平凡

平凡

日記に憧れている

人の日記を読むのが好きだ。

といっても、のぞき見したいわけではない。

公開されているブログ、あるいはツイートの中でも、「今日は何をした」「どう感じた」と淡々と書き綴っているものに惹かれるのだ。

最近、はてなブログが推奨している“純日記”にあたるものなのだと思う。

 

 

日記文学も大好きで、なかでも武田百合子氏の『富士日記』はお気に入りだ。

武田百合子氏は、『ひかりごけ』で知られる武田泰淳氏の妻。

武田夫妻は富士の麓に別宅を持っており、東京の自宅と頻繁に行き来していた。

「別宅にいる間のことを、書いておくように」と泰淳氏からすすめられた百合子氏が、言いつけ通りにつけた記録が『富士日記』だ。

「言いつけ通りに」と書くと従順な妻を想像するかもしれないが、日記を読んでそのような人物像を想起する人はまずいないと思う。

百合子氏は好き嫌いがはっきりしていて、自信もあり、思ったこともすっぱりと伝えるタイプである。

 

富士日記』のキャッチには、よく《天衣無縫の文体》という表現が使われる。

何が起きた、何を見た、何を買った、何を作った……といった淡々とした記録に「どう感じたか」を簡単に加えたものなのだけど、その視点が透徹していている。

鳥やもぐらの死を突き放したように描写したかと思えば、よく昼寝した日は《くらげのように体がやわらかくなってしまう》と温度感のある表現が出てきもする。

必要最小限の字数で描写された落葉や花の色、地元の販売所に売られている農作物の種類などが、季節の移ろいと山の自然の厳しさを伝えてくれる。

 

肩肘張って「書いてやろう」という気負いは一切感じられない。サラサラと小川の水が流れるがごとく、日常の合間につけたであろう記録。しかし、それが写し取る人の営みがなんとも愛おしい。こんなふうに物事を見られたら、書けたら……と、つい憧れてしまう。

 

『新潮』が数年に一度行うリレー日記企画も大好きだ。

1年の52週の各週を、52人が担当。

たとえば2018年の企画だと、川上弘美氏、古井由吉氏、町田康氏といった小説家はもちろん、建築家の磯崎新氏、比較文学研究者の四方田犬彦氏、演出家の飴屋法水氏などが名を連ねる。

基本、日記なので淡々と綴るものが多いのだけど、その濃淡やエッジのきかせ方が人それぞれで、わくわくする。

 

自分自身もそういったものを書きたいと憧れる。

が、オープンな場ではやはり、このブログのように、「がっつり書きたいときに、2000字~4000字でまとまったものを書くこと」を優先してしまう。

たとえば「インターネットの備忘録」のはせおやさい氏は、2020年頃まで気づきをまとめたエッセイ・コラム的な記事のほか、日々の記録もアップされていた。どちらも読んでいて違う楽しさがあった。

ああいったスタイルには憧れるものの、いざ自分がひとつの場でやろうとすると難しい。なぜかはわからないけれど。

 

かわりに、Evernoteに純粋な日記をつけている。「今日はこんなことがあった」「こんなことを感じた」「こんなものを食べた」「夫がこんなことを言った」といった私的記録。

たとえば2014年の日記には、《近所の緑道を歩いている途中、夫が「主電源落とすと部屋暗いね」をドイツ語風に上手いこと言っておかしかった》などと書いてある。

そんなことはすっかりと忘れている。

たまに夫婦でしゃべっていて、「箱根に行ったのはいつだったっけ」と疑問が出ると、Evernoteで検索する。

2015年のゴールデンウィークであることがわかる。

さらに日記を読むと、義実家を訪問してから箱根へ出発し、わたしたちの荷物を見た義姉が「山登りへ行くみたい」と笑ったとか、干物屋の駐車場にたくさん猫がいて、子どもがしつこくかまったら猫パンチをかましたが、周囲の人間は「しつこくするから」と猫の味方だったとか書いてある。

Everenoteには写真も貼り付けられるので、それを見ることでより鮮明に思い出せる。

ただし、これが写真だけだったとしたら、空気感やあったことまでは思い出させてくれないだろう。

「ことば」に「写真」を添えることで、日記は雄弁なアルバムとして機能してくれる。

 

アルバムとして機能させるためのコツは、「感じたこと」をあっさりさっぱり添えること。楽しかったことも悲しかったことも、描写を厚めに、感情はサラリと。凹んだことやドロドロしたことも、そうひと言書くだけ。

 

吐き出しではなく、記録をメインにするメリットは、続けやすくなることだ。未成年のころは、ドロッとした感情をめいっぱいノートにぶつけていたが、そうしてしまうと体力も気力も持っていかれる。また、思考が迷走してより煮詰まってしまいがち。

記録にとどめることで、軽やかに長く続けることができる。

若い頃は、逆に「そんな日常書いて何が楽しいの」と思ったかもしれないが、今はそういったことも次々と忘れてしまう。また、日々は同じようでいて不変ではないことも、年を取ればとるほどわかってくる。

記録することで見えてくるものもある。それがたとえ、「この時期は直売所巡りをよくしていたけれど、最近はしていないな~」とか、「スムージー飲まなくなったなあ」とか、そんなものであっても、自分自身にとっては貴重な生活史に思えるのだ。

なんでも検索すれば出てくるインターネット時代にあっても、それは自分が記録しなければどこにも残っていないものだから。

 

昔は、ある映画を見たかどうかを忘れることなんて考えられなかったけれど、今では「タイトルは知ってるけど、あれ、見たんだっけ?」と惑うことも多い。

忘却の流れをせき止めることはできないけれど、せめて遠くからでも「そこに何があったか」がなんとなく見えるように。

目印、一里塚のつもりで日記をつけている。

 

と書いたのだけれど、この一年はほとんど日記をつけていなかった。ブログや小説などに可処分時間を使っていたからだ。

日記を書くのはわずかな時間があれば十分なのだけど、別の習慣ができると、どうしても他に気が回らなくなる。

 

記録がない日々はむなしい。やがて曖昧模糊として思い出せなくなるそれは、「空白期間」のように感じてしまう。

今日から、今から。また記録を始めようと思う。

 

今週のお題「日記の書き方」

 

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画像は写真ACからお借りしました。

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