まず、「ツチノコ」の話をしよう。
もし、世界に「ツチノコ」という概念がなかったなら。
当然、「ツチノコ」を捕まえようとは思わないだろう。
そして、仮に「ツチノコ」を見ても、特異な存在とはわからないはずだ。
「ちょっと太った蛇がいるわ」などと思っているうちに、
藪の中に逃げてしまうかもしれない。
話は過去へ戻る。
そのころの私は独身で、恋に敗れたばかりだった。
仕事である人に会ったときのこと。
必要な打ち合わせを済ませたあと、流れで結婚についての話になった。
「あなた、恋人はいるの?」と聞かれ、
「失恋したばかりなんですよ。結婚なんて、できるんでしょうかねえ」
自虐気味にそう言ったのはなかば本気で、
まだまだ、わたしの心には、
結婚に対する恐怖と憧れが混然一体となっている時期だった。
「できるわよ!」と、その人は明るい表情で、力強く言った。
それから、彼女が現在の伴侶と出会い、
結婚するまでのことを話してくれたのだった。
若くして、ある仕事で大成功を収めた彼女。
そのころ、一度目の結婚をするが、
成功への驕りと慢心が落とし穴となった。
仕事もなくなり、離婚。
どん底を経験し、自身の弱さに気づいたという。
その後、仲間内の集まりで、
現在の夫に出会ったのだそうだ。
出会ったその日から話が尽きず、
集まりの場でもしゃべり、
帰り道でもしゃべり、
ついには自宅に行ってしゃべり、
そのうち朝になった。
まだまだ話し足りなかったが、仕事がある。
そこで、「夜、ここで会おう!」といったん別れ、
夜にはまたふたりで話し込んだ。
それを繰り返すうち、自然と一緒に暮らすようになり、
自然と結婚に至ったとのことだった。
そんな話もあるんだと驚いた。
たいへんに明るいその人は、
「平凡さんは血液型何型? わぁ、私と一緒だよ!
平凡さんにも、ぜったい、そんな人が見つかるよ!」
と力強く背中をたたいてくれた。
血液型占いに根拠があろうがなかろうが、
誰かに何かをポジティブに断言してもらえるのは、
妙に心強かった。
人生を心もとなく感じているときなら、なおさらのことだ。
ただ、心強く感じる一方で、
彼女の話はすばらしいけれど、
そんな相手と出会うなんて、
わたしに起こりえるんだろうか? と思った。
そんな相手なんて、ツチノコみたいなもんじゃないの?
いるかどうかもわからない。
仮に存在を信じたとしても、
「それを捕まえるのはわたしだ!」と思えるかどうかは
別の話なのだ。
何年もたって、その人と会ったことも忘れかけたころ、
わたしは夫と出会った。
夫とは、はじめてふたりで遊びに行ったときから、
ほかの人とはまったく違っていた。*1
とにかく楽しい。
話が尽きない。
ワクワクする。
はじめてのデートらしいデートは、
ひどく混み合っているイベントだったが、
混雑に疲労しても、
相手に疲れることはまったくなかった。
お昼前に待ち合せて、
イベント、喫茶店でのお茶、本屋巡り、遅めの夕食と、
結局、夜まで一緒にいた。
ターミナル駅の改札で別れたあと、
夫がいい、好き、というより、
とにかく、あの楽しい時間をもう一度過ごしたいと思った。
夫も同じだったのだろう。
それからは、
「話題の映画が封切されるから」
「スカイツリーに行ったことがないから」
果ては「寒いので鍋を食べに行きましょう」
など、強引な理由をつけてデートをした。
きちんと付き合うようになってからは、
休日は予定がないかぎりは共に過ごすことが当たり前になり、
離れることは考えられず、自然に結婚にいたった。
結婚してから、ふと、わたしに
「そんな人が見つかるよ」と断言してくれた
その人のことを思い出したのだった。
ツチノコレベルの信憑性だと思っていたけれど、
わたしにとっての「そんな人」は実在したのだ。
冒頭に書いたように、幻のツチノコだって、
「ツチノコがいるよ」と
その存在を教えてもらえなかったら、
見つけることができなかったのではないか。
出会いの不思議さを考えると、そんな風にも思ってしまう。
いつかその人にもう一度会うことがあったなら、
結婚の報告と、ツチノコがいる、その可能性を教えてくれたことへの、
お礼を言いたいなと思っている。