平凡

平凡

猫はカリカリのみにて生くるものにあらず

自分勝手で、ふだんは人間のことはどうでもよい、という顔をしている猫たち。

しかし、そんな猫たちでさえ、

「猫はカリカリのみにて生くるものにあらず」と感じさせる瞬間がある。

 

昔、実家で飼っていたのは、典型的な“猫”だった。

さわられるのは大嫌い、でも、なんとなく注目を集めるのは好き。

家族全員がテレビに夢中になっていると、

ギリギリ人間の視界に入る場所で、ゴロンゴロンと腹を見せた。

これに人間が弱いことを知っているのだ。

「あらっ、かわいーねー」

「じょうずだねー」

ひとしきり賞賛の声を浴びると、

満足そうにどこかへ(しかし人間の様子が見える場所に)去っていく*1

 

エサの時間になると、にゃあにゃあと最初はかわいい声で催促。

しかし、エサの用意がちょっとでも遅れようものなら、

その声は怒気を帯び、瞳に怒りが宿る。

「なんで、なんで、ごはんくれないの! 早く早く!

馬鹿じゃないの! 人類滅びろっ!」

みたいな顔してにらみつける。

遅くなってごめんねと言いながらエサを用意すると、

プリプリ怒りながらガツガツ食べ、食後もしばらくご機嫌斜めだった。

 

我々家族には横柄だが、

知らない人が来ようものなら、押し入れに入って半日は出てこない。

雷や花火でも同じ。

内弁慶で、たいへんな怖がりだった。

 

犬好きの友達に話したところ、「失礼だけど」と前置きをしたうえで、

「何がかわいいの」と聞かれたこともある。

あのとき、わたしはなんと説明しただろう。

最初から、猫はこんなものだと思って飼ったわけではない。

その猫より以前にふれあった猫は、もう少し人懐っこい性格だった。

しかし、とてもかわいいのだ。

自分勝手さが、愛おしいのだ*2

 

そんな猫が豹変したのは、母の再婚相手が倒れたときだった。

母は病院に詰め切りになり、わたしはできるかぎり実家へ帰るようにした。

その役目は、主に猫の世話だった。

ほぼ1人と1匹の家で、猫とわたしの距離は近づいた。

わたしの在宅中、猫はわたしの目の届く範囲にいつもいた。

わたしが風呂に入って見えなくなると、ニャーンニャーンと大騒ぎした。

外出するときは、廊下の端からわたしが出ていくのを見ていた。

ことに、わたしが東京へいったん帰る日の、張り詰めた瞳。

忘れることができない。

 

日のあたるリビングで仕事をしていると、

猫はわたしの近くで体を丸めた。

電気座布団にスイッチを入れ、わたしが座ると、猫は心底不思議そうな顔をした。

そして、トイレから戻ると必ず横取りしていた。

 

集中してパソコンに向かっていると、そっと体を寄せてくることがあった。

そのかすかなぬくもり。

そういうときは、そっとなでても怒らなかった。

義父の容体が思わしくない日々のなかにあっても、

それは安らぎを覚える瞬間だった。

しかし、同時に、人生でもっとも胸が痛む瞬間でもあった。

猫とふれあえて、頼ってくれて、うれしい。

でも、猫が心身元気でいてくれたら、一番、何よりうれしいのだ。

おまえ、わたしになんて懐かないで、ツンケンしていてくれよ。

いつも通り、コイツは邪魔だなあって顔をしていてくれよ*3

 

さみしさが毛皮をかぶったような猫の姿を思い出すと、

いまもヒュッと息が苦しくなる。

猫には言葉が通じない。

いつもいたはずの家族がいない。

何か異変がある。

そのことだけを理解している、猫の顔。

 

そのとき、わたしははじめて本当の意味で、

「猫はカリカリのみにて生くるものにあらず」と悟った。

人間なんてどうでもいいよ、みたいな顔をしていても、

食、水、トイレの清潔さが担保されていても、

決まった人間との安定した暮らしを、猫は求めている。

それは当たり前のことだ。

それまでだって、なんとなく理解してきたつもりだった。

しかし、ここまでなのか。

こんなにも、腹の底から求めているのか。

それが崩れたとき、猫はこんな風に、ここまで弱ってしまうのか。

 

先日、夫婦でとある保護猫カフェへ足を運んだ。

カフェに他の客はおらず、猫たちは遊びに飢えていた。

おもちゃひと振りで、老いも若きも大興奮。

なかでも、4カ月ほどの子猫は、ひときわ俊敏だった。

おもちゃを追って宙を舞い、

見事キャッチすると、おもちゃをくわえてひきずり回す。

ひとしきり遊んで疲れると、子猫は夫の近くに寝そべった。

そのとき撮影した写真には、

夫に頭をなでられ、目を細め、本当に満足しきった子猫の姿がある。

遊んではしゃいで、なでられて。

どれも衣食住や、三大欲求に結びつかないことだ。

しかし、それをたっぷり得られたときの充足した表情。

「猫はカリカリのみにて生くるにあらず」だ。

 

保護猫カフェやシェルターには、いろいろな猫がいる。

もちろん、ヒトが近づくだけで威嚇してしまう、人間嫌いな猫もいる。

しかし、多くの猫は、人間が嫌いではない。

どちらかというと、ヒトが好きだ。

遊んだり、なでられたり、膝に乗ったり。

さわられるのが嫌いな猫も、人間の近くにいることが多い。

それを見ると、「イエネコは長い歴史の中で、

人のそばで生きるよう、家畜化した生き物だ」と、

何かのドキュメンタリーで見たことを思い出す。

多くの猫が、“カリカリ以外のもの”を求めている。

 

わたしがふった猫じゃらしに、楽しそうに猫がじゃれる。

なでられて、うれしそうにする。

さわられるのが嫌いな猫が、それでも人間の視界のはしにずっといる。

人間とはまったくちがう、この小さく毛むくじゃらで暖かい生き物が、

わたしの行動、存在により、喜び、あるいは安心を得ている。

「猫はカリカリのみにて生くるものにあらず」。

それを実感するのは、

人間にとって、猫との交歓を腹の底から感じられる瞬間でもあるのだと思う。

 

たぶん、猫に限らず、動物と暮らす、交流するとは、こういうことなんだろう。

衣食住と、“カリカリ以外の何か”を人間は動物に与え、

動物も、人間にとっての“カリカリ(パン)”以外のものを与えてくれる。

 

母の再婚相手が亡くなり、母が家に戻ると、猫はそのそばを離れなかった。

そして、猫はめっきり老いた。

いつまでも子猫だと思っていた猫が、

けっこうな高齢であることを、わたしは思い出した。

義父の死後半年ほどで、猫はあとを追うように逝った。

 

実家のリビングでポカポカと日に当たっているとき、

保護猫カフェで見知らぬ猫と遊ぶとき、

わたしは昔の飼い猫がくれた“カリカリ以外のもの”を思い出す。

それは、かわいくて愛おしくて、楽しくて幸せで、にがくてくるしい。

 

飼い猫が死んだのは、夏の、よく晴れた日だった。

今年もまたこの季節が巡ってくる。

いつかまた、動物と“カリカリ以外のもの”を交換して生きられたらな、と思う。

 

 

 

ほか、保護猫カフェでの出来事を書いた日記。

ただ、この保護猫カフェは、今日の日記に書いたのとは、別の場所。

hei-bon.hatenablog.com

*1:当然、猫が去るころには、テレビのいいところは終わっている。しかし、猫がとてもかわいかったので、まあいいかとなるのであった

*2:まあ一緒に暮らしているとそうなるのだ

*3:それはとりもなおさず、わたしが目の前の猫が本当に求めている“カリカリ以外のもの”を供給できていない、どうやっても供給できないことを実感する瞬間でもあった。私は母でも義父でもないから、埋め合わせはできても、かわりにはなれない。猫を本当に安心させてやることはできない。当然のことだ。それは苦しいことだった