平凡

平凡

路上の孤独

孤独だ。

それが、犬とわたし、ひとりと一匹ではじめて路上に出たときの感想だった。

 

散歩は、「犬を責任をもってお世話ができるか」を考えるときに筆頭にあがる行為だと思う。我々もそこには大きな不安を抱いていた。

何しろ我々は犬と暮らすのがはじめて。散歩はお試し散歩、つまり経験豊富なボランティアさんが近くにいる状態でしかやったことがない。

犬と歩くってどんな感じ? 他の犬と上手く挨拶できる? 飼い主さん同士で会話が発生したりする? 拾い食いとかしちゃわない?

 

犬との暮らしに慣れるまでは、できるかぎり夫婦一緒に散歩に行こうということになったが、仕事の都合上、夫の同行が難しいこともある。トライアル2日目の夕方には、早くもわたしひとりと犬一匹で、路上に出ることになった。そうして感じたのが、冒頭にあげたとおりの孤独、であった。

 

うちの前を走るのは片側1車線ずつの車道で、それほど広くない歩道が付随している。犬と散歩に出たのは17時過ぎ。路上には、さまざまなものが行き交っていた。

車、バイク、自転車、歩行者……。車といっても軽自動車からバス、トラックまでの幅があり、歩行者には親子連れもいれば、帰路を急ぐスーツ姿の人もいる。それぞれが違う音を立て、異なるペースで通り過ぎていく。

 

人間にとって何気ないその光景のすべてが、この道にまだ慣れていない犬にとっては脅威に映る。

犬はおっかなびっくり歩き、トラックが大きな音をたてた、自転車が近くをすり抜けたとなれば、通称「忍者走り」が出る。これはうちに来るまで犬の世話をしてくれていた預かりボランティアのAさんが命名したもので、下半身を思い切り下げて、ジダジタしながらリードを引き、とにかく前へ前へ進もうとする走り方のこと。この犬がおびえたときに見せる、特徴的な行動だった。

 

とはいえ、それほど力がないわたしであっても一応は制御できる。にもかかわらず恐ろしいのは、その状態になると、犬がパニックの原因となったものの方へ走ろうとすることだった。すわなち、犬はたいていは車道へ向かおうとする。これはリードを握り慣れていない人間にとっては恐怖だ。当然、人間は焦る。それが伝わって犬もパニックが止まらなくなる。

 

犬の名前を呼びつつ、ジダジタする犬を引き引き、なんとか静かな道へと入る。犬の歩き方が戻ってホッとするのも束の間、今度は別の脅威が現れる。

路上に吐き捨てられたガム、たばこの吸い殻、ビニール袋。犬はそういったものにそれほど興味を持つわけではない。しかし、万が一のことを考えれば気は抜けない。

 

やがて、公園に着く。犬は地面や草むらをクンクン嗅ぎ回る。草むらは、何が落ちているかが見えにくい。アスファルトの道路にもまして、何かを食べてしまわないか、目を光らせる必要がある。

 

公園は憩いの場であり、車道に付随する歩道と違うのは、歩き方の自由度が高いことだ。なかには行動の予測がつきにくいちいさなお子さんや、リハビリ中らしき人、お年寄りもいる。犬が苦手、怖い人は世の中にはたくさんいるし、「犬、別に?」という人だって、見知らぬ犬はある程度怖いものだ。攻撃性皆無の犬とはいえ、何もないように注意をしなければならない。

 

もちろん、そこにはほかの犬たちもいる。うちの犬はボランティアのAさんから聞いていたとおり、ほかの犬に対して友好的だ。しっぽを立てて駆け寄ろうとするが、どの子がご挨拶OKなのか、そうでないのか、飼い主さんはそもそも他の犬との接触を好ましく思っているのかどうかわからない。うちの犬自体も、近寄ったあとにどんな反応をするか、そのころのわたしにはまだ想像がつかなかった。

 

このように、いったん犬のリードを引いて外に出ると、見慣れたはずの街が危険満載の場所に映る。そこにあって、犬を守れるのはわたしひとりなのだ――。

 

そんな孤独を感じてから、3か月弱が経った。

 

ひとりと一匹での散歩にもずいぶん慣れた。

既知の場所が増え、犬が「忍者走り」を見せることはずいぶん減ったし、多少パニックになっても、気持ちの持ち直しが早くなっている。

路上に落ちているものには注意が必要だが、興味をもちやすいものとそうでないものがはっきりしていることもわかってきた。

うちの犬が、ほかの犬に興味を示したときはまごまごせず、まずは「ご挨拶させてもらってもいいですか?」とひと声かければそれでいい。

犬は「待て」といえば聞いてくれるし、わたしも止めることができる。そういう信頼や自信もあるていどは育まれてきた。

 

とはいえ、試行錯誤は続いている。犬が落ち着いて歩けるルートが増えて長く歩けるようになったころ、ちょうど蒸し暑い季節を迎えた。そうすると、今までと同じ距離ではオーバーワークになるらしく、ルートの見直しが必要になった。

また、暑くなると日中のアスファルトの熱気がなかなか取れないため、散歩は日が落ちた時間帯に限られる。暗い中での散歩は、どうも犬もナーバスになりがちで、あまり楽しそうではない。

そういうことをことばで通じ合えぬ犬の様子を見ながら判断し、なんとか散歩を楽しいものにしようとする。

しかし、それらは正解がなく多少骨が折れることであっても、まごうことなき犬とのコミュニケーションであり、散歩はひとりと一匹の共同作業だと感じられるポイントで、共同作業と孤独は縁遠いものだ。

 

また、夫婦と犬で散歩に出ると、犬はとてもうれしそうにする。犬を迎える前は「夕方はどうしてもわたしが散歩に出ることになるから、朝は夫担当で……」と話していたのだが、犬の喜ぶ姿を見たくて、何よりみんなで歩くのが楽しくて、できる限り都合をつけて夫婦と一匹で出るようにしている。犬が歩きながら、「来てる?」というようにわたしと夫をチラチラ見る。それにアイコンタクトを返し、「かわいいねえ」と夫婦で笑い合う。そんなとき、わたしは路上で「あ、家族だな」と思う。

 

「犬友さん」とまでいえる人はまだいないけれど、公園や散歩ルートでよく会う“イツメン”はできてきた。初見では吠えかかるものの、いったんお互い挨拶してしまえば他犬とも仲よくできる小型犬の飼い主さんは、まだまだどれぐらいがプレイバウ(犬がお尻を高く上げて遊びに誘う姿勢)なのかケンカなのか区別がつかないわたしに、「これぐらいなんてことないの! うちの子だってもっと若いときはこんななってくんずほぐれつ遊んだものよ!」と力強く言ってくれた。

見かけるたびに遊びに誘ってくれる柴犬の飼い主さんは、換毛期に「もう、すっごくって!」と言って、柴犬の毛をその場で抜いて見せてくれた。それはほとんど根元を頂点とした円錐形の塊で、柴犬系とおぼしき雑種のうちの子よりもずっとすさまじかった。噂に聞く“本家柴犬”の換毛期のたいへんさを目の当たりにしたのだった。

犬がいなかったら一生会話をすることのなかった近所の人たちと、なんてことのない話をしている。しかも会話が生まれるかどうかは、犬同士が遊びを望むかどうかが大きなキーなのだ。それは不思議で淡く、温かいご縁だと思う。

 

ひとりと一匹の共同作業。家族という感覚。近所の人たちとのコミュニケーション。路上で感じるのは、孤独だけではなくなった。

 

それでも、リードを握りながら思う。一歩外に出たら「この子を守れるのはわたし/わたしたちだけ」という「孤独」は根本にあって、変わらない。そして、この「孤独」は、「動物と暮らす」ことの本質なんじゃないだろうか。

 

動物とは、一歩外に出たら愛されるとは限らない、事故にあったら物扱いとなる(もちろん動物を好んでひきたい人などいないだろうが、法律としては)、社会から見たら「取るに足らない」存在で、しかし、自分にとってはこのうえなく大切なもの。動物と暮らすとは、そんな存在を全力で守ること。それはやはり、ある種の孤独を内包しているのではないか。

 

もちろん家の中でも、誤飲誤食などの危険から犬を守らねばならず、それができるのも共に暮らす人間しかいない。

 

ただ、その「孤独」から、「わたしと一匹」あるいは「わたしたちと一匹」という種が違う動物同士で作る一単位が生まれ、そこからさらににじむように「ご近所の輪」が広がっていく。それはとても温かいものだと思う。

 

「じゃ、いこうか」

犬とアイコンタクトをして、今日も外へ出る。かわいいなあ、いとおしいなあ、楽しいなあ。今日はどのルートへ行こうか。いつも会うあの犬に会えるかな? そういう温かな気持ちの核に、しんとした孤独がある。家の外でも中でもそれは変わらないけれど――動物との暮らしの土台にある、硬く静かな孤独の存在を強く感じるのは、やはりリードをしっかりと握りしめるこの瞬間なのだった。