平凡

平凡

3月の夕焼け

「もう、こんな夕焼けも見られへんのやなあ 」。

その日、兄はそう言った。

 

わたしたちの眼前には田んぼが広がり、その先には青い山影。

そこへ、大きな夕日が沈もうとしていた。

わたしたちはその日、ママチャリに乗って、あてもなく国道沿いを走り、

大きなゲームセンターで適当に遊んで帰ろうとしていた。

 

兄は18、わたしは15の春休みのことだった。

兄は4月から、大学生になる。

東にコンビナート、西に山並みを臨み、

自然もたいして豊かでなければ、よくも悪くも濃いご近所付きあいもない*1

中途半端なこの地方都市を離れて、一人暮らしをするのだ。

 

「何言うてんの」

わたしは言った。

「帰ってこようと思ったら、こんなん、いつでも見られるやんか」

大学生になっても、もっと大人になって働くようになっても、

この季節、この夕焼けが見たいと強く願えば、きっと帰って来られるはずだ。

わたしはそう信じていた。

兄は弱気だ。わたしはすこし腹立たしくさえ思った。

 

わたしは知らなかった。

ひとつ何かが変われば、それまで当たり前だったことが、

そうではなくなってしまうのだ。

兄が家を出る。

その後の日常は、前と同じではない。

わたしは想像が及ばなかった。

 

わたしたちは、その日、だらだらと遊んでいて、たまたまその大きな夕日を見た。

そのようなことは、わたしたちが一緒に暮らしているからこそ、できることだった。

 

大学へ上がった兄は、ふつうの大学生よりもずっと頻度高く帰省した。

家庭がゴタゴタしていた時期で、心配だったのだろう。

ただ、兄妹で自転車をあてどもなくこいで、国道沿いを走るようなことはなくなった。

そのような遊びは、ゴタゴタした家庭から逃げるためでもあった。

兄が免許を取ると、自転車で移動すること自体がなくなり、

いつの間にか実家から、兄の自転車が消えた。

  

もっと何年も経って、わたしは気づく。

兄のことばは、弱気ではない。

これから変わりゆく暮らしを思っての、感傷だった。

おそらく、十人中十人が即時にわかることが、わたしにはわかっていなかった。

すべてのことは1回きりで、「同じようなもの」は、「同じもの」ではない。

あの日の夕日は、あの日だけのものだ。

 

15のわたしは、

「もう一度見たいものがあれば、いつでも見られるはずだ。

それをなんと弱気な」と思っていた。

年齢を重ねたいま、わたしは過去の自分をなんと幼く、愚かだったのかと思う。

 

その3年後には、進学のため、わたしも家を出た。

家庭のゴタゴタで疲れきった身には、実家を離れられることが、とにかくうれしかった。

そんな人間が、故郷にUターンなどするはずがない。

わたしは実家へ本格的に戻ることはなかったし、帰省の頻度は、年々減っていった。

 

「春休み」があった大学時代はともかく、

社会に出てからは、3月に帰省することは、ほぼない。

たまに帰ると、離婚し、離れて暮らす父と母を訪ねて、それなりに忙しい。

自転車でふらりとどこかへこぎだすことは、ない。

結婚し、夫と帰省するようになってからは、なおさらだ*2

 

それでも3月になると、あの夕焼けと、兄のことばを思い出す。

まだ冬枯れ残る田んぼの向こうにあった、

大気を震わさんばかりに大きかった落日。

 

今年もこうして、東京を離れることなく、3月が終わろうとしている。

心の中だけに、故郷の夕焼けが燃えている。

*1:それでも、都市圏よりはずっと「世間様の目」がある世界ではあった

*2:関東平野育ちの夫は、「わあ、田んぼがすごい、山へ夕日が沈む」など驚くので、一緒に帰省すると新鮮である

わたしたちの、静かな時間

「あー、だいぶ伸びちゃってるねー」。

そう言いながら、いっちゃんはわたしの髪に、鋏を入れる。

床に、パサッ、パサッと毛が落ちる。

 ずいぶん年季の入ったコンクリートの床は、ところどころ黒い塗装がはげている。

 
代官山のはずれにある小さな美容室には、

わたしといっちゃんしかいない。

こうやって、いっちゃんに髪を切ってもらうようになってから、13年が過ぎた。

 

いっちゃんと知り合ったのは、友人からの紹介だ。

「友達に、すごく腕のいい美容師さんがいるんだ」と教えてもらった。

共通の友人もまじえ、プライベートでも遊んだこともある。

だから、いっちゃんとは客でもあり友達でもあるような、

その両方でもないような、不思議な距離感がある。

 

「ねえねえ、不妊の検査、行った?」

いっちゃんが聞く。

「近所の産婦人科に行ってみたんだけど、頼りなくてさあ。

別のところに行こうと思いながら、二の足踏んでる」

「平凡ちゃん、いくつだっけ? まだチャンスあるでしょ、早く行きなよ」

そういういっちゃんは、血圧が高いと診断され、不妊治療をこの先どうするか、悩んでいるらしい。

「血圧の薬ってさ、ずっと飲まなきゃいけないんだよねえ」

わたしの毛先を指で挟みながら、いっちゃんがぼやく。

いっちゃんは私より4歳ほど年上だが、とてもスリムで若く見える。

それでも血圧が高いのだという。

わたしたちのからだはもう、若くないのだ。

 

この美容室へ通いはじめた13年前、まだ、わたしたちは若かった。

しゃべることと言えば、

いつか結婚したいけど、今の彼氏はねえとか、

子どもほしいんだよねーとか。

こんな家庭にしたいんだよね、なんてことも話したことがあったっけか。

 

この先、仕事、どうしよっかなあ。

店、変わろうかと思うんだよね。そういう話も来てるし。

わたしは今の仕事で、フリーランスになろうかなあ。

 

そのころは、私生活も仕事も、未来はもっと曖昧模糊としていた。

 

今のパートナーと結婚したいけど、なかなかそこまでこぎつけなくてねえ。

同棲を始めたけど、こんなところでぶつかっちゃうんだよね。

いっちゃん、忙しいのにめっちゃ家事やってるじゃん。えらいよ。

 

結婚式はどうするの?

身内だけでやるよ。ヘアメイクは美容師仲間に頼むんだ。

へえ、わたしは神社でちっちゃくやったんだ。

 

なかなか妊娠ってしないねえ。

とにかく一回、産婦人科に行かないとダメみたいだね。

 

描いた将来像は「今」となり、「現実」となった。

わたしたちは、あのころより、具体的なことを話している、と思う。

 

13年の間、いっちゃんには何回か店を変える話が出た。

でも結局、本格的にどこかへ行くことはなかった。

わたしは独立し、収入に大きな不安があった1、2年は近所の安い美容室へ駆け込み、

その後はまた、いっちゃんに切ってもらうようになった。

いっちゃんへの予約方法は、携帯電話のメールから、LINEへと変わった。

 

いっちゃんは慎重に、慎重に、鋏を入れる。

髪のうねり、頭の形を把握し、伸び放題の髪を、思い描いたヘアスタイルへと変えていく。
彫刻みたいだ、といつも思う。

そうしていつも、オーダーにプラスアルファして、何かしらの驚きのある髪型に仕上げてくれる。

いっちゃんに髪を切ってもらうと、すごく気分がいい。

13年間、これは変わらない。

 

「はい、できあがり~」

いっちゃんが四角い鏡を両手に抱え、後ろや横がどうなっているか、見せてくれる。

手鏡じゃないところが、なんとなくいっちゃんらしい。

「ありがとう、すごくいい感じ!」

いっちゃんは、うれしそうにする。

 

他愛ないことをとりとめなくしゃべる、

3か月に1回ほどの、いっちゃんとわたしの静かな時間。

これは、いつまで続くのだろう。

次の13年、またわたしはいっちゃんに髪を切ってもらえるだろうか。

切ってもらえるとして、場所はこの代官山の美容室なのだろうか。

いっちゃんもわたしも、元気でいられるだろうか。

 

「ダンナとさ、一緒に店をやりたいねって言ってるんだ」

すぐじゃないよ、いつかだよと付け加えて、いっちゃんは笑う。

いっちゃんの旦那様については、自営業ということ以外、何をやっているのかはよく知らない。

それでも、いっちゃんがプライベートに近い場所で、髪を切っているのを思い浮かべる。

いっちゃんは、ニコニコしている。

うん、すごくいい感じ。

「いいねえ。そしたら、またそこで、髪を切ってほしいな」

 

いっちゃんが店の外まで見送ってくれる。

短くした髪に、夜風は冷たく感じられる。

風に乗って、かすかに花の香りがする。

「もうすぐ、春だねえ」といっちゃんが言う。

「そうね、じき、暖かくなるね」とわたしは答える。

店の前で2人、夜気を胸いっぱいに吸い込みながら、次の季節の到来を感じている。

桜が好きかと聞かれたら、はっきりと答えられない

桜が好きか、と聞かれたら、はっきりと答えられない自分がいる。

 

電車に乗っていて、歩いていて、視界に飛び込んでくる、淡い、淡い、ピンク色。

白にほんのり紅を垂らしたような色合いが、ある日突然、公園を、校庭を、土手を埋めつくす。

若葉が芽吹き切る前、あまりにも唐突に現れるその色彩は、心をひどくざわざわさせる。

そのさざ波は、単純に「好き」と肯定的に表現できるものではない。

年々、その思いは強くなる。

 

たとえば、2011年。

節電のため多くの街灯が消された公園内で、

夜闇に浮かび上がるように桜が咲いているのを見たときの気持ちは、

忘れられるものではない。

あやしいほどに美しい桜。

暗がりのなかで、それに魅入る人々のざわめき。

まだまだぐらぐらした日常。

変わらない季節の巡り。

*1

 

そういえば、数年前の春、こんなこともあった。

仕事がまったく終わらず、でもちょっとだけ桜を見に行きたくて、日曜日、夫と散歩に出た。

花の名所もないような街中を、普段行かない方向へ、ひたすら桜を探して歩いた。

そこここに、こぼれるようにソメイヨシノが咲いていた。

そのときのことを思い出すと、桜のうつくしさと、

出口の見えない仕事へのモヤモヤとした重圧がないまぜになる。

古い団地群、コンクリートで護岸された水量に乏しい川、その灰色の景色のなかに差し挟まれる桜。

自信がもてない仕事、締め切りへのプレッシャー。

桜の季節であること以外は、なんでもない休日だった。

それなのに、強く、記憶に残っている。

 

どれもこれも、いい思い出なのか、悪い思い出なのか、わからない。

でも、年を重ねるって、こういうことなのかもしれないとも思う。

いろんなものが混ざり合った思い出が、濾過することもできず、

自分の中に残り続ける。

 

わたしは、あと何回、桜を目にするだろう。

そのうち何回かは、何かと混然一体となって心に沈殿するだろうか。

 

ともあれ、今年も桜が咲いた。

見たい、見に行かねばならないと思っている。

こう思わせるところも、桜のなんだか怖いところだな、などと思いつつ。

 

今週のお題「お花見」

 

*1:多くの方々が被災したなかで、被害がほぼなかった東京の者が、このようなことを書くのは非常に厚顔無恥だと思う

家事にエンタメ性を求めた者の末路

「今日こそこれをやろう!」

ババーン! と擬音が出そうな勢いで夫が差し出したのは、洗濯槽の洗浄剤。

「汚れがごっそり取れる!」「ワカメのようなものが浮いてくる!」とネットで評判の酵素系。

秘蔵の「シャボン玉石けん 洗たく槽クリーナー」である。

www.shabon.com

 

洗濯槽の掃除をするのは、恥ずかしながら久しぶりだ。

昨年、引っ越し直後に、やはり酵素系のクリーナーを使ったのだが、

まったく汚れが浮いてこなかった。

原因はおそらく、その直前まで住んでいた家での洗濯機の配置だ。

前の住まいでは、洗濯機をベランダに置いていた。

しかも昼間は日差しが当たりっぱなしの南西向き、屋根なし雨ざらし

あの環境では、カビも繁殖できなかったのだろうかと妙に納得したのだった*1

しかし、今の住まいは室内である。

なんとなく、感じるのだ。

そう、洗濯槽にカビがはびこる気配を。

 

ところで夫は、結果がハッキリ見える家事が好きだ。

休日、気がつくと茶渋がついたコップを

「激落ちくん」でこすってくれていたりする。

「こういう、ビフォア・アフターがはっきりわかるの家事って、

エンタメ性あるよね!」。

そんな夫である。

1年ぶり・室内置きの洗濯機・ネットで話題の酵素系クリーナーとあって、

期待は高まるばかりだ。

 

夫がここまで洗濯槽クリーナーに期待を寄せるのには、もうひとつ理由があった。

遡ること2週間前、夫は同じように目を輝かせながら、風呂釜の洗浄剤を使用した。

以前、実家で使ったとき、嫌というほど汚れが出てきたらしく、

「きっとすごいことになるよ!」とワクワクしていた。

しかし、結果は惨敗。

薬剤を使っての1回目の追い炊きでも、

2回目のすすぎ用追い炊きでも、

まったく汚れは出てこなかった。

「追い炊きしているとき、お湯を吸い込んでるよね?

その湯垢はどこにいってるの?

こんなに絶対おかしいよ」

と、どこぞの魔法少女のような台詞*2を吐きながら、

まっさらな湯船を見つめていた。

「実家は2つ穴タイプで、

ポンプみたいに空気を送り込んで洗うから、汚れが取れたのかも。

うちは1つ穴だから」

と悔しそうにしているが、さすがに風呂の構造ばかりはどうにもできない。

次は違う薬剤を使ってみようとなぐさめた。

 

その落胆からの、洗濯槽クリーナー。

夫の心中には、「今度こそ!」という思いがメラメラと燃えている。

 

まずは、洗たく槽に水を張る。

ぬるま湯を使うとよいと書いてあったので、

ケトルで2リットル湯をわかして投入するのも、

あまり湯温は変わらなかった。

洗濯機が回り始めたらいったん止めて、いよいよ薬剤を入れる。

「ほんとに汚れ、取れるのかな」

「洗剤、溶けてる溶けてる」

など、興奮のあまりふたりでのぞき込みながらやっていたため、むせた。

薬剤を吸い込んだらしく、あわてて喉をゆすぐ。

危ない。

少しだけ洗濯機を回し、一時停止して、待ち時間。

ふたりとも、喉をイガイガさせながら、近所のカフェで時間をつぶした。

 

帰宅し、洗濯槽をのぞき込むと、何やら浮いている!

「これがワカメのような汚れ!」

ハイタッチせんばかりに喜んだのは、つかの間。

いざ、洗濯機を回し始めると、出てくる出てくる。

「汚れをすくってください」と書いてあったので、

風呂桶の湯垢取りを掃除用に下ろし、使うことにする。

ただ水に突っ込むだけで、次々汚れがすくえてしまう。

糸くず取りが、あっという間にいっぱいになったので、外して洗う。

「キャッホー、すくい放題だよ!」とわたしがはしゃしぐ横で、

夫は後ずさっている。

「あれ、やんないの?」と聞くと、

夫は「いや……なんか……すごすぎて引いた……」。

まあ、わかるけどさあ。

「ここで……今まで……洗濯を……」

「それはそれ、これはこれ!

過去は変えられないんだから、今を楽しもうよ!」

と声をかけたものの、夫は最後まで浮かない顔だった。

わたしが疲れて「はいっ」と湯垢取りを渡したときだけ、

「これも家事の分担だから、時々交代してやります」

と言いたげな義務的な顔つきで、洗濯槽をかき回していた。

 

その後、2度のすすぎ洗いを経て、汚れが出てこなくなるころには、

夫は

「あの洗剤、いくらぐらいするの」

「これからは1カ月に1回はやろう」

と建設的な意見を述べるぐらいには回復していた。

 

あれを見てしまったからには、もう少し頻度高く、洗濯槽クリーナーを使おうと思う。

2度目はきっと、あれほどは汚れは取れない。

夫婦ともども、ちょっとのがっかり感と、安心感を覚えるに違いない。

しかし、この「安心感」が大事なのだ。

ああよかった、そんなに汚れていなかったのだ、という安心感が。

この安心感は、ただ出てくる汚れが少ないだけでは生まれない。

風呂釜の洗浄のように、久々にやったのに汚れが出ないと、不信感が募るだけだ。

やはり、「わたしたちがキレイにしているから、こんなに汚れが出ないのね」という

確信があってこそ。

 

ビフォア・アフターがはっきする家事は、エンタメ性がある。

しかし、エンタメ性に富みすぎると、楽しいどころかドン引きしてしまう。

何しろ、エンタメ性は「ごっそり取れた汚れ」に宿っているからだ。

やはり、刺激より安心、安定を追求するべきなのだ。

何事も、こまめ、こまめに……。

そんな当たり前のことを確認した洗濯槽クリーニングだった。

*1:洗濯槽の汚れの原因は、カビだけではない気もするので、使った薬剤がよくなかった可能性もある

*2:魔法少女まどか☆マギカ」における主人公まどかの台詞であり、6話目のサブタイトル

変哲のない月曜日

変哲のない月曜日。

夫婦ともども、早めに仕事が切りあがった。

最寄り駅で待ち合わせ、いつもの中華料理屋に向かう。

梅雨の湿気に、気が早い真夏の熱気が混ざり合った空気は、ムッとしている。

この前、同じような偶然があって、仕事終わりに待ち合せたときは、

爽やかな気候だったはずだ。

毎日、一緒に暮らしてはいるけれど、

この季節に、平日に、夫婦ふたりで一緒に夕食を食べるのは、

今年はじめてかもしれない。

そう思うと、なんとなくうれしくなるのだった。

新しい季節を告げているのが、たとえ不快度100%の空気だったとしても。

 

初老の店主がひとりで営む、小さな中華料理屋ののれんをくぐる。

幸い、席には空きがあった。

ただし、満席に近いため、店主が厨房でてんてこまいしているのが、

気配で伝わってくる。

今日は、手伝いがひとりいる。

店主の息子だろうか、「男の子」と言いたくなるような、

幼さを残した彼がオーダーを取る。

夫は生姜焼き定食を、わたしは麻婆茄子丼を頼む。

 

客は、男性のひとり客が何組か、わたし達以外に夫婦ものがもう一組、若い男女ふたり連れ。

たいてい、店備え付けの漫画雑誌を読んだり、天井近くのテレビを見たりしている。

なかには、ページをクリップで挟んで開き、文庫本を読みふけっているサラリーマンもいる。

なるほど、こうすれば、ページがはらりとめくれてしまうこともなく、読書と食事に没頭できるというわけだ。

行儀はヨロシクないけれど、ひとり時間を満喫している様は、見ていて不快感はない。

店内は古びているけれど清潔に保たれ、客層は落ち着いており、思い思いの時間を楽しんでいる。

くすんではいても、よどんではいない空気感が、居心地がよい。

 

わたしたちもそれぞれ、漫画雑誌を持ってきて読みふける。

厨房はテンパりを極め、出前の依頼らしき電話を取っては断り、

若い男女が会計をしたいと告げると、

「ああ、えっと、ちょっと、ちょっと、5分ぐらい待ってくれる?」

と答えている。

満席に近いとはいえ、わたしたちより後に客は入っていないし、

大半の客には、料理は配膳済だ。

何をそんなに慌てているのかわからないが、

出前でも入っているのかもしれない。

会計を待ってくれと言われた女性は、

快活に「急いでないんで、いいですよ」と答え、連れの男性との会話に興じている。

我々の料理が運ばれてくるまでの道のりは遠そうだ。

覚悟を決めて、別の漫画雑誌を取りに行く。

 

やがて、店内に客は我々だけとなったころ、2人分の料理が運ばれてくる。

油がよく馴染んだ茄子、しっかりと味付けされたひき肉。

きちんと、中華鍋で強火で炒めたのだな、という味がする。

これまた町場の中華料理店らしい薄い琥珀色のスープには、

ワンタンが浮かんでいる。

前回来たときは、入っていなかったはずだ。

待たせたことを気にして、店主がサービスしてくれたのかもしれない。

途中、夫の生姜焼きと交換する。

豚肉は、炭火で焼いたようなスモーキーな香ばしさがある。

ちょっと意外性あるおいしさだ。

普通の、それでいて、家庭で作る味とはちょっと違う、丁寧で特別な味を堪能する。

 

会計を済ませ、店を出て、

さっき食べたばかりの料理をほめたたながら、家路をたどる。

まだ週半ばなのに、こうして夜道をふたりで歩いている。

それだけのことなのに、なんとなく特別な感じがする。

普通だけど特別、ちょっとさっきの中華料理と似ているな、

などと考えていると、

夫が「平日なのに、なんだか得した気分」

とうれしそうに言う。

 

疲れているから、早く家に帰りたいような、

ずっとこうして歩いていたいような。

そんな気持ちで歩きながら、変哲のない月曜日が終わっていく。

 

 

 

ちょうど1年前に、似たようなことを書いていた。

イベントの少ない梅雨の時期は、同じようなことを考える傾向があるのかもしれない。

hei-bon.hatenablog.com

 

 

自由に書く、しばられて書く

なんだかんだ、このブログをはじめてから1年半ほどが経過した。

更新間隔が1か月に1回という時期もあったので、

「続けている!」と実感があるわけではない。

それでも、はじめたころの記事は、すでに内容を忘れていたりして、

ああ、それなりに持続したのだなという気持ちになる。

(読めば思い出すが)

 

本数をこなそうとは思っていないし、

更新頻度も決めてはいないのだが、

実際に書いてみての実感として、

更新頻度を高くする、または一定に保つのは、そうとう難しい。

 

そういうことをやりたいかは別にして、

短期間で100記事書きました! なんて人を見ると、

すごいなと思う。

ひとつひとつの記事が内容が薄かったとしても、

完結させた何かを作るのはそれなりに労力がいる。

それを、100本ノックしているわけだ。

 

ところで、事情あって、わたしは制約のある文章を書くことに慣れている。

縛りの中ではそこそこ上手くまとめる自信はあるが、

反面、縛りの外へ出ることが、すっかり苦手になっていた。

ネット上の文章、とくにブログを読んでいると、

容れ物に自分をいれたことがないからこその

飛び跳ねるような自由な表現、飛躍、いきいきとした文章に出会うことがある。

うらやましく、まぶしく思う。

 

ただし、何度か書いているが、わたしは仕事にせよ文章にせよ、

縛りがあるのは悪いことではないと思っている。

制約のある中で、クオリティを高めるのは楽しい。

また、型にはめても、どうしようもなくにじむ個性も、確実にある。

自分を黒子にすることで、何かの魅力を伝えられることもある。


 http://hei-bon.hatenablog.com/entry/2016/03/10/180000

「縛り」と「自由」について書いた記事。


しかし、いちばんの理想は、

制約があることも、自由なことも楽しめることではないのか。

制約があるときはきっちりとそれを守り、そこにやりがいを感じる。

自由に書くときは、枷を外して、

型にはめていたときとは違った発想、表現を使って書く。

両方を行き来できたらいい。

一定期間、ブログを書き続けたことで、

そう思うようになった。

 

世間の多くの人が、

「制約があるのはかわいそう、本意ではないこと」

「自由は善」と漠然と思っているのと鏡合わせで、

わたしは「制約があるのは善」「自由は悪ではないにしても、自分には必要がない」と

思い込んでいたのかもしれない。

 

最近、ブログを書くのが楽になった。

頭の中にあるテーマを、外にアウトプットすることに慣れたのだろう。

縛りの外へ出られているとは思わないが、

「自由に書く」ということ自体に、すこし慣れてきたのだろう。

 

世の中には、いろいろなブログを書いている人がいる。

ティップスを与えてくれるもの、

読んだ本について書いているもの、

日記や雑記、

学習について、

プログラミングについて、

アフィリエイト至上主義、

有名無名いろいろあるけれど、ひとまず、

どんなことでも書けるというのは、すばらしいことだ。

中身のない記事があったとして、

それが発表され得ることは豊かだと思う。

もっとも、検索結果が無駄な情報で溢れるのは問題であるが。


わたしのブログも、その豊かさの中でこそ、存在し得ている。

このブログのような内容を、世の中に発する意味があるのかと思うこともあるが、

すくなくともわたしのなかでは、「自由に書くこと」に対しての、変化があった。

書くことに限らないが、自由に振る舞うにも、それなりに慣れと技術がいるのだと思う。

そのことに気が付けただけでも、わたしにとって、このブログは意味がある。

 

また、たいへんに個人的な内容にも関わらず、

アクセスがあり、読んでくださる方がいる。

これは、すごいことで、ありがたいことだと思う。

そのすごさ、ありがたさは、数の多寡は関係がないの。

これもやってみて、感じたことだ。

 

これからも、明日には忘れてしまいそうな日常の出来事を、

あまり何も考えず、綴って行こう。

そうすることで、自分なりの自由を獲得していけたらいいと思っている。

「けものフレンズ」と時代

最初に断っておくが、この文章ではアニメ「けものフレンズ」の結末にふれている。

 

終了からもうすぐ3か月以上たとうとしているが、

2017年冬アニメでは、夫婦そろって「けものフレンズ」を毎週楽しみにしていた。

 

けものフレンズ」の舞台は、美少女化した動物たちが暮らす「ジャパリパーク」。

作中では、美少女化した動物のことを、「フレンズ」と呼ぶ。

物語は、「さばんなちほー」に住むサーバルキャットのフレンズ(サーバルちゃん)が、

謎の少女と出会うところからはじまる。

その少女は、とんがった耳もないし、羽もない。

何の「フレンズ」か皆目わからない……。

かばんを背負っているため、「かばんちゃん」と呼ばれることになった彼女は、

自分がどんなフレンズかを知るために、「としょかん」を目指すことになる。

 

最初は、「また美少女化ものかよー」と思った。

しかも、「けものフレンズ」には、先行するソーシャルゲームが存在する。

わたしの認識だと、ソーシャルゲーム原作で、大ヒットしたアニメはそう多くない。

そして、そのソーシャルゲームはすでにサービス終了しているのだ。

いろんな意味で、あまり注目していなかった。

 わたしの油断した視聴態度は、1話ラストから揺らぐことになる。

サーバルちゃんとかばんちゃんが歩いていくと、

あきらかに、人の手による看板やパンフレットが出てくるのだ。

かばんちゃんは透明な箱に入ったパンフレットを見つけ、蓋を開け、手に取るが、

サーバルちゃんは「なにそれなにそれ、どうやったの?」と驚く。

サーバルちゃんには、パンフレットが、目にすら入っていなかったのだ。

 

ここで、3つのことが示唆される。

 

ひとつめは、「ジャパリパーク」は人に手によって作られた、

サファリパークのような場所である。しかし、遺棄されている可能性が高いこと。

 

ふたつめは、かばんちゃんはおそらく人であろうということ。

 

みっつめは、この作品は、サーバルちゃんをはじめ「フレンズ」を、

たんに「人が動物のコスプレをした」キャラクターではなく、

「動物が美少女化した、動物の特徴を色濃く残す存在」

として描こうとしているということ。

 

ひとつめの、遺棄された施設であるという部分は、

「人間は、世界はどうなっているのか?」 という疑問を呼び起こす。

一見ほのぼのと始まった作品だが、いずれは世界の残酷さが暴かれるのか?

それとも、このまま、平和路線で行くのか?

そういった、今後の展開に関する興味を喚起し、続きを見たくさせる設定である。

 

そして、ふたつめとみっつめ、人としてのかばんちゃんと、

動物としてのフレンズの明確な違いは、作品全体を貫く大きな柱となる。

人であるかばんちゃんは、運動能力も低く、弱い。

しかし、道具や火を扱うことができ、文字も読める。

一方、フレンズはそれぞれが違った身体能力をもっている。

朱鷺のフレンズは飛べるし、

アルパカのフレンズは高山をものともせずのぼることができる。

かばんちゃんの知恵と、それぞれのフレンズの特徴で、

さまざまな難局や困ったことを切り抜けていく。

 

みんなそれぞれ得意なことは異なるけれど、誰もそれを否定しない。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

この、「違う存在が、得意なことで協力しあう」という

基本軸に厚みをもたせているのが、描写の丁寧さだ。

たとえば、かばんちゃんが文字を読んだとき、サーバルちゃんは、

「かばんちゃん、突然何を言い出すの⁉」と驚く。

サーバルちゃんは、文字というものの存在時代を知らない。

だから、かばんちゃんが何をしたのかが理解できないのだ。

これは、非常に丁寧な台詞まわしだと思った。

わたしだったら、「かばんちゃん、文字が読めるの⁉」と言わせてしまいそうだ。

こうした描写の積み重ねで、それぞれの違いを際立てているからこそ、

彼女たちの「共生」「協力」を見たときの喜びが、より強く感じられる。

 

みんなの「違い」を際立てながら、誰もそれを否定しないというのも作品の特徴だ。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

多種多様なもの同士の、共生と受容の可能性を示しつつも、

常に滅びの気配をまといながら、物語は進んでいく。

11話、つまり、最終回の手前では、「ジャパリパーク」に危機が訪れる。

悲しい終わりになるのかと思いきや、12話では大団円。

彼女たちは協力し、誰ひとり欠けることなく、危機を切り抜ける。

かばんちゃんは新しい土地へと旅立つが、

サーバルちゃんは、それを追いかける。

世界は不穏なままだが、物語はどこまでもやさしく締めくくられた。

わたしは心底ほっとしたし、ネットにも、そういった声があふれていた。

 

その一方で、こんなにもやさしい終結を、

これほどまでに喜んでいる自分に、

少々驚きを禁じえなかった。

 

たとえば、20年前ぐらいだったら。

この終わり方を、「手ぬるい」と評した気がする。

(時代の目安として1タイトルを挙げるとすると、

新世紀エヴァンゲリオン」が大ヒットしたのは21年前のことだ)

 

10年前だったらどうだろう。

やはり、「いいけど、もうちょっとひねりがあっても……」

などとのたまった気がする。

(やひり目安として、乱暴に1タイトルを挙げると、

涼宮ハルヒの憂鬱」のオンエアは、11年前である)

 

もちろん、これは作品がすぐれているからでもある。

いたずらに暗い結末や、落差をつけなくても満足がいくぐらい、

キャラクターの描写やエピソードの積み重ねがあり、

作品に「強さ」があった。

 

ただ、以前の自分だったら、この作品の「強さ」に気づけただろうか。

この「強さ」を、物語に通底する「やさしさ」「受容」を、

今ほどよきものとして、喜び、尊べただろうか。

ことわたしに関していえば、「否」だと思う。

 

自分は思った以上に、疲れている。

深まる対立と格差、非寛容、

そんなものに。

受容の難しさを、日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

けものフレンズ」への感動と表裏一体で、

そのことに気がついたのだった。

違うものを受容し、共に生きる難しさを日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

 

作品と時代は切り離せないが、

かといって、作品を通して時代を語ることは、

あまりにも乱暴だと、わたしは思っている。

ただ、「けものフレンズ」に関していえば、

作品に夢中になっている自分のなかに、

わたしにとっての時代を発見したのだった。

タイトルでは「『けものフレンズ』と時代」と大上段に

ぶってしまったが、ここでの“時代”は、

あくまでわたしが見ている主観的なものであることを断っておく。

 

「『けものフレンズ』よかったなあ」と思うたび、

わたしはわたしの主観がとらえている、社会と自分自身のドロドロに愕然とする。

一方で、だからこそ、この作品があってくれてよかった、とも思える。

サーバルちゃんとかばんちゃんの旅には、

現代を「多様化と断絶の時代」ととらえる者が、

今後どうふるまっていくかについて、

ヒントがたくさん含まれている。

わたしにとって「けものフレンズ」はそんな作品である。