なぜブログを書くか?
んなもん決まっている。
書きたいからだ。
アクセスがどんなに少なかろうが、
テーマが定まらなかろうが、
迷走しようが、
書きたいから書く。
「Evernoteでは、日記帳では、ダメなのか?」
と問われたら、ダメなのだと即答できる。
ただ、理由は答えられないだろう。
たとえ大海原の真ん中でひとり叫んでいるような状態であっても、
やはり公の場で書かずにはいられない。
プライベートで書く日記と、ブログは違う。
人の目にふれることを意識して発信する。
おそらく、そこに意味がある。
私は人のブログを読むのが好きだ。
とくに、何気ない日々をつづったものがいい。
たんたんとした日記を書いている人にも憧れる。
この人は、地に足つけて生きている。
その姿が文章で垣間見えるのがおもしろい。
ありふれた日常を綴っていても、
他者の目を意識する限り、
必ず文章はパッケージをまとう。
よりわかりやすく、読みやすく、魅力的になるように。
その編集の仕方ににじみ出る個性を感じるのも、楽しい瞬間だ。*1
有名無名のブログを読んでいて、
「この人は書くことの業に取りつかれているな」と感じる人がいる。
「業」というと大げさだけれど、
現行ブログの前にもブログをやっていたろう、と推測ができる人たち。
一定以上の年齢の人なら、テキストサイトをやっていたはずだ。
私も含め、そういう人たちは、インターネットがある限り、
どこかでテキストを発表し続けるだろう。
しかし、何がそうさせるのか、それがわかっている人なんているのだろうか。
誰かに聞こえる場所で、声を発したい。
そういった欲求をもった人間が、
ブログを書くだけで満足するかというと、そうではない。
主語が大きくなったが、少なくとも私はそうだ。
じりじりとした欲求に駆り立てられて、私はブログを書く。
書き続ける。
その先に何があるのか、わからないしわからなくていい。
誰かに承認されたらうれしいだろうけれど、そうしたら満足するだろうか?
答えはおそらくノーだ。
欲求のための欲求が、車輪を回し、私をキーボードに向かわせる。
インターネット以前の社会では、
この業や欲求は、どんな風に表現されていたのだろうか。
私の推測では、欲求の「種」は各個人のなかにあったけれど「種」に過ぎず、
テクノロジーがそれを発芽させ、顕在化させたのだ。
そして、一度気づいてしまった欲求、
「誰かに届くかもしれない場所」で声を発する喜びは、
忘れることができない。
だから、人は、否、私はブログを書く。
それが「私がブログを書く理由」だ。
他の方は、この問いにどう答えているのか。
本当は何に駆り立てられているのか、その答えはあるのか。
他ブログのエントリーを読むのが、今から楽しみなお題である。
今週のお題「私がブログを書く理由」
表現について、以前書いた記事。
仕事で自分らしさを排除する一方で、ブログを書く。
これはこれでバランスが取れているのだろうか。
*1:クローズドな日記帳とまったく同じような調子で日常を綴る人もいる。それすらパッケージであることもあるが、コミュニケーションを完全に排除したブログも見かける。そういったケースでは、書き手がどういった意識をもっているか、私には想像がつかない