「あの、ひょっとして、よろしかったら」
友人はそう言って、我々の前に立っていた女性に、席をゆずった。
今から10年ほど前だろうか。
胸元から広がるデザインのチュニックが、流行りに流行っていたころだ。
その女性も、そういったトップスを身に着けていた。
が、私がそのことに気が付いたのは、隣に座る友人が席を立ち、
冒頭の言葉を口にした後だった。
ふんわりとした布の内側で、腹部が丸みを帯びて、ふくらんでいる。
女性はほほえんで、
「ありがとうございます」
と席に座った。
「よかったです。違っていたら、その、失礼なので」
友人も、ホッとした笑みを浮かべ、つり革につかまった。
そのとき、私たちは女三人で電車移動をしていた。
友人は私たちに相談するような野暮もせず、
おそらく女性の体形に気がついてから、間髪入れずに席をゆずったのだ。
逡巡することのない一連の動きは、とてもスマートだった。
何より、かしましく盛り上がるなか、
彼女が周囲の人に目をやっていたことに驚いた。
電車を降りた後、「すごいね」と言うと、
彼女は、「お腹見て、ひょっとしてって思ってね。
チュニックは妊婦さんかどうか、わかりづらくて困る」と笑った。
カッコよかった。
私も善意や好意を、誰かにサラリと受け渡せる人間でありたいと思った。
乳幼児連れの人を見たとき。
妊婦らしき人を見たとき。
杖をついている人を見たとき。
私も席を譲ることはある。
しかし、あんな風にできない。
ひきつった表情で、「どうぞ」と言うか、
黙って席を立ってしまう。
しかも、「迷惑かも、嫌がられるかも」と汗をかいてかいて、
やっと行動に至る。
ちっともスマートではない。
それに、そういった態度は、相手に負担を与えてしまう。
それでもチャレンジしたいと思うのは、
あの日彼女が見せた思いやりが、私の胸にも灯ったからだ。
たぶん、友人が女性に席を譲った光景を見ていて、嫌な気持ちになった人はいないだろう。
気負いのない善意は爽やかで、周囲をあたたかくしてくれる。
世界がほんのちょっとでもよくなるとしたら、それの積み重ねしかないのでは。
大げさだけど、そう思ったのだ。
そしてもしその善意が巡り巡って、
いつかあの優しい友人が見知らぬ場所に困ったときに、
誰かが手を差し伸べてくれたらいい。
とは書いてみたものの。
まずは、「世界」とか「巡る」とか、
こういった壮大な気負いを捨てることが、スマートさの第一歩なのでは――。
わかっていながらも、座席を必要としているであろう人を見ると、
(譲るぞ、譲るぞ……)と肩に力が入りまくってしまう私であった。