お気に入りの中華料理店が閉まるのだという。
噂は本当なのか?
半信半疑で平日の昼、足を運ぶ。
冬のこととはいえ、磨りガラスごしに日光がたっぷりと入り、店内は暖かい。
長テーブルの一角に座り、ラーメンを注文する。
わたしのほかには、ビールを手にザーサイをつまんでいる老女、
ダウンを着こんだまま定食を食べている職人風の男、
スーツの若いサラリーマン二人。
古びた店内は掃除が行き届いている。
店主は忙しそうに調理しながら、「いらっしゃい」と言う。
いつも通りの風景。
本当に、閉店してしまうのだろうか。
「本当に細いわね〜。同じ人間じゃないみたい」
老女がしきりに、ホールバイトの女の子に話しかけている。
そうか、と思って、店の片隅、天井近くに置かれているテレビを見る。
羽生結弦選手の演技が始まろうとしていた。
羽生選手が、リンクに滑り出る。
空気抵抗をまったく感じさせない動きだ。
衣装は、白にブルーのグラデーション。
清冽な印象がよく似合う。
スポーツに疎いわたしでも、彼が大きなケガをしていたこと、
公式戦に、久しぶりに挑むことを知っている。
テレビから、ピアノの音色が流れ始める。
客席に音をたてる者はなく、
厨房から、店主が中華鍋で何かを炒める気配だけが伝わってくる。
ダウンの男は定食に箸を伸ばしたまま、
老女はビールが入ったグラスに手を添えたまま、
わたしは麺をすくっていた箸を、気づかぬうちに、いつの間にか下ろしたまま。
皆、時が止まったかのように、テレビに釘付けになっている。
優雅で力強い動き、そして、トリプルアクセル。
4回転、3回転の連続トーループ。
ラストの情熱的なシークエンスまで、
まったく不安を感じさせない滑り。
羽生選手がジャンプを成功させるたび、
赤ら顔のコーチがぴょんぴょん跳び跳ねて喜ぶ。
そのときだけ、 サラリーマンが小さな笑い声をたてる。
ノーミス、圧巻の2分50秒の演技。
羽生選手が両手を広げたポーズでフィニッシュを決めると、
ダウンの男性は箸を下ろし、お冷やを口に運んだ。
それを合図に、店内の時間が動き出す。
老女は「すごかったわねえ」と繰り返し、わたしはラーメンを食べる。
スープを飲み干すころには点数が出て、
羽生選手は111.68点を叩き出した。
結果を見て満足したのか、
ダウンの男性もサラリーマンも、次々と会計に立つ。
性別、年齢、職業もバラバラの一同が一体感に包まれた、
白昼夢のような時間が終わりを告げた。
次の選手の演技が始まる。
わたしも席を立つ。
店のおじさんが、調理場から顔を出して、
「ありがとうございました」とわざわざ言ってくれる。
ふと目を上げると、レジの横に、「閉店のお知らせ」が貼ってある。
本当に、この店はなくなってしまうのだ。
わたしたちがこの町に越してくるずっと前からあって、
この先も、きっと何度も通うのだろうと思っていた場所が。
演技にすっかり心を奪われたあとの、フワフワした気持ちに、
にわかには信じられない衝撃があわさって、
何がなんだかわからなくなってしまう。
羽生選手を見るたびに、冬季五輪が来るたびに、
魔法にかけられたような、この不思議な時間を思い出すだろう。
すすけた、しかし、清潔に整えられた店内、
淡いブルーの衣装、
指先まで神経の通ったうつくしい動き、
ピアノの音色、
静まりかえった客席。
2018年の2月、平昌五輪で、羽生結弦選手がショートプログラムを滑ったとき。
その瞬間、わたしは、わたしたちは、この中華料理店にいた。
冬の午後の、弱々しい陽光の下、わたしはそう心の中で繰り返しながら歩いて帰った。
形のない時間を、空気を、宝箱にしまいこむように。
いつでも思い出せるように。