何かを表現するたび、それが才能があることの証左であってほしいと思っていた。だから、「上手くできること」以外に価値を感じなかった。

しかし、大人になってみれば、現状から「才能のありなし」は否応なくわかる。少なくとも、「若くして世に出る才能」はなかったことは、はっきりとわかる。

そして、若き日に抱いていた過剰な才能への期待が、「継続の手」「作品を作る手」を止めてしまっていたことも痛感する。

ふと前を見れば、そこにいるのは手を止めず行動を続けた人たちで、距離はずいぶん開いてしまっている。

同時に、「それでもやめられないのだな」ということもわかる。だったら手を動かすしかないではないか。

 

仕事や生活で時間が限られるなか、手を動かして、動かして……いろんなことは、少しずつしか変わっていかない。大人になると見聞も増えるので、一発逆転に見えた誰かの物語も、実はその土台にたゆまぬ行動があったことにも気がついていく。

 

そんなわけで、何かを続けていて、「努力が報われた!」なんて感じることはほとんどない。でも、ある日気づくのだ。あれ? 広大な巣穴とはいかなくても、地面の下に、ちっぽけな空間ができ始めているぞ。

 

何かを続ける「ご褒美」は、上手くできることや、賞賛されることではない。いやもちろんそれらがあったらうれしいけれど――。「わたしは、昨日より、今日成長している」。たまにやってくるその実感だけが、渇いた喉を潤してくれる。

 

それに、長く生きれば既知のものが増え、成長を実感することは減っていくものだ。だからこそどんなにささいでも、「成長」は、貴重で、得難いものなのだ。

 

そう考えられるようになると、むしろ「上手くできないこと」ほど楽しいものになる。なぜなら成長が細かに感じられるからだ。ひとつひとつの成長はささやかでも、その手応えを感じる数が多い。これまで「成長を感じるのはたまである」と書いたことと矛盾するようだが、文章に比べれば、絵のほうがずっと上達の手応えを感じる回数が多いのだ。

 

元来、そして今も「物をきちんと観察すること」「絵を描くこと」が苦手なわたしがお絵描きを楽しく続けていられるのは、そのためだと思う。しかも、超初心者であるから、わずかな成長も目に見えやすい。

 

苦手なはずの絵を描く楽しさ、それを続ける楽しさ。それは、「何が上手くできるか」「劣等感と優越感」に一喜一憂していた若いころにはけっして理解できないものだったと思う。

 

上手くできないけど、たのしい。上手くできないから、たのしい。

今なら、それがわかる。だって、大人だから。

 

今週のお題「大人だから」

 

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