平凡

平凡

概念としてのかわいさ

夫婦揃って猫好きだ。

なので、外出中はあらゆる場所に目を光らせている。

どこに猫がいるか、わからないからだ。

 

猫を見つける秘訣は、「いる」と信じることだと思う。

「どう考えても車止めだろう」

「こんな道の真ん中に、猫がいるはずがない」

いくらなんでも、猫不足が見せる蜃気楼だ……。

そう思ったシルエットが実は猫だった、

そういうことはままあるのだ。

 

最近、近所でよく見かける猫がいる。

住宅街のド真ん中、しかも夜分遅く、

とあるお宅の駐車スペースや植え込み前に出没する。

街灯の光がちょうど届かない場所だ。

しかも、柄が暗めのキジトラで、黒っぽい。

我々の執念と猫のわずかな動きで、

かろうじて「いる」ことはわかるが、

それ以上のことは何ひとつわからない。

猫の瞳を光らせるほどの光量もない。

それでも、我々は「かわいい!」と感じる。

そんな暗がりにいることがかわいい。

わずかに見えるシルエットがとても小さなことがかわいい。

とにかく、そこに、その猫がいることがかわいい。

 

あるいは。

近所には、よく猫がたむろしている駐車場がある。

その隣には、郊外の街らしく、畑が広がっている。

季節の変わり目に、畑の土がならされていた。

「何かを植えるのかな」と夫婦で黒々とした土を見ていると、

なんとそこのは、小さな肉球の跡が!

足跡は我々が立っている道路側から点々と続き、

畑の真ん中あたりの果樹に達して、その先は見えない。

「この足の小ささ、犬や他の動物ではないね」

「イタチでもないと思う」

「きっと猫だね」

「畑の上に降りてさ、あの木のところまで歩いたんだね」

我々はさっそく、駐車場で見かける猫のいずれかが、畑を歩く姿を想像している。

駐車場に集まる猫は、いずれも白い毛並みに茶トラ模様だ。

イメージのなかでは、広い畑のなかにぽっかりと浮かぶような

白くてやわらかい生き物が、ゆっくりと歩いていく。

「かわいい」

「かわいいね」

肉球の形がわかる足跡がかわいい。

そこから想像できる猫の姿がかわいい。

しかも、こっそり木まで行ったつもりなのに、

こんなふうに痕跡を残してしまうなんて。

 

我々の胸に、猫を見かけたとき特有の幸せな感じが、

じんわりと広がっていく。

もはや、猫の姿は必要ではない。

その存在が、猫という概念がかわいい。

 

しまいには、猫がこの世にいるだけで、

満足感を得られるような気さえしてくる。

猫好きの世界は、今日も平和である。