庭は生き物だ、と思う。
育てたように育ち、記憶をもつ。
そして、愛された生き物は、見る者に幸福をもたらす。
6月。
降りしきる雨に、紫陽花が濡れている。
水色、青、紫、赤紫、ピンク。
こんもりと手まり型になったものや、
つぶつぶとした花を装飾花が囲むもの、
つややかな緑の葉。
そのすべてを、雨が濡らしている。
「今年はとくに、きれいでしょう。
いろいろな色が咲いて……」
庭を眺めていると、義母が目を細めて言う。
といからしたたり落ちた水が、
トタンを叩く音が響く。
一軒家特有の薄暗い空間には、
玄関にも、居間にも、義父の位牌前にも、紫陽花がいけられている。
今年もこの季節がやってきたのだと思う。
紫陽花が終わると、気温が高くなって、雑草がどんどん伸びる。
同時に、義母が作る家庭菜園の野菜たちが、がぜん元気になる。
ことに、プチトマトは雪崩れるように実をつけて、
赤い実が庭じゅうに転がることとなる。
食卓にも、もちろんそれらの野菜が上る。
どれもみずみずしくて、おいしいものだ。
「今年も、きゅうりとなす、トマトを植えたのよ」
義母が指さす先で、きゅうりのツタがプラスチックの棒に巻きついている。
秋から冬にかけては、
プチトマトのかわりに、金柑が地面に転がる。
なかには、鳥についばまれ、無残な形になっているものもある。
「むかし、パパ(義父)がね、『アヤコ(義母)さん、それはどうかと思う』って渋い顔で言ったの」
金柑の実を摘みながら、義母は毎年、この話をする。
「『金柑を食べて、庭に捨てるのはよしなさい』って」。
鳥がついばんだ金柑を、
義母が食べて、ペッと吐き出したものと勘違いしたというのだ。
時がたち、今、幼い甥っ子が、黄色い実を「どうぞ」と渡してくれる。
ちいさな果物を自分で収穫し、人にふるまうのが楽しくてしかたがないようだ。
同じように、夫や義姉も、この庭で遊んで育ったのだろう。
冬、紫陽花はみすぼらしく見える。
花の季節が終わると、義母は大胆に枝をカットしてしまうからだ。
「こうしないと次の年、花がつかないの」と義母は言う。
冬枯れの季節になると、切られた枝が痛々しく乾燥する。
「こんなことで、次の梅雨に花が咲くのだろうか?」と毎年不安になる。
そして巡りくる梅雨。
切られた枝がどこかわからないほどに葉を茂らせて、
今年も紫陽花が見事に咲いている。
ああ、また一年、と思う。
義母が丹精込めた庭が、またひとつ、年を重ねたのだ。
そして夏、義母はまた紫陽花の枝を切るのだろう。
「パパがいたころは、枝を切ってくれたんだけど……」と言いながら。
今では、伸びすぎた庭木の手入れは、たまに義実家へ帰る夫の仕事でもある。
義母はだまって草むしりをし、草木を整え、庭に四季折々の花を咲かせている。
庭は義母に世話をされ、静かに息づいている。
電線にかかるほどに木々の枝を伸ばしたり、
秋には葉っぱを盛大に道路にまき散らしたり、何かと手間がかかる。
それは、まるで生き物のように。
その生き物は、家族のことを見つめ、記憶している。
義父と義母の語らい、
義姉や夫の幼い足音、
甥っ子のはしゃぐ声、
義母がわたしに語る、家庭菜園のコツ。
「気をつけてね」。
義母に見送られ、義実家をあとにする。
駅までの道には、いくつか、黒々と草木が茂った庭がある。
伸びきった木々の枝とそこに絡む蔦、
背の高い草が混然一体となって庭を覆いつくし、
道路にはみ出している。
「空き家なんだよ」と夫が言う。
義実家のまわりにも、空き家が着実に増えつつある。
世話をする人のいない庭では、草木が荒れ狂うように育っている。
まるで"野生化"だ。
人の手を離れた庭は、簡単にそうなってしまう。
義母が育てた庭を、我々、または義姉が受け継ぐのかはわからない。
ただ、"野生化"はさせたくないなと思う。
いったん義母の手を離れれば、それは簡単なことではないと、
容易に想像がつくけれど。
わたしは義母の庭が好きだ。
愛と慈しみを感じるから。
犬だって猫だって、そして庭だって。
愛され、よく世話をされている生き物を見るとき、
人は幸せな気持ちになるものだ。
次に義実家へ行くときは、もうトマトがなっているだろうか。
義母の庭とともに、わたしの結婚生活は、時を刻んでいく。