ネットでは、しばしば
「デートにおいて、
男性が女性におごるか、おごらないか」が話題にのぼる。
夫とまだ恋人ですらなかったとき。
居心地がよいなと感じた理由のひとつに、
夫がやたらとおごらなかったことがある。
関係が深まらないうちに食事をおごられると、
私は、なんとなく、引いてしまう。
重荷に感じてしまう。
たとえばひとり1000円飲食をしたとする。
2人分を支払うと、2000円だ。
仮に自分ひとりで食事をするとき、
1000円と2000円では、どんな店で何を食べるか、ずいぶん違いがある。
1000円なら、ちょいと贅沢だけどカフェランチ程度。
2000円なら、瀟洒なレストランのお得なランチコースぐらいは食べられる。
おごる場合、1000円のカフェランチを食べたとき、
相手の分も支払って、
ランチコースぐらいの価格になる。
倍になる。
当たり前だけど、なんだかそれってすごい、と思うのだ。
私にも、人におごること/おごられることはある。
おごるときは、そうしたいと思って、する。
けれど、それは、後輩だから、送別会だからなど、
何かご馳走したい理由や関係性がある。
そういった関係性があれば、おごられるときも、
肩肘張らずにありがたい、と受け取ることができる。
❝そういった関係性❞に、「男女だから」が
自然にあてはまる人もいるのもわかる。
ただ、私としては、男女というだけで、
常にどちらかが2倍払うのは、不自然だと感じるのだ。
経験上、「おごります」と言われたときに固辞すると、
相手の顔に泥を塗ってしまうこともあることも、知っている。
そういうときは、よくお礼を言って、好意に甘えさせてもらう。
しかし、「好意に甘えさせてもらう」という感覚と、
手に手を取り合って交際しましょうという感情は、
私にとって、いささか遠いところにある。
だから、さして理由がないときや、
関係がまだ深まっていないうち、異性におごられると、
まごまごしてしまう。
夫とは、交際前も交際中も結婚後も、基本、割り勘。
たまにご馳走したりされたりもあるけれど。
はじめて夫がおごってくれたのは、
交際前の数度目のデートで。
(我々は交際前、デートを繰り返していた)
映画館でコーヒーを買ったとき、何気なく「ここは出しますよ~」と言ってくれた。
もう何回かふたりで会っていたし、コーヒーだとさしもの私も負担を感じず、
ただありがとうございます、と受け取ることができた。
と同時に、「この人は自分を女性として見ているのかもしれない」とも思ったのだった。
「おごる、おごらない」には、
その人が人生で身に着けてきた金銭感覚や、性別役割分担の感覚がシンプルに出る。
だから、たぶん、考え方が違う者同士で議論しても、平行線にしかならない。
また、そこでつまずく相手とは、交際しても上手くいかないことが多いだろう。
時代は変わりつつあり、「男性が女性におごる」という風習は既に廃れてかけていると聞く。
日本の経済状況を考えると、これからもその流れは変わらないと、私は思う。
いつかは、デートで男性が女性におごる時代があったことが、
驚きをもって語られるかもしれないし、
ある階層だけに見られるならわしになるかもしれない。
そんな時代にあっても、無理に感覚が違う相手と合わせることはない。*1
おごられないと嫌な人はおごってくれる人と付き合い、
おごられて嫌な人は、おごらない人と付き合えばよい。
関係が進めば、おごるおごられる以外の金銭感覚や価値観の相違、
すり合わせは山ほどあるのだから、
根本がズレている相手と無理することはないのではないか。
「おごる、おごらない問題」について、私はそのように思っている。
*1:これは問題の本質ではない。ネットでしばしばこの問題が議論の的になるのは、平行線であることに加え、おごられると思う側は割り勘派を「ケチ」と称し、割り勘派はおごられることを期待する側を「ずうずうしい」とののしるからである。互いが「世界が違う」と思い、無視ないし尊重すればよいのだが、そんなことができれば世界はとっくに平和になっているに違いない