年明け早々、西武・そごうの広告が炎上した。
医学部の入試不正をはじめ、
ジェンダーギャップの存在をまざまざと見せつけられた2018年。
パイをぶつけられてしょんぼりし、
いやいや、しょんぼりしているだけではいけない、
次世代にこんなことを背負わせるわけにはいけない、そう思っているところに、
パイをただぶつけられている広告を見せられるのはキツかったです、はい。
ところで結婚して丸4年が経ったが、いまだに新姓に慣れない。
法律婚に無邪気な憧れがあったので、
「(新姓)平凡だって、キャッ」という気持ちはなくはなかった。
夫のことは今も昔も大好きだ。
しかし、いつまでも「キャッ」は「キャッ」の域を出ず、
病院や役所で名前を呼ばれるときは、よほど集中しないと聞き漏らしてしまう。
「(新姓)平凡」と書くべきところで、夫の名前を続けて書いてしまうことも多い。
この名字といえば、夫、なのだ。
わたしの旧姓と下の名前には、同じ「偏」が使われており*1、
その組み合わせに愛着があったので、ある程度は予測できていたことだ。
しかし、いくらなんでも1、2年でそれなりに慣れるだろうと思っていた。
それ以上に予想外だったのは、「(旧姓)平凡」という名前も、自分のものとは思えなくなったことだ。
仕事では「(旧姓)平凡」で通している。
旧姓で呼ばれて返事をすることに、だんだん集中を要するようになってきている。
「(旧姓)平凡」は、仕事関係の人が、私を呼ぶときに使うもの。
「(新姓)平凡」は、病院や役所で呼ばれる法律名。
「旧姓のほうがやっぱりしっくりくる」と思えるならまだよかった。
以前は「わたし」とぴったり結びついていた「(旧姓)平凡」も、
もはや自分とは切り離されてしまった。
かといって新姓にはなじめない。
よるべのない、宙ぶらりんな感じがする。
友人が少なく、下の名前で呼ばれることが少ないからか。
あるいは、在宅仕事で、そもそも人から名前を呼ばれることが少ないからか。
両方かもしれない。
「アイデンティティを奪われる」と表現することがある。
自分自身に関して言えば、アイデンティティはそのままだけれど、
それを束ねるものがなくなってしまった感じがする。
「わたしは、私」で変わらないけれど、
そのパッケージをペロリとはがされてしまった感じ。
それを広義に「アイデンティティを奪われる」状態と呼ぶのかもしれないけれど。
いずれにせよ、名前がはがれた、むきだしの「個」のまま生きるのは、
フワフワ地に足がつかず、しんどい。
何がしんどいか、いまに至って言葉でうまく説明することができない。
ただ。
フリーランスのわたし、だれかの娘、妻であるわたし、
今こうして文章を打っているわたし。
それらを黙って統合してくれていた名前がない。
もしくは希薄になっている。
いちいち、それぞれの「わたし」を意識してまとめあげないと
「わたし」になれない。
そういう感覚が、年々、重くのしかかってくる。
こんなことは、改姓するまで考えたこともなかった。
そういえば、西武・そごうの広告には、
「わたしは、私」という表現が使われていた。
「わたしは、私」。
ほかの何者でもなく、「わたしは、私」。
それが生きづらさを突破する、護符のように掲げられていた。
今の世の中、「男性らしく」「女性らしく」でみんなが幸せになるのは難しい。
その役割の息苦しさと、役割の中に潜む差別や抑圧に、
多くの人が気づいているからだ。
社会的に決められた「らしさ」を外れたところには、
無理せず生きられる幸せと、ロールモデルが存在しない苦しさと不安がある。
「わたしらしく」は、原動力であり、希望でもあり、ハードルでもあり、課題でもある。
護符なんかじゃない。
そして、広告の趣旨とはズレているとわかってはいても。
改姓でアイデンティティクライシスを抱えたわたしは考える。
広告を作った人は考えたことがあるのだろうか。
ラベルなく、むきだしでバラバラの「わたしは、私」で存在することのしんどさを。
時代は、「らしさ」と「個」の過渡期。
旧姓と新姓のはざまで、わたしは、
ただむきだしの「わたしは、私」であることの重さに耐えかねている。
*1:たとえを出すと、河村清子のような組み合わせ