平凡

平凡

猫、挨拶にきたる

引っ越しである。

契約、電気ガス水道各種移転の手配、引っ越し屋への依頼を済ませ、

たまりにたまっていた不要な資料を捨て、

使わないものからパッキングをし、

それらをどう積み上げつつ生活をするか考え、

冷蔵庫のストックを使い切るべく頭を悩ませる。

 

別れを惜しむ暇もなく過ぎる日々のなかで、

行きたかった店にはなるべく行っておく。

馴染みの猫たちにはできるだけ会えるよう、帰り道は遠回りする。

 

そのかいあってか偶然か、遭遇頻度が低い❝レアキャラ❞な動物たちにも合うことができた。

神社のあたりに出没する、ギズモさん(http://www.nihonbungeisha.co.jp/gizmo/)によく似た猫❝偽ギズモさん❞。

おばあちゃんが散歩している、サモエドコーギーの2匹、通称❝サモコー❞。

このトリオは人も犬もわりとお年だ。

会わないと何かあったのか心配になってしまうので、夫が見かけたと聞いて安心したのだった。

そして、この前ブログに書いた、❝うしだ❞との最接近。

hei-bon.hatenablog.com

 

しかし、夫と一緒に、はじめて通称をつけた猫には、なかなか会えなかった。

その名は、❝ぽてぽてボディ抗議ニャー❞。

成猫にしては小さくポテッとしたツチノコ体形で、

じっと見ていると、「あっちへ行ってよ! せっかくくつろいでいるのに!」と言わんばかりの不満げな顔と声で、抗議するように「ニャー」と鳴く。

だから、❝ぽてぽてボディ抗議ニャー❞。

 我々には決してなつかない。しかし、それもまたかわいい。

引っ越しが決まる前、私はチラリと見かけたのだが、会おうと思うと、会えないものだ。 

 

そのニャーと同じスポットに出没する猫が、もう一匹いた。

毛足が長く、白黒ハチワレの❝長毛うしだ❞。

 エサをねだっているときに我々が通りかかると、

「逃げなきゃ! でも、ごはんが……でも、逃げなきゃ!」と

混乱するのか、ぐるぐるその場で回ってニャーニャー鳴き続けるというお間抜けぶりで愛された猫だ。

あたたかくなってから、とんと見かけなくなった。

間抜けな一方、ちゃっかりしているようなので、

シマを変えたのだと、我々の「会いたいリスト」からは外されていた。

 

引っ越し当日は、

会えた動物、会えなかった動物、

お別れを言えた店、言えなかった店、

もろもろのことを思いながら、夜を徹してのパッキング作業に追われていた。

白々と夜が明けて、換気のために窓を開けると……そこには、猫が!

夏毛でボリュームダウンしていたが、それはおそらく❝長毛うしだ❞だった。

「たいへん、たいへん、猫がいるよ!」

夫を呼びよせると、その姿は消えていた。

「あの辺にいたんだよ」

と指さしながら説明していると、塀のかげから、またひょいと、猫が姿を現した。

我々の歓声に気が付き、こちらを見上げる猫。

毛足の長さ、ハチワレ、ちょっと吊り目、まさしく❝長毛うしだ❞だった。

しばらく目を合わせたのち、猫はまたどこかへ行ってしまった。

 

 「挨拶に来てくれたのかねえ」

うしだとの思わぬ遭遇は、その後、あわただしい引っ越し作業の一服の清涼剤となってくれた。

 

その日の夜、夕飯を食べに出たとき、夫がしみじみ、

「それにしても、❝長毛うしだ❞は❝やる子❞だね。

ずっと姿を見せなかったのに、

引っ越しの日に挨拶に来るなんて、なかなかできることじゃないよ」

「あれはできる、できるよ、あんなにできる男の子はそうそういないよ」

と、まるで会社の若い部下をほめるように言っていたのが妙におかしかった。

我々は、❝長毛うしだ❞の性別も知らないというのに。

 

そんなわけで、新しい場所での暮らしがはじまった。

この街で、猫はまだ見かけていない。

ふたり暮らしのほうが、料理は楽ですね、意外と。

結婚するにあたって心配だったのは、料理のことだった。

私は家事が得意ではないが、料理だけはちょっと好き。

それでも、独身時代の自炊は気分次第。

ひとりでなら美味しいけれど、人に作って食べさせるものではない、といった献立も多かった。

たとえば、野菜をしこたま入れたデトックススープだけ、味噌汁とご飯だけ。

あるいは、フライパンひとつでできる、玉ねぎと豚肉のケチャップ炒め。

そんな夕飯は、自分だけの食卓だから許されるものだ。

 

こんな私が、夫に料理を作ることができるのか。

気分次第ではなく、基本、毎日、そこそこの献立を。

 

しかし、やってみるとこれが案外、楽ちんなのだ。

 

まず、食材管理が楽。

ひとりで何種類もおかずを作った場合、

残りの食材を使い切るのが難しかった。

しかし、ふたりだと残り野菜の大半は味噌汁に入れればすぐに消費できるし、

味噌汁に向かない素材もごく簡単な一品にすれば食べきることができる。

料理を毎日続けるほどに食材のサイクルがスムーズに回るのが、ゲーム感覚で楽しい。

 

何より、誰かに料理を作るというのは、いいものだ。

作った料理を自分ひとりで食べているときは、

よほどうまく作れたか、精神状態が飛び抜けてよいときでないと、

「おいしい」とは思わなかった。

一緒に食べる人がいると、料理の手順にも注意を払うから、

(といっても分量を正確になど、最低限のことだが)出来栄えが違うし、

夫が「おいしい~」と言っていると本当においしいのだなと思える。

 

夫の場合、喜んでくれるだけでなく、

「これって、醤油と何で味付けをしているの?」

など質問するので、

「これこれが隠し味なんだよ」

と解説するのも楽しい。

説明するなかで、

「この料理は、この調味料がポイントなのか」と気づくことも多い。

感謝だけではなく、「興味をもつ」ことも、

家庭内の雑事を上手く回していくポイントなのだ。

そんなことにも、結婚と料理を巡って、気づかされたことのひとつ。

 

もっとも、夫はたとえ一汁一菜でも文句を言わず、

「缶のミートソースも、冷凍ギョーザも美味しいね。

半額お惣菜買うのも楽しいよね」と言い、

「忙しいときは外食、中食も問題ないですよ、もちろん」なスタンスなので、

プレッシャーがない、というのも大きい。

 

家で食べる料理は、作る手間も洗い物(夫担当)も必要だけれど、

ゆっくり食べられるし、何より味がやさしい。

美味しい、何入ってるの、洗い物ありがとう。

手間はそのままコミュニケーションもなる。

外食とはまた違った何かを満たしてくれるものだと思う。

 

人のために何かすることは、すてきだけれど、

頑張りが必要なのだと思っていた。

ちょっと、いや、けっこう苦しいことで、

それをあえてやるから美しいのだと。

そういう「人のため」もあるけれど、

日々の営みを自然にするなかで、

「人のため」になることもあるし、

その喜びを得ることもできる。

 

毎日ご飯を作るのって、めんどうだけれど、楽しいこと。

それは、結婚生活のうれしい誤算であり、副産物なのであった。

岩合光昭さんメソッドって、有効なんだなってこと

夫婦そろって猫好きだ。

しかし、BSが視聴できる環境にいない。

したがって、猫好きのマストコンテンツ「岩合光昭の世界ネコ歩き」を、

めったに目にすることができないのであった。

 

年末年始の帰省の折は、母宅において、「ネコ歩き」の録画をまとめて見た。

「あの長毛が!」

「自由な感じ!」

「ワイルド!」

など合いの手を入れながら、えんえんと視聴し続けた。

その結果、セールに行きそこね、初詣に行きそびれ、

母からは、「なんていうか……あんたたち……そんなに猫好き?」とあきれられた。

たまの帰省なのに、申し訳ないことである。

 

番組視聴で我々が得た知見は、「岩合さんは猫をほめる」というものであった。

「どこ行くの?」

といった語りかけに加え、

「いい猫だね」

「かわいいねえ」

と、穏やかな声でほめ続けるのである。

 

ところで、我々の近所には、猫が見られるスポットがいくつかある。

そのうちのひとつに出没するのが、白黒ハチワレの猫、通称❝うしだ❞だ。

煙草屋のおばちゃんがかわいがっており、本名は「ナツ」ということまで割れている。

整った顔立ち、香箱座りをしたときの下半身のふっくら度合など、

どこからどう見ても素晴らしい❝猫っぷり❞。

私たちのアイドル猫だ。

煙草屋のおばちゃんには撫でまわされているようだが、

とくに餌をあげるわけでもない我々には、ふだん見向きもしない。

近づくと、視界に入っていないような涼しい顔をして、すうっと離れていく。

なんとか、お近づきになれないものか――。

それは夫婦の悲願であった。

 

この前、その❝うしだ❞が、歩道沿いの花壇のへりに座っているところに遭遇。

ふだんは、煙草屋の入り口や駐車場の車の間など、近づきづらい場所にいることが多い。

これは千載一遇のチャンスとばかりに、私と夫はしゃがんで❝うしだ❞と目線を合わせ、じりじりと近づいた。

運動不足の身にはこたえるが、腰は決して上げず、少しずつ距離を詰める。

意外と、逃げない。

しかし、こちらを強く意識はしている。

そこで、

「かわいいねえ」

「いい猫だねえ」

「きれいな目をしてるねえ」

「何してるの?」

と、話しかけ続けた。

岩合さんメソッドの実践である。

やはり、意外と逃げない。

もう、❝うしだ❞に手が届くところまで来ている。

 

次なる野望は撫でることだが、いきなり手を出しても逃げられそうだ。

何より、嫌な思いをさせてしまうのは本意ではない。

そこで、ひとさし指と中指をトタトタと花壇の上に走らせ、物陰に隠し……を

繰り返し、遊び心を誘発。

❝うしだ❞は、目をらんらんと輝かせ、指の動きを追っている。

猫じゃらしではなく、指程度でのってくるとは、若い猫なのかもしれない。

そのうち、猫パンチが飛ぶ! 私、逃げる! を繰り返す。

興奮のあまり、❝うしだ❞はのびをしたり、舌なめずりをしたりしている。

なんだか楽しんでいただけているようですが、

撫でて仲良くなるのとは、違う方向にいっているような……。

 

そのうち、同じように❝指遊び❞をはじめた夫は、果敢にも❝うしだ❞の猫パンチを甘受!

一度ならず二度までも挑んだ結果、

パパパパパパン! と、肉球の心地よい音が連続で炸裂するに至ったのだった。

「はじめて❝うしだ❞にふれた!」

と万歳三唱をしかねない我々をよそに、

❝うしだ❞は爛々と目を輝かせたまま、花壇の奥の植え込みへと消えていった。

 

❝うしだ❞は、猫パンチは放ったものの、爪を一切たてなかったようで、その人慣れした気遣いにも、夫婦そろって感服した。

この体験を通し、猫とお近付きになるには、

  1. 猫と目線を合わせ、その高さをキープし続けること。
  2. 穏やかに話しかけること。
  3. 触ろうとせず、対面し、その場にい続けること。

の3点が有効である、との結論に達した。

どれも岩合さんが実践していることのように思う。

 

やはり世界をまたにかける動物カメラマンは伊達ではない。

もちろん、岩合さんの領域に達することはできないが、

それでも真似てみる価値はある。

近所の猫たちと、このメソッドでもっとお近付きになれないだろうか。

そんな野望を抱いた出来事だった。

フリーランス的ゴールデンウィークはどうですか? ぼちぼち仕事です。

「いつお休み取るんですか?」

「土日は休めるんですか?」

 

フリーランスだと話すと、まず最初に聞かれることだ。

これに対する私の答えは、「土日は、まあ、気は休まりますかねー」。

なんとも❝もにゃっ❞としている。

 

理論上は、フリーランスなので、休みたいときに休むことができる。

 

しかし、私の仕事は工程的には「川下」にあたるので、

金曜日に「では、仕上がりは休み明けに!」と言われることは多い。

「土日があるから大丈夫ですよねー」が重なっていくと、

大丈夫じゃなくなる、ということは、ままあるのだった。

 

また、仕事上、取引先以外にも、さまざまな関係各所に連絡やお願いをすることは多い。

土日はもちろん、ほとんどの関係先に連絡はつかない。

しかし、現代には、ネットという便利なものがある。

はじめてコンタクトを取る場合でも、

メールフォームやメールで土日のうちに連絡をつけておくと、

月曜日からの作業がスムーズになるのだ。

 

土日は取引先も休みなので、連絡や確認事項が外から「くる」ことは少なくなる。

なので、雑事をまとめてやっつけることができるし、

「川下」にあたる作業を集中してやることもできる。

仕事をしていても、気持ちはやはり平日とは違っている。

静かに自分のペースで仕事が進められる、

ちょっとしたボーナスステージ感覚だ。

一方で、スケジュールが空けられれば、完全に仕事を忘れることも可能だ。

それをざっくり表現すると、「土日は気は休まる」という表現になるのだった。

 

会社員だって、仕事が終わらなければ休日出勤をするものだ。

ただ、休日前に、土日に進めること前提で仕事をふられるあたりは、

少々違っているかもしれない。

「休日出勤」(在宅だが)の割合はちょっと……いや、かなり多い……といえよう。

また、家で仕事をしているので、遊んだ前後に、

ちょこっと仕事をすることもできる(できてしまう)。

 

ただ、平日は空けようと思ってもなかなか空けられないので、

休むとしたら土日のほうが予定は立てやすい。

理論上はいつでも休めるはずだけれど、私にとっては、それはあくまで机上の話だ。

 

夫は土日が休みなので、なるべく土日の作業は少なくして、ふたりで過ごすようにしている。

交際中は、がっつり土日2日間デートをすることが多かったのだが、仕事をどうしていたのだろうと今になって思う。

あまり「やればできる」とも思えないので、金曜の夜や日曜の夜に頑張っていたのだろう。

仕事が切羽詰まったら、もちろん会わずに仕事をしていたのだが……。

 

で、今週のお題である「GWどうですか?」。

今年のゴールデンウィークも、

ゴールデンウィークがあるから大丈夫ですよね♥」という案件がわりと重なっているし、

祝日に外出を伴う仕事も決まっている。

ただ、この1~2週間、必死で手配して、休み中に「川下」の仕事ができるようにした経緯があるので、

そう悲観的なものでもない。

納期が決まっている以上、休み中に動けないのは、それはそれで厳しいのだ。

 

ゴールデンウィークは、毎年似たような感じだ。

ただ、夫と付き合ってからは、1泊2日くらいの旅行にはなんとか出ている。

出先で関係各所から問い合わせの電話がかかってきて、

心臓に悪いこともあるけれど。

 

今年は夫も、ゴールデンウィーク前半は仕事があるようだ。

家の雑事があるので、1泊2日の旅行もなし。

本当は、笠間の陶炎祭に旅立ちたかったな……。

いやいやせめて、ふたりでスーパー銭湯にでも行きたいな……。

なんとか仕事をそつなくこなし、かつ、ちょっとでもリフレッシュしたい。

そんな一縷の希望を乗せて、ゴールデンウィークは後半へと突入していくのであった。

 

今週のお題ゴールデンウィーク2016」

結婚の御挨拶は、両親も何かと緊張して大変だよね☆って話

結婚の挨拶の思い出というと、なんといっても、「平凡母のスプーン曲げ事件」である。

 

❝事件❞の前提として、以前にも書いた通り、うちの両親は離婚している。

hei-bon.hatenablog.com

 

そのため、「結婚の御挨拶」にあたっては、父母それぞれが、ひとりで娘の結婚相手と向き合うこととなった。

今、振り返ると、ことに母はそのプレッシャーを強く感じていたように思う。

そんなわけで、結婚の挨拶後、食事には兄夫婦が同席することになったのは、母の希望が大きかった。

 

当日は、夫が挨拶を終えて、母がちょっとうるっとして、

いい感じになったところで兄夫婦に合流してもらい、

みんなで鍋をつついた。

夫も笑っているし、みんな和やかでよかよか……と思ったところで、

母が「わたし、じつは、スプーン曲げができるんだ!」と爆弾投下。

 

スプーン曲げ?

スプーン曲げ、とは?

ユリ・ゲラーなあれですか?

超能力? 念力、的な?

でも、なんで今?

2014年だよ? 21世紀入って10年以上たってんだよ?

 

母は多少おかしな人ではあるが、いくらなんでも唐突すぎる。

何これ、こういうのはやってんの? 

母の鉄板ネタなの? と兄夫婦を見ると、

コミュニケーション能力の塊であるところの兄嫁までが固まっている。

ああ、これ、アカンやつや。

 

「えっ、それってユリ・ゲラーみたいな……?」

「お、お義母さん、念力ってことですか?」

兄夫婦も同じことを考えている。

「今やらなくってもいいじゃん」

「意味わからないし!」

これはやばいと、戸惑いから「止め」モードに入る平凡兄妹だが、

「いや、ほんとにできるの!」

スプーンを持ってきてしまう母。

 

「見ててよ!」

と、額にしわ寄せた母は、一点集中、スプーンの根元をこすりこすり、

「えいっ!」と曲げた。

指で、普通に。

力を入れて。

いや、いちおう、使ったのは親指一本だけではあるのだけれど……。

どう考えてもそれは、それは、超能力の類ではなくテコの原理だ。

ああ、偉大なり、ワンダーなり、物理法則。

 

「ほら、曲がったでしょ」と得意満面の母をよそに、

「ええええええええ」

「それ、指で曲げてますやん!」

「力技でしょ!?」

「お、お義母さん、それは」

と、夫までも戸惑いと笑いの渦に巻き込まれ、

なんとか食事会はお開きになったのだった。

 

これが、今でも夫婦の話題にのぼる「母のスプーン曲げ事件」である。

娘婿の結婚挨拶で母もテンパっていたのね、ということになっている。

 

しかし、その後、「スプーン曲げしようとしたよね~」と母の前で話題にすると、

「そうそう、スプーン、曲げようか?」とウキウキとスプーンを持ってこようとする。

あの事件前、スプーン曲げに凝り始めた母は、家のスプーンを全部曲げて(私の目線で言わせてもらえば、へし折って)しまい、

スプーンを全部買い替えたということも、後で聞いた。

 

これらを総合すると、テンパっていたというより素なんじゃないのか……とも思うのだが、

なんとなく、娘の結婚でテンパっていたのだ、と思うことにしている。

母は、ほら、ひとりだし。

なんとなく、なんとなく。

 

というわけで、結婚の御挨拶ってのは、

「される」側の両親も何かと緊張して、大変だよね、という話であった。

永作博美主演のあのCMが、今も変わらず胸を打つのは

オンエア当時、狂ったように見まくっていたCMがある。

永作博美が出演していた「月桂冠 月」の一連のシリーズだ。

CMソングは、安藤裕子の「のうぜんかつら(リプライズ)」。

 

とくに、「ふたりの貝」編が好きだった。

 

CMは、永作博美*1演じる妻が、畳の上で笑い転げているシーンから始まる。

視線の先には、頭を丸坊主にしたその夫(役の俳優)。

黙って頭をさすりながら、(そんなに笑わなくても……)という表情をしている。

和室に面した洗面台で、夫が鏡をのぞく間も、笑い続ける妻。

商店街へ買い物に出たふたりは、魚屋で貝を買う。

帰宅後、貝を下ごしらえをする妻と、それを見つめる夫の後ろ姿。

ふたりは蒸した貝を肴に、月桂冠で乾杯する。

カメラはテーブルからベランダに並んだふたつの椅子に移り、

「わたしの趣味は、あなたです」のナレーションが流れる。

夫婦の表情からは、盃を傾けながら、また夫の髪型を話題にしていることが見て取れる――。

 

抑えたトーンで描かれたこの夫婦の日常の、「小ささ」に私は憧れた。

2間ぐらいのアパートタイプの部屋。

和室に面して洗面台が置かれている強引な間取り*2

ガスコンロが2口の、小ぶりな台所。*3

商店街での、手をつないでの買い物。

パートナーの行動への、予期せぬ反応とその戸惑い。

それすらもやがて楽しみに変わっていく、穏やかな生活。

 

小さなアパートに暮らし、お互いをお互いの喜びとするその姿は、「世間の片隅」を感じさせた。

世間の片隅にある、静かで穏やかな生活。

私にとって、「月桂冠 月」のCMはその象徴だった。

外で何があっても、夫婦の間には、小さな日常と、ささやかな幸せがある。

短いCMに凝縮されたそんな空気感に憧れるとともに、

いつも、ぎゅうと胸を締め付けられるような苦しさを覚えたのだった。

 

それはこのCMが、短い時間のなかで、小さな幸せが有限のものだと雄弁に物語っているからではないかと思う。

CMソングは冒頭に書いた通り、安藤裕子の「のうぜんかつら(リプライズ)」。

「いつかひとりになって」「ふたりの時間を」と歌う切ないメロディが、

いつかは離れてしまう夫婦の、人生の一瞬がかけがえのないものであると訴える。

 

CMのオンエアは2006年。

10年後の今、私は結婚している。

社会生活ではいろいろあるけれど、ふたりでいればとりあえず楽しい。

その一方で、夫と手をつないで歩くとき、食卓を囲んで笑い転げるとき、

やはりこの時間は有限なのだと強く思う。

楽しければ楽しいほど、いつかどちらかが残されて、

ひとりこの時間を思い出すとき、どんなに苦しかろうと思うことがある。

 

だから、あのCMを見ると、今も昔も変わらず胸が苦しくなる。

幸せであればあるほど感じる切なさ。

「ふたりの貝」は、普遍的な感情を見事にすくいあげたCMだと、

2016年の今、改めて思う。

*1:永作氏は、このCMのディレクターと後にご結婚なさった

*2:きっと、「独立洗面台」というものがなかった時代の、古い建物なのだろう

*3:CMソングが少し明るい調子の、コトリンゴの楽曲に変わってからは、夫婦の住まいはマンションのような新しさを感じる部屋に変わっている

終わりなき欲求に駆り立てられて、私は今日もブログを書く

なぜブログを書くか?

んなもん決まっている。

書きたいからだ。

アクセスがどんなに少なかろうが、

テーマが定まらなかろうが、

迷走しようが、

書きたいから書く。

 

Evernoteでは、日記帳では、ダメなのか?」

と問われたら、ダメなのだと即答できる。

ただ、理由は答えられないだろう。

たとえ大海原の真ん中でひとり叫んでいるような状態であっても、

やはり公の場で書かずにはいられない。

プライベートで書く日記と、ブログは違う。

人の目にふれることを意識して発信する。

おそらく、そこに意味がある。

 

私は人のブログを読むのが好きだ。

とくに、何気ない日々をつづったものがいい。

たんたんとした日記を書いている人にも憧れる。

この人は、地に足つけて生きている。

その姿が文章で垣間見えるのがおもしろい。

ありふれた日常を綴っていても、

他者の目を意識する限り、

必ず文章はパッケージをまとう。

よりわかりやすく、読みやすく、魅力的になるように。

その編集の仕方ににじみ出る個性を感じるのも、楽しい瞬間だ。*1

 

有名無名のブログを読んでいて、

「この人は書くことの業に取りつかれているな」と感じる人がいる。

「業」というと大げさだけれど、

現行ブログの前にもブログをやっていたろう、と推測ができる人たち。

一定以上の年齢の人なら、テキストサイトをやっていたはずだ。

私も含め、そういう人たちは、インターネットがある限り、

どこかでテキストを発表し続けるだろう。

しかし、何がそうさせるのか、それがわかっている人なんているのだろうか。

 

誰かに聞こえる場所で、声を発したい。

そういった欲求をもった人間が、

ブログを書くだけで満足するかというと、そうではない。

主語が大きくなったが、少なくとも私はそうだ。

じりじりとした欲求に駆り立てられて、私はブログを書く。

書き続ける。

その先に何があるのか、わからないしわからなくていい。

誰かに承認されたらうれしいだろうけれど、そうしたら満足するだろうか?

答えはおそらくノーだ。

欲求のための欲求が、車輪を回し、私をキーボードに向かわせる。

 

インターネット以前の社会では、

この業や欲求は、どんな風に表現されていたのだろうか。

私の推測では、欲求の「種」は各個人のなかにあったけれど「種」に過ぎず、

テクノロジーがそれを発芽させ、顕在化させたのだ。

そして、一度気づいてしまった欲求、

「誰かに届くかもしれない場所」で声を発する喜びは、

忘れることができない。

 

だから、人は、否、私はブログを書く。

それが「私がブログを書く理由」だ。

 

他の方は、この問いにどう答えているのか。

本当は何に駆り立てられているのか、その答えはあるのか。

他ブログのエントリーを読むのが、今から楽しみなお題である。

 

今週のお題「私がブログを書く理由」

 

表現について、以前書いた記事。

仕事で自分らしさを排除する一方で、ブログを書く。

これはこれでバランスが取れているのだろうか。

hei-bon.hatenablog.com

*1:クローズドな日記帳とまったく同じような調子で日常を綴る人もいる。それすらパッケージであることもあるが、コミュニケーションを完全に排除したブログも見かける。そういったケースでは、書き手がどういった意識をもっているか、私には想像がつかない