足元に、犬がいる。黒い被毛に覆われた首をわたしの足の甲に乗せ、薄茶色の脚を伸ばしてすやすやと眠っている。わたしはじっとりとしたその体温を感じながら、キーボードを打っている。
わたしたち夫婦は、いま、犬と暮らしている。
「犬を飼うとは、思わなかった」と書くと、ブログ読者の方は意外に思われるかもしれない。
ここ2、3年、わたしたち夫婦はほうぼうの譲渡会などに足を運び、「運命の犬」探しをしており、それをブログにも綴っていたからだった。
しかし、我々夫婦はもともと、生粋のキャットパーソン、猫好きだった。
お互い実家では猫と暮らしていたし、結婚後は同じ保護猫カフェに8年ほど通っていた。
しかし、わたしのアレルギー問題もあり、次第に犬にも興味を持つようになった。結局、ふたりとも猫好きのベースに動物好きがあったのだと思う。
大きなきっかけとなったのは、町田康のエッセイ『スピンク』シリーズとの出会いだ。犬の一人称で書かれたエッセイというと安易な擬人化を思い浮かべるかもしれないが、そこは町田康だ。「人間とまったく違う感覚を持つ動物が、人間と暮らしている」視点から書かれていて、猫好きの我々にとってもおもしろいものだった。
なかでも印象に残ったのが、「犬は散歩でにおいを楽しんでいる」というもの。これは犬と暮らしたことのある人にとっては常識だと思うが、当時の我々にはたいへん新鮮に映った。
道行くお散歩中の犬を見ていると、たしかにクンクンといろいろなものを嗅いで楽しんでいるように見えた。漫然と「犬を外で歩かせるもの」ととらえていた犬の散歩に、「犬が、においを楽しむためのもの」という視点が加わった瞬間だった。
興味は「好き」のはじまりだと思う。それから我々は、さまざまな場所で行き会う犬を見ることに喜びを見出すようになった。
歩きながらチラチラと飼い主を見上げる犬。家に帰りたがらない犬。他の犬が気になってしようがない犬。ふわふわの犬、短毛の犬、大きな犬、ちいさな犬。
やがて、「犬と暮らせたら」と考えるようになった。
我々の念頭にあったのは、当初から保護犬だった。思想が強いと言われればそれまでだが、保護猫カフェに何年も通っていると、何かを飼おうと考えたとき、保護動物しか選択肢がなくなるのだ。
保護猫カフェには、ひっきりなしに猫がやってくる。大人の猫、子どもの猫、雑種、純血種。外で保護された猫、飼い主がなんらかの事情で手放した猫、保護した猫が産んだ猫。外で保護された猫の中には、生まれながらに外で生きてきたものもいれば、迷ってそのまま帰れなくなった猫、捨てられた猫もいる。
彼らがもつ事情はさまざまで、そして行き場をなくした彼らはまとめて「保護猫」と呼ばれる。
彼らは皆、個性的で、魅力的で、愛らしかった。そんな猫たちが行き場をなくし、絶えることなく「家族探し」の場にやってくる。
わたしが通っていた店の雰囲気もあるのだろうが、そんな彼らを「家族に」と迎える人たちは、「かわいそう」よりも、「この子をぜひ!」「この子と暮らしたら楽しそう!」が先に立っているように見えた。
「この子を」と思えば、大人猫でも子ども猫でもシニア猫でも家族に迎える人がいる。
ペットショップから迎えようが、ブリーダーから迎えようが、保護猫と呼ばれる存在を迎えようが、猫は猫だ。なら、「種は問わない。大人猫でもかまわない……というより、むしろ性格がわかっていて好ましい」と考えている我々が、ショップやブリーダーから迎える理由はないのだった。
逆に、「この猫種、犬種を、ぜひ子ども時代から育てたい!」「ショップで運命の出会いをしたい」「このブリーダー、ショップから迎えたい」などの動機があれば、ショップやブリーダーが選択肢に入ってくるのだと思う。
そんなわけで、保護犬の情報が載ったサイトを覗いてはいたけれど、当初は、「犬と暮らす」ビジョンはそれほど現実味を帯びたものではなかった。
我々には犬の経験がない。飼ったこともない。身近に飼っている人もいない。犬は猫とは違う。散歩もいる。外に出るからには、社会化も必要だ。そして犬を連れている人同士、社交が発生しているのをよく見かける。あんな社交が我々にできるのか……。
それでも、道行く犬はかわいかった。「いつかはわたしたちも……?」と思うほどに。
気になる犬がいると譲渡会に足を運び、その中で我々は少しずつ“犬経験値”を貯めていった。
最初は正直、犬が怖かった。マズルが長いし、猫以上に強い力を持っていることが感じられるからだ。しかし、犬たちはやさしかった。おびえている犬であっても、まず手のにおいを嗅いでもらい、下のほうから手をさしだして顎のあたりに触れると、ゆっくりとなでさせてくれた。
人間よりはるかに力が強い動物が、どうしてこんなにやさしい瞳で人間を見るのだろう。そのことが不思議だったし、いまも不思議だ。
画期的だったのは、保護犬とのお見合いの場で、ほぼはじめて犬の散歩をしたことだった。リードの引きはほとんどない子で、お尻をふりふりしてトコトコと道を歩き、クンクンと電柱などを嗅いでいた。それだけなのだけど、犬が楽しんでいることが伝わってきて、その瞬間、胸がキューっとなった。
それまで我々は、犬の散歩を、「犬のためにやる、お世話の一種」「人間にとってはたいへんで、がんばるもの」としか思っていなかった。しかし、実際にリードを持ってみると印象は一転する。犬の散歩は人間と犬とで行う共同作業の一種で、これは人間も楽しいものだ。散歩は本質的に楽しいものだし、そこに人間とは違う視点を持つ生き物が加わる。しかもその生き物は、一緒に歩くことを楽しんでくれる。
まあそれは単なる理屈で、かわいい存在と一緒に歩くことは、とにかく愛おしく、楽しいことなのだ。
それをはじめて知った。
その子とは、残念ながら譲渡成立とはならなかった。が、落胆しながらも、我々の“犬と暮らしたい欲”は上がり、ビジョンはより具体的になった。
とはいえ、それからの犬探しは難航した。我々が希望していた「賃貸の大家からOKが出ている、柴犬サイズの雑種」はそもそも数が少ない。雑種の犬は、たいてい15キロ以上、つまり柴犬サイズを超える。その数少ない犬を見つけて譲渡会に会いに行くと、先に面会した家族にほぼ決まったような雰囲気があり、「それでもよければ、里親希望のアンケートを出すことはできますが……」と言われてしまう。あるいは会ってみるとかなり繊細な問題を抱えている子で、初心者の我々がお世話をするのは難しい……。
「この子を」と思って譲渡会に行っては、肩を落として帰ることが続いた。
犬初心者の我々が、犬と暮らすなどどだい無理なことなのかもしれない。
そう考え始めたとき、ターニングポイントとなる出来事があった。たまたまシェルター型の保護犬施設を訪れたことだ。
行こうと思っていた譲渡会が春の嵐で中止になっており、問い合わせたところ、「よかったらシェルターに来てください」と言われた我々は、犬に会えるならと風雨に濡れながら郊外を目指した。
この悪天候が幸いし、シェルターの来客はそのぶん少なく、我々は室内ドッグランに入り、15頭ほどの犬とゆっくりと触れ合うことができた。
そこにいたのは皆、10キロ〜20キロの雑種の中型犬だった。チャッチャッチャと爪の音をさせて歩く彼らの姿はさまざまだが、皆、力強く美しく、たいていは茶色い、やさしい瞳をしていた。
驚いたのはオヤツの時間だ。「よかったら」と、キューブ型のオヤツを渡された我々は戸惑った。
保護猫カフェでオヤツタイムといえば、猫たちが大騒ぎする時間だ。必死に催促する姿がかわいくもあるが、猫によってはその態度が強いものもあり、殺気を感じることもある。犬は……だいじょうぶなんだろうか。
「ほんとうに、わたしたちがあげてだいじょうぶですか?」と不安がるわたしたちに、スタッフさんは何を恐れているのかわからない、といった表情で、「どうぞどうぞ」と言う。
覚悟を決めてこわごわとオヤツをあげてみると、犬たちはマズルの先をわたしたちの手のひらにつけ、ちいさなオヤツを器用に食べた。口の先に生えた短い毛のやわらかさ、大きくてやさしい舌。擬音にするならしょしょしょ……というようなソフトタッチ。猫とはまったくちがったその感触が、わたしたちの胸をとらえた。
そうしているうちに、気がついた。
私たちは、フリーになった中型犬に囲まれているが、怖くない。以前は、譲渡会で触れるのもこわごわだったのに。やがて活発な子たちがくんずほぐれつの遊び(通称ワンプロ)をはじめたが、それも微笑ましく感じられた。
きっとどんな動物もうつくしく、かわいいのだ。しかし、我々はなかでも中型の雑種犬に魅せられている。そのことをはっきりと自覚した出来事でもあった。
「犬、いい」
「やっぱり犬と暮らしたいよね」
風雨に苦心しながらの帰宅途中、我々は熱にうかされたがごとく、そう繰り返していた。
気持ちも新たに犬を探すことにした我々は、作戦を変えることにした。
それまでのわたしたちの方針は、「気になる子がいても、合うかどうかわからないから、まずはざっくりと譲渡会で触れ合ってみる」。
しかし、それでは遅いのだ。
振り返ってみると、希望者が多い犬は、募集を開始した週の週末にはトライアルが決まっている。または、譲渡会に一度出ればたいてい「うちに」という希望者が現れる。「先着順ではありません」が保護団体の里親探しの基本ではあるが、ファーストコンタクトで理想ドンピシャの家族が来たら、初心者の我々にまず勝ち目はない。
そういえば、唯一お見合いにこぎつけてお散歩したあの子も、募集開始と同時に申し込んだのだった。
このころのわたしは、SNS上では保護団体の公式アカウントだけではなく、預かりボランティア、つまり保護犬を預かり、日々のお世話やトレーニングをしている人たちのアカウントもフォローするようになっていた。
たいていの保護団体は、犬の紹介ページに各ボランティアのアカウントのリンクを貼って、「日々の様子はここを見てください」とやっているからだ。
夫とふたり、「どこかの預かりボランティアさんのアカウントでいいと思う子がいたら、譲渡会を待たず、募集開始とともにお見合いを申し込もう」「実際に会ってみないとわからないから、ご破算も続くかもしれないが、それでもいい」と決めた。
そうして申し込んだのが、いま、家にいる犬だった。SNSには、柴犬に似たその犬が、お散歩ではしゃぎ、上目づかいでおもちゃをくわえ、ディズニーのアニメ映画に出てくる動物かと思うような笑顔を見せる様子がアップされていた。とにかく、元気で愛くるしかった。
が、「どうしてもこの子を」と思ったわけではない。前述したとおり、会ってみないと我々との相性はわからないし、何より「どうしても」といちいち思っていたら、心身がもたない。
だから、お見合いが決まって会いに行くときも、「元気な子だから、覇気のない中年夫婦はこっちからお断りって、犬からNG出るかも」「すごく大きな問題を抱えていて、わたしたちでは受け止めきれないかも」と半分あきらめる気持ちを持っていった。
その気持ちが強すぎたのだろう。お見合い中、預かりボランティアの方から犬の老後に介護がある可能性、わたしのアレルギーについて確認され(わたしは犬にもアレルギーが多少ある)、「それさえ覚悟していただければ、こちらとしてはトライアルをと考えています」と言われたときは、「この人、何言ってるんだろう」と不思議に思った。
お試しの散歩では、桜が舞い散るなか、走る犬に振り回され気味に歩いた、というよりほとんどの時間を走っていた。話に聞いていた、「怖いスイッチが入ると、いきなり腰を落としてジタジタする」という走りも体感した。それでも、ボランティアさんが名前を呼んで我にかえらせると、気持ちが回復するらしく、また楽しい走りをはじめるのだった。世界を恐れながらも好奇心を抑えられないことがリードを通して伝わってきて、それがとても愛らしく感じられた。
預かりボランティアさんから最後に、「かわいかったですか」と聞かれ、「そりゃあもう……」「散歩をしたら、胸がきゅーっとして」と答えた。当時は、「10人がお見合いしたら13人が『かわいい』と言うであろう犬について(3人はお散歩中に行き会う人を想定。実際お試し散歩中も、自転車に乗った中学生男子が「かわいい」と言ってくれたのでこれは妥当な数だと思う)、なぜそんなことを聞くのだろう」と思っていたが、我々は「たぶんダメだろう」「しっかりと犬について聞かないと」と思うあまり、楽しそうな顔をしていなかったのかもしれない。
最後に、「ふたりでよく話し合って、連絡をください。あ、トライアルに進む場合、うちに余っているケージがあるのでお譲りもできますよ」とボランティアさんから言われたときは、「あれ、トライアルに進む前提ってこと?」と、狐につままれたような気持ちになった。
そのあと、ふたりでファミレスで昼食をとりながら、「何? わたしたちが望めば、あんなかわいい子が家に来るってこと?」と話しつつも、「いやいや、この後、何組かとお見合いするんじゃないの~」なんて言い合っていた。
だから、「うちとしてはぜひトライアルを」と連絡した次の日、わたしはいつものようにSNSを開けて驚愕した。
「●●ちゃん、里親さん決まりました~!」と大きく告知されていたからだ。
「えっ、えっ、誰? 他の人に決まったってこと」と夫婦で混乱したが、告知文には、「里親さんははじめての犬との暮らしで……」と書かれている。たぶん、この「里親」とは、我々夫婦のことだ。もう認めざるをえない。ようやく事態が飲み込めてきた。
「ほんとに……犬が、来るの?」
「あんなかわいい子が?」
夢の中にいるような気持ちで、犬と暮らすための準備がはじまった。