平凡

平凡

小さな継承

わたしは歌うのが好きだ。

と書くと、「歌が上手い」と連想する向きもあろうが、

事実はむしろ反対である。

下手の横好き。

つまり、わたしはいわゆる音痴なのだ。

謙遜で言うようなかわいいものではない。

本気の本気、今様に言うなら“ガチ”である。

 

さらに、わたしには、親しい間柄の相手には、

作詞作曲・オリジナルソングを歌うという悪癖もある。

作詞作曲といっても複雑なものではない。

そのときどきに見たものや感じたことを、

呪われそうな節回しで歌うというだけである。

 

そういえば、このエントリーに書いた「家飲み」の次の日、

二日酔いに倒れた友人には、

「いま、本当に気分が悪いから、頼むからいまだけは歌わないで!」

と釘を刺されたのであった。

hei-bon.hatenablog.com

「二日酔いのときに聞かされたら、もっと気分が悪くなる歌」

といえば、ご想像いただけるのではないだろうか。

 

そんな即興ソングのひとつに、「くじこの歌」がある。

これは幼いころに歌っていたものだ。

何かの抽選で、大きなくじらのぬいぐるみが当たり、

わたしは「くじこ」と名前をつけた。

「くじこの歌」は、その愛らしさを歌ったもので、

「あ~↑あ↓ か~わいい、くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」

と繰り返すだけのシンプルなものであった。

 

そんなこと、ずいぶん長い間忘れていたのだが、

夫とまだ恋人だったころ、

「昔、こんな歌を歌っていたんだよー」と「くじこの歌」を披露した。

夫はおおいに笑い、

「あ~↑あ↓ か~かわいい、くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と、

元曲のおかしな節回しを見事に再現して歌った。

夫はわたしよりも音楽を聞き分ける耳にすぐれ、歌もうまいのだ。

しばらくはふたりで「くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と歌っていたのだ、

やがてはブームが過ぎ去った。


そして、数年後。

 

最近、夫が皿洗いをしながら、

「くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と歌っているではないか。

「よく覚えているね」と言うと、

夫は皿洗いの手を休めず、

「『くじこの歌』だよね」とだけ答えてふふふと笑った。

 

夫が自発的に歌い出した「くじこの歌」を聞いて、

わたしはなんとも不思議な気持ちになった。

子どものころ、家族の前だけで歌った、下手くそで、おかしな歌。

家族の記憶に埋もれて、やがて消えるはずだった戯れだ。

それを、時を経て、赤の他人である夫が歌っている。

これは、とてもとても小さな、

文化、あるいは記憶の継承ではないだろうか。

 

年齢を重ねて思うのは、

身の回りの記憶や家族の歴史は、意識をして記録しないと、

消えていってしまうということだ。*1

家族の小さな思い出や、皆で営んだ暮らしの細部。

そういったものは、消えても、生きることに差しつかえはない。

ただ、過去の細かなエピソードは、自分を形作る一片でもある。

そして、年々、歳月が過ぎ去るスピードは速くなり、忘却は加速度的に進んでいく。

若かったころは「こんなことはきっと忘れないだろう」と思っていたことも、

あっという間に忘れてしまう。

昔のちょっとしたメモや写真、誰かの思い出話に刺激され、

忘れたことさえも忘れていることに気づくと、

足元がグラグラするような感覚に見舞われる。

わたしは記憶力がよいほうではなく、

子ども時代のことなど、もはや幻のように感じられる。

 

もうひとつ、親の死を多少なりとも意識する年齢になって思うのは、

父母の記憶は、今、聞き出しておかないと、永久に消えてしまうということだ。

たとえば、祖父母は父母から見てどんな親だったのか。

未来にどんな期待を抱いていたのか。

あるいは抱かなかったのか。

子育て時の心境についても、大人になった今なら聞き出せるかもしれない。

これもまた、人知れず朽ちても、まったく問題がない。

しかし、わたしのなかには、父母の一個人としての歴史を

もっと知っておきたい欲求がある。

 

「くじこの歌」は、些末なことだが、

やはりそういった「記憶しておきたい記憶」につながっている。

わたしと夫は年齢もそう変わらないので、

長く語り伝えるわけではないだろう。

子どもに恵まれるかどうかもわからない。*2

ただ、些末だからこそ、

世界からすれば、溢れるゴミのひとつに過ぎない記憶だからこそ、

自分や実家の家族以外のメンバーがシェアしていることに驚きを禁じ得ないのだ。

 

我々がシェアするのは、もちろん、「くじこの歌」だけではない。

夫が幼いころ、ラーメンの湯をかぶってしまって大やけどをしかけたこと。

その昔、義実家が、一家総出でミルクセーキにハマったこと。

義母が生まれ育った故郷での暮らしの話。

夫とわたしが出会う前に亡くなってしまった義父のこと。

同じく、わたしが会ったことのない、夫が昔飼っていた猫のこと。

 

わたしも、夫の記憶の継承者であるのだ。

それも不思議なことだと思う。

わたしたちは雑談のなかで、記憶を交換し続け、シェアし続けている。

結婚すること、家族が増えること、新たな世帯をもつこと。

その機能のひとつに、記憶のシェアと継承がある。

(少なくとも、わたしにとっては、そう感じられる)

わたしの悪癖から生じた「くじこの歌」は、

その機能に気づかせてくれたのだった。

 *3

 

 

 

 

*1:家族のこと意外でも、なんてことない住宅街などの街並みの変化は意外と写真に残っていなかったりする。また、インターネット初期に見られたホームページやその文化は、サービス終了でガンガン消えていっている。当たり前のものは、意外と記録が残りにくい

*2:子どもが「くじこの歌」の継承するというのは、それはそれで嫌な気はする……

*3:こういった“継承”は家族間だけで行われるものではない。

しかし、家族は規模が小さく、ありふれているだけに、

“継承”が頻繁に行われる共同体でもあるのだと思う