平凡

平凡

圧倒的魅力をもつ大人猫の、圧倒的不利さ

隣街を歩いていたら、保護猫の譲渡会をやっていた。
猫好き夫婦の我々は、ふらりと会場に立ち寄った。

ところで、子猫のかわいさは反則だと、よく言われる。
しかし、個性がはっきりと出ており、落ち着いた成猫の魅力は、
猫好きにとっては正攻法で顔面一発ノックアウトを狙ってくるような、
あるいはチョークスリーパーで首をぐいぐい締めながら「どうだ参ったか」と言われるような、
格別なものがあると思う。
我々夫婦は、そんな恐るべき成猫のことを、称賛をこめて“大人猫”と呼んでいる。

譲渡会会場では、会議机の上に、成猫1匹が入るくらいのケージが並べられていた。
なかには当然、猫が入っている。
子猫たちは、寝ているものあり、じゃれつくものあり、にゃあにゃあ鳴くものあり、
それぞれに愛らしさを振りまいていた。
なんとなく、
これはひどいいたずらっこになりそうだぞ」
「この子はちょっとこわがりだね」など、性格が垣間見られる。

一方、大人猫たちの反応は、みな、一様だ。
身体を丸め、なるべくすみっこに寄り、ちぢこまっている。
猫により違うのは、震えているか、震えていないかくらいだ 。
大人猫たちは、世界を知っているだけに、
ケージに入れられて運ばれたこと、
いつもと明らかに違う場所にいること、
人がたくさんいてガヤガヤしていることに、
ひどくおびえていた。
猫として、当然の反応であった。

もちろん、猫たちが人間社会のなかで終生、安心して暮らせる場所を見つけるためには、
この試練を乗り越えなければならない。
主催者である保護団体の人達は、猫のことを何より考えているだろう。
また、猫の扱いに慣れ、各猫の個性を把握していると、話していて伝わってくる。
ケージのまわりには、そんなスタッフがしっかりとついて、猫を見守っている。
猫も、スタッフも、がんばっている。

ただ、来場者としては、どうしても子猫に目がいってしまう。
それは、子猫がかわいいからではない。
視線を感じると大人猫たちがもっとおびえてしまい、いたたまれなくなるのだ。

子猫のほうがもらい手がつきやすいというのは、愛らしいからだと思っていた。
子猫の愛らしさが、多くの家庭で飼育に踏み切るきっかけになることはたしかだし、
動物は小さいころから育てないとなつかないと考えている人も多い。
しかし、大人猫を家族候補に考えている人間であっても、
ああいった場では、なかなか魅力や個性、自分と合う猫かを見抜きづらいのではないか。
また、よほど猫慣れしていないと、
この子をうちに迎え、時間をかけたら、のんびりのびのびしてもらえるのだろうか、
自分にはそんな環境を整えられるだろうか? と、少なからずハードルを感じるだろう。
スタッフも、あえて大人猫をすすめはしない。
大人猫に臆さず向き合ってくれる人が現れるのを、静かに待っているようだった。

その様子を見ていると、最近増加している、
家族を探す猫たちが暮らす猫カフェ
いわゆる「保護猫カフェ」は存在意義が大きいのだなと思った。
この形であれば、猫たちのホームに人間が足を運ぶことになるし、
人にある程度慣れた猫たちが選ばれているはずで、
より自然体の大人猫たちと出会えるだろう。
運営が雑なところもあるとは聞くが、
大人猫と人間家族の第一の出会いの場として、適しているのではないか。
また、保護した猫を預かるボランティアのところまで、猫を見に行く、という方法もある。
人見知りの子もいるだろうけれど、多少、リラックスした大人猫を見られるかもしれない。

いずれにせよ、飼い主がなんらかの理由で大人になった猫を手放した場合、
猫たちは次の安住の地を見つけるまでに苦労する。
(保護猫のなかには、飼われた経験がないものもいるが)
子猫が人気なのは、あらゆる意味で、順応性が高いからだ。
順応性が高いから自然にふるまえる。
そのふるまいを見て、うちに迎えても大丈夫なのではと、人間たちは考える。

動物を飼うことと、その責任。
わかっていたつもりでも、やはりずっしりと重い。
しかし、動物を飼う大きな喜びは、
その責任を負った者だけが感じることができるのだろう。
猫と、彼らと家族になる人間たちに、幸あれ。
結局、私たちはそう願うことしかできず、会場をあとにした。

平穏無事な街

そぼ降る雨の日。
仕事に行くため、駅へ急ぐ。

その途中、幼稚園児くらいの姉弟を連れた女性とすれ違う。
弟は「アイスの棒が~1本~アイスの棒が~」と、作詞作曲オレによる“アイス数え歌”を歌い、
姉は顎に傘の取っ手を乗せて歩けないか試している。
ふたりともご機嫌で、おそらく母であろう女性もニコニコしていて、実に平和だと思う。

この街に越してきて、2ヶ月あまりが過ぎた。
ここは、私の考える「利便性の高い範囲」からは、少し外れている。
当初は、不安を感じていた。
電車に乗る距離が長くなるなんて、
忙しいときはどうしたらいいの?
納期に追われて外仕事が続いたら、とても暮らしていけないんじゃないの?

ただ、物件と住環境をおそろしく気に入ってしまった。
さまざまな街、物件を見ての直感は、無視しがたいものがあった。
築年数ゆえの手頃な家賃、
古いけれど、よく手入れされた室内。
最新の設備とはいかなくても、住む人が便利なよう、
よく考えられていることからくる、居心地のよさ。
駅のまわりは賑わう一方、住環境は落ち着いている。
不動産サイトの条件検索には引っかからない、数々のささやかなよさ。
これらをすべて満たす物件との出会いは、そうそうあるものではない。
夫と話し合い、思い切って物件を決めた。

引っ越して、休日はこの街で過ごすことが増えた。
というより、ターミナル駅にはほぼ出かけない。
たいていのものは駅前で揃うし、
足をのばしての買い物は、より郊外のショッピングモールだ。
緑道を散歩したり、駅前の催しものをのぞいたり、気になるカフェや定食屋に入ったりして、のんびり休みの日が過ぎていく。
最初はもちろん、新しい街が物珍しくてそうしていたけれど、
今ではただ、このあたりをブラブラするのが楽しい。

仕事で遅くなる日は、早く我が街に帰りたいと思う。
前の住居より交通の便は悪くなったけれど、そういった気持ちがあるせいか、気にならない。

このあたりは、緑が多い。
とても静かで、朝には山鳩が鳴く。
夜は広い空に、星がまたたく。
心なしか、風がやさしい。
外からの帰り道、家路をたどっていると、
ここではなんにも悪いことは起こらない、そんな気持ちにさえなる。

もちろん、人は人生の理不尽さから逃れられはしない。
あらゆる不運にあう可能性は、誰しも、どこにいたってある。
しかし、だからこそ、ほんの一瞬だけでも「ここにいれば平穏無事だ」と思えることには価値がある。
私は、そう思っている。

話は、霧雨が舞う、肌寒い午後に戻る。
子どもたちに気を取られながらも、私は無事、時間通りに駅に着くことができた。
閑静ながらも、駅からは近い。
これも、今の住まいの魅力のひとつ。

電車がホームにすべりこんでくる。
安心してゆったり暮らせる街から、いざ出陣。
都心に近くて便利もよいけれど、これも悪くはない。
私はジャケットのえりを正し、電車に乗り込むのだった。

中年、のお買い物

中年、と呼ばれる年齢である。

今までのわたしは、職業的なこともあり、楽でカジュアルな服装を好んできた。

しかし、最近、昔と同じようなかっこうをしていると、顔が浮く。

いや、「最近」なんてウソだ。

ほんとうは、3、4年ぐらい前には勘づいていたけれど、見て見ぬフリをしてきた。

しかし、そろそろ……本当に……なんだか……、

「手持ちの服を着てもパッとしない」というレベルを超えて……。

 

年齢が上がるにつれて、オシャレは若いころとは違った難しさを帯び始める。

まず、たいていのことをごまかしてくれていた、

はつらつとした雰囲気や肌の色ツヤがなくなる。

自分のライフスタイルに合ったものでないと、しっくり来ない。

店の選択肢も、年齢が上がるにつれて少なくなってゆく。

年を取っても、若いデザイン、チープな服を上手に着こなせる人もいる。

しかし、それは賞賛にあたいする❝すごいこと❞であって、

なかなか真似できないと、私などは思う。

 

この冬あたりから、そこを意識して、セールに参戦してきた。

雑誌だと、バリバリ働いているか、専業主婦かなど、

あまりにライフスタイルがハッキリしていて自分にフィットしないため、

街で同じような年頃の人を見て、何を着ているかを観察。

 

しっかりとした生地のガウチョパンツと、

それに合うカットソー、

または体にやわらかく沿うニットあたりがほしいかも、と思いを定める。

 

仕事帰り、ちょっと敷居の高かったセレクトショップに飛び込んで、

気になる服を試着しまくる。

半額なれば、なんとか買えないことはない。

店員さんがある程度信用がおければ、相談しまくる。

(こういうボトムの上には、何を合わせればよいんでしょうか?)

 

結果、大枚はたいて買ったのは、以下。

  • Uネックの白いニット(体にほどよく沿う)
  • ツイードに似た生地のタイトスカート(青×白)
  • 腰回りがややゆったりで裾がすぼまったテーパードの黒いボトム、
  • 深緑の生地に黄色い花があしらわれたひざ丈ワンピース、
  • ジージャンがわりに着られると言われた、褪せた青のパーカー

 

財布はたいへん痛んだが、手持ちの服は軒並み似合わなくなっているし、

ここ数年、まとまった買い物をしていないので必要経費、と言い聞かせた。

結果、これが大正解で、冬から春先にかけて、仕事に着ていく服に困ったことはなく、

取引先の人から、「なんとなく雰囲気が変わりましたね~」と言われたりもした。

(もっとも、それがよい意味かどうかわからない。

わからない以上はよい方に取っておくのが、

精神を健康に保つための私の選択である)

 

夏のセールでも、この栄光よ再び! 

冬に次いで夏のワードローブがある程度揃ったら、

マイナーチェンジで次の5年を乗り切れるのでは?

ともくろんで、私は鼻息荒く街へ繰り出した。

 

目当ては以下の2つ。

  • フェミニンな白いブラウスまたはカットソー(デニムの上に一枚着るだけでビジネス風になる)
  • 今度こそガウチョパンツ

体型にも年齢感にも合っていた、冬のセールで見つけた店へ行き、

やはり試着しまくり、店員さんに相談しまくり。

そこから、

  • 白いぺプラム(ウエストからふんわり裾が広がる)カットソー、
  • 褪せた黒のガウチョパンツ、
  • Tシャツとカットソーの間を取ったような紺のトップス、
  • 夏生地でノーカラーのさっぱりとしたサマージャケット

を購入。

サマージャケットは、セール除外品だったが、

5年ぐらい探していたものなので、えいやっとレジへ。

 

ぺプラムは今持っているスカートにも合う。

ガウチョパンツは手持ちのトップスにはたいていマッチするし、

カジュアルダウンしたいときは、Tシャツを合わせてもよい。

これだけあれば5年、いや、少なくとも3年は戦えそうである。

 

❝今❞の私に合うかどうかを考え、

冬、夏とセールに足を運んでみて、

買い物も年代により変わっていくのだなと実感した。

まず、昔はやたらと明るい色を着たくなったものだが、

今は色がシンプル、風合いやラインがやわらかいものが落ち着く。

買い物が楽しく、心浮きたつことに変わりはないけれど、

今は、意外な服との出会いより、

「今、きれいに見せてくれるもの」を多少戦略を立てて手に入れる、

「必需品の獲得」めいた性格が強くなった。

 

客観的に見て、この服装が年齢感に合っているのか、

自分に似合っているのかわからない。

しかし、できるかぎりを模索していくしかない。

そして、主観的には、この冬、夏は

❝今❞を乗り切る戦闘服が首尾よく手に入ったように思う。

 

年齢を重ねるにつれ、外見も好みも、そして世の流行も次々と変わっていく。

❝戦利品❞の更新は、ゆめゆめ怠ってはならない。

そう思いながら、今日も私はぺプラムのカットソーとガウチョパンツで気合を入れて、

打ち合わせに赴くのであった。

 

今週のお題「セールの戦利品」

私たちの街、私たちの庭

まだ梅雨のころ。

夫婦連れ立って、引っ越しに伴う手続きをしようと家を出た。

いろいろ回ると合計10キロぐらいになりそうなので、夫はロードバイク、私はクロスバイクに乗り、久しぶりのサイクリングと相成った。

 

雨雲におびえながら、自転車をこぎ出す。

 

道が細いわりに交通量の多い道を抜け、

スマートフォンの地図とにらめっこしながら目的地を目指す。

住宅街には、猫がいる。

(当然、自転車を降りた。当然、猫はつれない反応を示した)

畑には、気の早いひまわりが咲いている。

画一的な建物が並ぶ巨大な団地からは、重々しい迫力を感じる。

まるで陸地に現れた船団のようだけれど、

団地は人々の生活を呑み込むばかりで、

どこにも行こうとしていない。

街で評判のパン屋を見つけ、なかをのぞき込む。

これはなかなか、すてきなお店。今度、また来てみましょう。

木々に囲まれた線路わきの急な下り坂では、なんだか郷愁を誘われる。

昔、夏休みにママチャリを駆ってちょっと遠くまで足をのばすと、こんな風景が広がっていたな。

大きな公園、幹線道路、どんどん風景が変わる。

こっちへ行くと、こんな感じなんだ。

ふたりの頭の中に❝土地勘❞ができていく。

 

おおかたの用を終え、ふらりと寄った大きなディスカウントストアには、

犬のトリミングコーナーがあった。

ガラスで隔てられた犬だけが入ることができる待合室では、

緊張気味の犬たちが買い物用カートに乗せられて順番を待っているのが、

おかしくもあり、かわいくもあり。

なかにはまったく動揺せず、ガラス越しに飼い主に向かって愛想を振りまく犬もいる。

 

店内をブラブラ歩き、

「自転車出すとき、玄関ドアを開いたままにできたらいいよね」と、

そのままドアストッパーを衝動買い。

帰ってからドアに取り付けると、磁石でガッチリ固定され、

これはよい買い物だと、夫婦で讃え合ったのだった。

 

腹が減ったので、徒歩ではちょっと遠いなと思っていたラーメン屋へ。

清潔感ある店内には、冷房がよく効いていて、救われる心地。

雨雲はどこへやら、いつの間にか太陽に照り付けられて、へばり気味だったのだ。

待望のラーメンは、さっぱりとして、優しい味わい。

接客は「らっしゃーせー」と叫ぶ系ではなく、きびきびと気持ちがよい。

ここはいいね、また来ようねと言いながら店を出る。

 

もうちょっと足をのばして、気になっていたパターゴルフ場へ。

設備の古さと夕暮れがなんともレトロな雰囲気を醸し出すなか、のんびり遊ぶ。

 

ぐるりと回って、いつものスーパーが見えてきた。

アイスを買って、いよいよ帰宅。

 

私たちの住む街と、隣の、隣の街ぐらいまで。

引っ越したばかりで馴染みのなかった場所が、少しずつ❝私たちの庭❞になっていく。

この感覚は、楽しいものだ。

 

今度はあっちのほうにも行ってみよう、

あのお店にも行きたいね。

まだまだ、❝庭❞に塗り替えたいところはたくさんある。

❝庭❞を広げ、❝庭❞の細部をもっと知る算段をしながら、

あっという間にふたり、眠りに落ちたのだった。

サラリーマンの妻って感じがする

夫が配置がえになり、帰宅時間が早い日ができた。

私もここ何日かは仕事が落ち着き、時間に余裕がある。

引っ越して台所も広くなったので、副菜をよぶんに1、2品作ったりしている。

 

そろそろ帰ると、夫からの連絡。

料理を仕上げにかかっていると、鍵を回す音がする。

「ただいま」と言う夫の手には、話題のスイーツ店の袋がぶら下がっている。

ターミナル駅で、よく行列ができている店だ。

取引先に立ち寄ったとき、偶然、人がいないタイミングで買えたという。

 

今日の献立は、豚の生姜焼き、もちろんキャベツの千切りを添えて。

レタスとトマトのサラダ、長芋ときゅうりの酢漬け、冷奴、しいたけとえのき、油揚げのお吸い物。

簡単だけれど、仕事が忙しいときは、私の場合、この程度でも難しい。

生姜焼きは、夫の好物だ。

「外までいいにおいがしていたよ」

とウキウキしている。

 

スイーツは冷蔵庫に入れて、食卓を囲む。

見なくてもよいテレビをつけておく。

ぼんやり見たり、ツッコミを入れたり。

お昼が遅かったので、生姜焼きは重いかと思ったけれど、

思ったよりおいしくてペロリと食べてしまう。

吸い物も、出汁と油揚げ、きのこ類の旨みが混然一体となっていて、ホッとする味わいだ。

そのうち、ニュース番組がはじまる。

この時間に食べ終わっているなんてねえ、などと言いながらダラダラする。

お腹が落ち着いたら、夫はコーヒー、私はお茶を淹れてお待ちかねのスイーツタイムだ。

クリスピーな何かがトッピングされた、シュークリームとエクレアをかけ合わせたようなお菓子。

こういう、食べ慣れたものをひとひねり、ふたひねりしたものは、安心感があって受け入れやすい。

ふたりでサクサク、あっという間に食べてしまう。

 

今日は白いTシャツを着ていたので、割烹着をまとって炊事をし、そのままだ。

その格好で食事をとって、

ちゃぶ台によりかかって他愛のない話をして、

バラエティとニュースを見て、

夫が買ってきた手土産に舌鼓を打つ。

部下が、取引先がと、今日、会社であった出来事を、夫からあれこれ聞いたりする。

これってなんだかすごく、サラリーマンの妻って感じがする。

 

眠る前には、湯船にお風呂を張って、ゆっくり浸かる。

引っ越してうれしいことのひとつが、お風呂が広くなったことだ。

雑誌なんて持ち込んで、優雅なバスタイムをキメちゃったりする。

そのうちまた、お互い忙しくなって、「サラリーマンの妻って感じ」なんて言っていられなくなるだろう。

 

だいたい、サラリーマンの妻って何だ。

あれかな、昭和かな。

お父さんはナイターを応援できるぐらいの時間に帰ってこられて、

たまには子どもの喜ぶお土産を持って帰ってきて。

お母さんが作った料理をみんなで食べる、みたいな。

 

日常だけど、ふだんとは違う、異質な感じ。

ふたりで暮らしていると、たまにこういうことがあって面白いと思う。

 

そういえば、フィクションやイラストで描かれた

昭和のお父さんといえば、よく酔っぱらって、

十字に紐がかけられた折詰を持っていた。

あの中には、何が入っていたんだろう。

すごくおいしそうなものな気がする。

そんなことをあわあわと考えながら、平凡で特別な、

非日常というほどでもないけれど、いつもとちょっと違う、

そんな平日が終わっていった。

ちょっとした優しさは巡り巡るのです、そう、たぶん、苹果のように。

「あの、ひょっとして、よろしかったら」

友人はそう言って、我々の前に立っていた女性に、席をゆずった。

今から10年ほど前だろうか。

胸元から広がるデザインのチュニックが、流行りに流行っていたころだ。

その女性も、そういったトップスを身に着けていた。

が、私がそのことに気が付いたのは、隣に座る友人が席を立ち、

冒頭の言葉を口にした後だった。

ふんわりとした布の内側で、腹部が丸みを帯びて、ふくらんでいる。

女性はほほえんで、

「ありがとうございます」

と席に座った。

「よかったです。違っていたら、その、失礼なので」

友人も、ホッとした笑みを浮かべ、つり革につかまった。

 

そのとき、私たちは女三人で電車移動をしていた。

友人は私たちに相談するような野暮もせず、

おそらく女性の体形に気がついてから、間髪入れずに席をゆずったのだ。

逡巡することのない一連の動きは、とてもスマートだった。

何より、かしましく盛り上がるなか、

彼女が周囲の人に目をやっていたことに驚いた。

 

電車を降りた後、「すごいね」と言うと、

彼女は、「お腹見て、ひょっとしてって思ってね。

チュニックは妊婦さんかどうか、わかりづらくて困る」と笑った。

カッコよかった。

私も善意や好意を、誰かにサラリと受け渡せる人間でありたいと思った。

 

乳幼児連れの人を見たとき。

妊婦らしき人を見たとき。

杖をついている人を見たとき。

私も席を譲ることはある。

しかし、あんな風にできない。

ひきつった表情で、「どうぞ」と言うか、

黙って席を立ってしまう。

しかも、「迷惑かも、嫌がられるかも」と汗をかいてかいて、

やっと行動に至る。

ちっともスマートではない。

それに、そういった態度は、相手に負担を与えてしまう。

 

それでもチャレンジしたいと思うのは、

あの日彼女が見せた思いやりが、私の胸にも灯ったからだ。

たぶん、友人が女性に席を譲った光景を見ていて、嫌な気持ちになった人はいないだろう。

気負いのない善意は爽やかで、周囲をあたたかくしてくれる。

世界がほんのちょっとでもよくなるとしたら、それの積み重ねしかないのでは。

大げさだけど、そう思ったのだ。

そしてもしその善意が巡り巡って、

いつかあの優しい友人が見知らぬ場所に困ったときに、

誰かが手を差し伸べてくれたらいい。

 

とは書いてみたものの。

まずは、「世界」とか「巡る」とか、

こういった壮大な気負いを捨てることが、スマートさの第一歩なのでは――。

わかっていながらも、座席を必要としているであろう人を見ると、

(譲るぞ、譲るぞ……)と肩に力が入りまくってしまう私であった。

 

特別お題「心温まるマナーの話」by JR西日本
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/jrwest

引き渡しの日

引き渡しの日がやってきた。

今まで借りていた部屋を引き払い、空の状態にして、
オーナーや管理人の立ち会いのもと、部屋の状態を確認して、その管理下に戻すのだ。

空っぽになった部屋を見ていると、はじめて内見した日のことを思い出す。
なんて日当たりがよく、明るいのだろうと思った。
そして、こんなに風に、広々としていた。
ふたりで暮らし、片付けもままならない生活のなかでは、すっかり狭く感じていた。

気になるところを掃除して、お昼ごはんに買ってきたモスバーガーを食べて、
管理人が来るのを待つ。

手持ちぶさたに、ロフトに上がってみる。
引っ越し作業中でてきた、この部屋の間取り図には、「5畳のロフト」とあった。
なるほど、広い。
引っ越してきたばかりのとき、「なんでも置けちゃうな!」とワクワクしたものだ。

やがて、管理人が到着。
「きれいに使われてますね」と言われて胸をなでおろす。
なんでも、10件に2~3件は、土足で上がった方がよいほど、ひどいケースがあるとのこと。

クリーニング代を確認して、書類にサインし、鍵を返す。
部屋を出るとき、管理人が「では、失礼します」と見送ってくれた。

共用廊下の屋根は、車庫でよく使われている透明のルーフで、紫色だ。
そのため、心なしか視界が色づいて見える。
ここをはじめて歩いたとき、変な色、と思ったっけ。
最近は、慣れて気にしなくなっていたけれど。

夫婦で階段を降りる。
「変な感じ」
夫が「げせない」といった表情でつぶやく。
「見送られてるの、俺たちなんだよね。
俺たちが見送るんじゃないんだよね」。

見送られ、出てきたあの部屋に、私たちが入ることは、二度とない。
つい少し前まで、あんなに慣れ親しんでいた場所なのに。
これから、私たちは新しい住まいへ向かう。
しかし、「帰る」という感じはまだしない。

あの部屋はこれから、クリーニングされ、私たちの痕跡をさっぱりきれいにして、次の住人を待つ。
がらんどうの部屋に、相変わらず陽光がさんさんと降り注ぐ。
夜は、四隅にしんと闇が落ち、窓から街灯の光が差し込むだろう。

建物から出る。
外は快晴。
目がくらむような明るさだ。
まぶしすぎて、現実感がない。
まるで白昼夢のなかにいるようだった。

今まで、へその緒のようにつながっていた場所から、
すっぱりと切り離されて、どこに行けばよいかわからない。
そんな気持ちで、私たちはしばらくマンションの門前で、ぼんやりと立ち尽くしていた。



その部屋について書いたエントリー。
hei-bon.hatenablog.com