平凡

平凡

猫好き、犬を飼うことを真剣に考える。あるいは猫、犬、子ども、絡まり合った人生の問題全部について

「犬と暮らせたら、いいんではないか」

 

 そう考えはじめたのはいつのことだろう。

 

 正直、最初は「猫が飼えないから」と思っていた、ような気がする。

 

 わたしたち夫婦は大の猫好きだけれど、諸事情で猫が飼えない。保護猫カフェに通い、何度も「この子と暮らしたい」と“ガチ恋”をした。たいていが個性豊かな大人の猫だったが、猫ならなんでもいいのだ。猫種なんてなくてもかまわない。年齢も問わない。どの子もかわいい。人懐っこい子も、そうでなくても、みんな魅力がある。さわれない子は、健康維持が難しいかもしれないが……。

 

 それでも、猫を飼うには、現実的には難しい事情があった。

 

 そうこうしているうちに、お散歩している犬がかわいく見えてきて、ドッグランを走る犬がかわいく見えてきて、猫とはぜんぜん違うその種を知りたいと思うようになった。もともと夫婦ともに、動物全般が好きなのだった。

 

 ただ、我々は犬を飼ったこともなければ、身近に犬を飼っている人もいない。それゆえ、「犬」像はどこか遠く、ぼやけたものだった。散歩が必要っぽい。なんとなく人なつっこそう。なんとなく猫よりは飼うのがたいへんそう。

 

泳いだことがない人が、水泳を想像するようなもの、とたとえるとわかりやすいだろうか。

 

「でも、泳いでいる人ならたくさん見たことがあるよ。水でしょ? きっともったりしてるよね? 重そうだよねー。ぷかぷか浮くっていうけど、それってほんと? 息するときはどんな感じ?」

 

具体的にイメージできないことは、うまく進められない。水泳なら「イメージと違って上手くできなかったよ~」となればひとりで溺れればすむが、動物相手となればいのちがかかっている。

 

 さらに事態をややこしくしたのは、わたしがなんとなく子どもを希望していたことだった。わたしたちにとって、子どもと動物はバーターだった。ここまできたら伏せることなく語ってしまうが、わたしはかなりのアレルギー体質だ。なかでも猫に強く反応する。検査結果もそのように出ている。

 

子どものころは猫を飼っていたが、猫を吸うことなど考えたことがなかった。いとおしくて猫をぎゅっとすることと、目のかゆみ、鼻水とのどの痛みはセットだった。親に叱られながら、わたしはそれでも毛まみれになって遊び、猫をときどき抱きしめた。

 

そんなわたしには、「自分の子どもがアレルギーを持っていない」とは想像ができなかった。

 

 もうひとつややこしいことに、わたしにはその子どものころに飼っていた猫に、さみしい思いをさせてしまった強烈な後悔がある。親が離婚し、わたしは猫と父と自宅に残ったが、心身の不調のため学校から保護者に連絡がいき、母に引き取られることになった。猫は父が責任をもってめんどうを見た。しかし、どんなことがあっても動物にさみしい思いをさせるのは罪だ。

 

 あの子は、ある日、庭に迷い込んできた猫だった。庭に埋めてあった生ごみをあさろうとし、土いじりをしていたわたしの背中に登って下痢をした。大騒ぎをしながら、「こんなに弱っているんだから、家で飼おうよ」とわたしが言ったのだ。

 

他人にとっては汚い話だけれど、あのときの背中のあたたかさはいまでも覚えているし、わたしにとっては宝物だ。あのおおらかでやさしい子が、見知らぬ人間であったわたしの背中に乗ったのだ。猫にとってはたいした意味のない行為かもしれない。でも、それはもっともよい瞬間として、わたしの人生に焼きついている。

 

 子どもがほしかった。それが叶わないなら、許されないことかもしれないけれど、猫を飼って、今度こそさみしい思いをさせることなく、しあわせにしたかった。それはぜんぶ叶わない。犬はよくわからない。「猫のかわり」と飼うわけにはいかないことだけはわかる。子どもと動物は違う存在であるとは重々わかっている。ただ、わたしという個人の人生の問題としては、子どもと動物は、深いところでからまりあってもつれきっていた。

 

 そういった問題でずいぶん混乱したので、カウンセリングに通いつつ、わたしたち夫婦はぼんやりと犬とふれあえる場を求めた。

 

 譲渡型保護犬カフェに行った。「すべての犬が人間にフレンドリーではない」「おそらく、多くの犬は飼い主以外には興味がない」とわかった。

 

 保護犬の譲渡会に行った。目当ての柴犬とは目があった瞬間に、お互いに「合わない」と思ったことがわかった。犬は人間を選ぶのだと強く感じた。ほかの犬ともふれあった。おびえている犬でも、ゆっくりであればなでさせてくれる。そんな犬のやさしさに感動した。犬の牙は鋭く、力だって強い。それでも人間を噛まないのだ。そして、犬が存外怖く、心を開けない自分に気がついた。こんな自分がいつか犬と暮らせるんだろうか。やっぱりわからなかった。ただ、保護団体の丁寧な説明には好感を持った。

 

 ふたたび、別団体の保護犬の譲渡会に行った。やはり目当ての犬とは条件が折り合わなかったものの、その犬のあっけらかんと陽気な様子には強く惹かれるものがあった。会場にはいろいろな犬がいた。ちらり、ちらりと人間を見上げて震える怖がりの子犬をなだめながら、ボランティアの人が、

「こういう子は、飼い主さんといっしょにいろんなことができるようになっていきます。でもね、ビビりな性格がなくなるわけじゃないんですよ。飼い主さんと一緒だから、平気になるんです。飼い主さん一筋になるから、そりゃあかわいいですよ」

と話したのが印象に残っている。

 

 猫よりもずっと、犬は人間の目を見る。その視線がまっすぐに自分をとらえたら、たまらないだろう。そんなことをはじめて想像した。

 

 それでも、やはり「自分たちの、犬との暮らし」は上手く像を結ばなかった。カウンセリングに通いながら、最初に足を運んだ譲渡会を主催していた団体のInstagramをなんとなく眺める日々がつづいてた。

 

 2024年になって、その団体にとんでもなくかわいい子がやってきた。こぶりな中型犬ミックスで、Instagramには健康診断の結果を待つ様子、日々のお散歩の様子、わかってきた性格などがアップされていった。そのどれもが我々夫婦の心をとらえ、募集開始と同時に思い切って「お見合い申し込み」をしてみた。

 

すでに申し込みが入っていることも説明されたが、保護犬のお見合いは先着順ではない。犬との相性や人間性を見たうえで、預かりさんと呼ばれるボランティアがいちばん適した飼い主を選ぶ。

 

 実際に会った犬は、写真よりもさらに愛らしかった。穏やかなその子をなでながら、我々はいろいろなことを預かりさんに聞いた。お散歩のこと、食事のこと、医療のこと、老犬になった際の介護のこと、災害時のこと。

 

 何より衝撃だったのは、お試しでお散歩体験をさせてもらったことだった。

 

お散歩が大好きなその子は、しっぽを立ててごきげんに歩く。その動きが、喜びが、リードを通して伝わってくる。クンクンと夢中になって気になる箇所をかぎ、ときどき預かりさんやわたしを見上げる。

 

いっしょに歩く。そのことを、動物が喜んでいる。それがとんでもなく愛おしかった。雨の日も雪の日も散歩をするのは、想像を絶する大変さだろう。でも、犬との散歩は本質的には楽しく、しあわせなことなのではないか。

 

我々がお見合いしたのは大人の犬なので、いっしょに過ごせる時間はそう長くはない。でも、こんな子と穏やかなに日々を暮らせたら。

家に、犬とわたしたち夫婦がいる。犬と、わたしたちが歩いている。その像が、はじめてはっきりと結ばれた。また、引きの感じから、「犬初心者である自分たちが、責任をもって飼える犬の大きさ」も実感として理解できた。

 

 残念ながら、その子の飼い主は別の家族となった。理由も教えてもらったが、人格的な信用問題はなかったようで、会の人は「丸毛さんたちに合いそうな犬がいたら、連絡しますね」と言ってくれた。

 

 わたしたちが結んだ「犬との暮らし像」は、その子ありきのものだった。次に出会う子は、また違った個性を持っているだろう。それでも、一度でもそういった像を結べたことは大きな前進だった。

 

「人間に生まれたからには、犬と暮らしてみたいよね」

 

 猫のかわりでも、「犬を飼えたら」「飼えるかな」でもなく、いまのわたしたちはそう思っている。

 

 人生にはいろんなことがあって、後悔も懺悔も叶わないこともある。前に進めるのはわたしが生きていて、動物よりも強い立場にある人間だからだ。本稿を前向きに結ぶことは許されない。それでも、やはり。前を向きたい、と思っている。

旬を味わう。年老いたことを知る。食卓には時間がふり積もっていく

 

 スーパーにて。

 

ほうれん草が、乱暴に束ねられ、積まれている。価格は99円。小ぶりだが茎に葉に、「いま獲ってきました」といわんばかりのみずみずしさが宿っている。スーパーの特売品コーナーのそんな光景を見ると、「ああ、冬だな」と思う。

 

夕飯に、そのほうれん草をクリームパスタにして食べる。

オリーブオイルにバターをちょっと足して、ベーコンと玉ねぎを炒め、ゆがいたほうれん草を加えて牛乳で煮る。味付けは顆粒のコンソメだ。沸騰しないようにかきまぜて煮詰めていくと、ほどよいとろみが出て、パスタによく絡む。 

「ほうれん草が、おいしいね」

 それを口にした夫が、開口一番に言った。

「旬だからかな」

 わたしは答えながらいぶかしむ。たしかに甘みがある。おいしい。でも、むかし、ほうれん草はこんなに甘かったろうか。

 

 また別の日。近所の直売所にて、葉がよく巻いた白菜を見つける。

段ボールの切れ端に書かれた価格は100円だ。

持ち重りのするそれを迷うことなく手に取って、料金箱に硬貨を入れ、ふうふう言いながら持ち帰る。

 

直売所の野菜は「野性」を感じる味がすることが多い。そして、どこで買ったものであっても、冬の白菜はおいしいものだ。期待は高まる。

 

 その夜、さっそく鍋にして食べる。白菜を切って鍋に敷き詰め、豚肉を乗せ、また白菜を乗せる。ついでに油揚げなんかもすき間に詰めて、味噌と砂糖、日本酒を入れて蒸し上げる。白菜のとろみ、甘みがシンプルに感じられて好きなレシピだ。

 

「むかし食べた白菜って味がする」

 

 今度は開口一番、夫がそう言った。スーパーで買った白菜に比べると甘みが少なく、「白菜の味」としか言いようのない、淡い味わい。シャリシャリとした繊維の食感も強く、水分も多いような気がする。しかし、おいしくないかというと、けっしてそうではない。透明感があるといっても、さわやかといっても言い過ぎな、さらりとした風味がある。

 

「スーパーで買う白菜でこの鍋を作るとさ、もっと甘いよね。でも、子どものころ食べた白菜って、ああじゃなかった」

 

夫のことばに、振り返る。子どものころ、家族で囲んだ鍋に入っていた白菜はこんな味わいだったかもしれない。シャクシャクとして、単独で「うまいね」と言われるものではなくて、でも鍋には欠かせなくて……。

 

「品種改良かな。トマトとかそうでしょ。青臭さを抑えて、甘みを強くして」
「にんじんもそうかもしれない。俺、むかしはにんじんが苦手だった。いまは平気だもんね」

 

夫は結婚当初、「にんじんは土くさくて……」とカレーを食べるときもなるべく避けていたが、最近は味噌汁を調理するとき、自ら具材に選ぶこともある。

 

 むかし食べたにんじんは、白菜は、ほうれん草は、どんな味だったろうか。記憶の引き出しを開けながら、ふと思い当たる。

わたしたちは、年老いた。年老いたように感じるのではなく、実際に年老いた。

なぜなら、野菜の味は一朝一夕で変わるものではないからだ。長い年月、毎食いろいろなものを食べ、それらを通じて味覚の経験を育み、はじめて「昔の野菜といまの野菜は、味が違う」と言うことができる。すくなくとも20歳のころ、わたしはそんなことを考えもしなかった。

 

 いま食べた白菜の味と、昔食べたそれを引き比べるとき、わたしたちは食卓のうえに、堆積した時間を見る。生きることは、食べること。だから、それらはこれからも積もりつづけるだろう。

当然、時間はわたしたちの上だけを過ぎるのではない。夫婦差し向かいの食卓には、人々が好む味の変化、品種改良の努力、土壌の改良、流通の変化など、そういった「歴史」も堆積しているのだ。

 

 淡白な白菜といっしょに、わたしは老いの実感と時間の流れを咀嚼する。旬の味わいとともに、わたしはそれらも飲み下す。その複雑な味わいこそが、年を取る、ということなのかもしれないと思いながら。

 

***

初出 Misskey.design 2023.02

画像はぱくたそからお借りしました。

白菜の表面をこんがいと焼くのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20170203044post-10366.html

文学フリマ東京37、出店無事終了。ありがとうございました。

告知しておりましたとおり、11月11日文学フリマ東京に出店しておりました。

当日は、このブログを読んでくださる方もいらしてくださって、感動しました。ありがとうございました。

なかなかブースを離れられず、ブログ記事を収録していただいた「はてなブログ文学フリマ本」は入手できず。残念。後日、PDFが配布されるとのこと。同じテーマで書かれた、他の方の記事を読むのが楽しみです。

ありがたいことに、用意したものはエッセイ本、短編小説集、無料配布物にいたるまで、全部なくなりました。ただ、これは数を見誤ったなあ……という側面が大きいです。もうすこし、数をつくればよかったです。わたしは「多くの人に作品を知ってもらいたい」と思って物理本をつくり、出店したので、閉会の2時間半以上前に完売したのは明らかに機会損失であり……。

そしてもうひとつ失敗したのは、「自分の分を手元に残す」ことがすっぽり抜けていたこと。発行物はなにひとつ自分の手元に残っていません。

通販用に再版予定なので、忘れず手元に残したいですね!

 

出店にさいして、

 

・初の同人誌づくりで、人の手を借りまくったらすごくよかった件

・告知まわりをどうしたか

・誰も教えてくれない刷り部数の目安

・コピー本づくりの(物理的な)むずかしさ

・即売会の緊張感苦手人間がブースに入ってみてどうだったか

 

などなど、トピック別に書きたいことがあるのですが、おいおい。本日は当日の雑感を。

 

ブース内に立って感じたのは、文学フリマの来場者は、みんな「何かおもしろいものを買いたいな」と思って来場していること。「買う」モチベーションがとても高い!

ブースに視線をくれるお客さんは、完売後は明らかに減りました。

 

今回、エッセイブースは数がめちゃくちゃ多かったんです。開催前は「レッドオーシャンだ!」と不安でした。実際に体験すると、これは人気ジャンルということでもありました。多くの人に自分の作品もついでに見てもらえるので、悪いことばかりではなかったです。他のエリアのピークは見ていないのでわかりませんが、「いっぱいいるから埋もれちゃう」的な不利さは感じませんでした。

 

刷り部数を中心に、後悔していることはあります。一方で、できるだけのことをやったな、という自負もあります。全部、出店してみたから得られたことでした。出店してよかったです。そして、2回目出店するとしたら、そのときはまた、違った模索があるでしょう。

 

「はじめまして」の読者との出会いとともに、冒頭に書いたようにブログの読者の方が来てくださったり、Misskeyで交流がある方が来てくださったり。差し入れもいただいてしまい……。読んでいただいていること、支えられていることを感じた一日でした。

 

ブログを書きつづけてきてよかった。ネットでの活動をつづけてきてよかった。

 

今後も、いろいろ書いていこう。そんな思いを新たにした日でもありました。

あらためまして、ありがとうございました!

本日開催、文学フリマ東京37に出店します

今日はいよいよ #文学フリマ東京

さんざん告知しておりますが、あらためましてお知らせです。

サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

第一展示場E-27で出店します!

 

以下を持っていきます

 

このブログでも書いているようなエッセイ集

『丸毛鈴の結婚と生活』800円 102ページ 文庫サイズ

再録中心ですが、ブログ以外の発表作品もあり

 

短編小説コピー本

『たとえ何ひとつ叶わなくても』

200円 24ページ A5版

カクヨムなど発表した短編4篇収録。

 

無料配布のペーパー

書き下ろしエッセイ付き

 

詳細はリンクのWebカタログに!

気軽にのぞきにきてください!

お待ちしております。

 

11/11() 12:00〜開催

東京流通センター第一展示場

https://c.bunfree.net/e/asn

「はてなブログの文学フリマ本」に掲載されますッ! ありがとうございます!

 

11月11日開催の文学フリマ東京。

そこには我らがはてなブログも出店し、「はてなブログ文学フリマ本」を無料配布します。

その収録作に、この「平凡」の応募記事も選んでいただきました。

以下のブログ記事です。

わたしがブログを書く理由。 - 平凡

 

この文学フリマには、わたし自身サークル出店することを決めております。

リアルイベント初出店で力が入っているだけに、「文学フリマ本」に収録していただけるのは感激もひとしお。

文学フリマに行かれる皆さま、ぜひお手にとってくださいませ!

はてなブログのブースはA-49〜50です。

c.bunfree.net

 

はてなブログのブーストわたしのブースはまあまあ近くにございます。

参加者の皆さん、ぜひお立ち寄りくださいませ。

E-27 サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

サンプルとお品書きもアップいたします。読めますでしょうか?

新刊のエッセイ本はサークル名と同名『丸毛鈴の結婚と生活』。

覚えやすいですね。

Webカタログは以下でございます。

 

丸毛鈴の結婚と生活 [文学フリマ東京37・ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

お品書きです

サンプルです 1/2

サンプルです 2/2

『丸毛鈴の結婚と生活』表紙は冬野さん(Xアカウント@fuyunon0)。

組版は魚野れんさん(Xアカウント @elfhame_Wallen)にお願いしています。

 

仕事がぜんぜん終わらないうえ、短編小説集も持っていきたいな(再録予定だが何一つ作業していない)と思っており、ついでにいうとコイントレーも敷き布もまだ用意できていません。

当日はぜひ文学フリマ東京 東京流通センター第一展示場 E-27 でお会いしましょう!

おそらく疲れ切った顔をしていると思いますが……!

 

できあがった同人誌。さわり心地もすごくいいんですよ……!

 

11月11日文学フリマ東京に出店しますという告知と、名義変更のお知らせ

急に寒くなってまいりました。といいましても10月ですものね。秋です。  

秋といえば、11/11(土)に開催される「文学フリマ東京37」に出店します。

   

開催日程 11/11(土)12:00〜17:00    
会場    東京流通センター 第一展示場・第二展示場

ブースは第一展示場 E-27 

サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

 

こちらでは、このブログやMisskey.designに発表した文章を加筆修正したものに、新作数本を加えたエッセイ集を持っていく予定です。

ご来場予定の方いらしたら、ぜひブースに遊びに来てください!

よろしくお願いいたします。

 

サークル名は「丸毛鈴の結婚と生活」と奇妙なものですが、こちらの「丸毛鈴」がわたしのペンネームとなります。

こちらではハンドルネームがあるようなないような状態で、「平凡」と名乗っておりましたが、これを機に創作の名義を一本化。

カクヨム、Misskey.designに生息している丸毛鈴と同一人物です。

以後、丸毛鈴ということでお見知りおきをいただければ!

 

今年で、ここはてなブログで書き始めて8年になります。ブログで、カクヨムで、Misskeyで書き、そのつど新たな発見と学び、そして得がたい出会いがありました。

新たな場所には、新たな出会いがある。

次は、リアルイベントで新たな書き手、新たな読者と出会えたら。

そんなことを考え、はじめてリアルイベントに参加することにしました。

一年前まで、自分がこんなことを考えるなんて思ってもみませんでした。

物理的な同人誌を作るのもはじめて。

いま、いろいろな人の力を借りながら制作中です。

 

そんなわけで、今後とも丸毛鈴を、よろしくお願いいたします!

この世に恐ろしいものなどない。そう錯覚させてくれるのは、猫の寝息なのだ

保護猫カフェにて。

 

ごろんとあおむけになり、猫ちゃんが寝ている。手を顔のあたりに当てており、たいへん愛らしい

写真はお借りしたもので、文章中の猫とは無関係です

 

背の低い棚の上で、猫が寝ている。からだを伸ばし、前脚と後ろ脚をそれぞれクロスさせ、天板にぺったりとほおをつけて。ハチワレ猫のおなかは白く、からだの中でもひときわやわらかそうな毛に覆われ、ふくふくと上下している。

 

起こさぬようにそっとそっと、首のあたりをかいてやる。刺激に一瞬、ぴくりとなったものの、害意がないと悟ったのか、すぐにからだをぐいーと伸ばしてまた弛緩する。

 

すう、すうと寝息が聞こえてきそうなピンクの鼻。今度は額をかいてやると、すこし目が開く。起こしてしまったかと心配したけれど、その瞳は瞬膜に覆われているのだった。起きているときは、ビー玉のように完璧な弧を描く猫の瞳。それを保護しているのがこの瞬膜なのだっけ。

 

やがてハチワレ猫は、白い前脚を折りたたんであごを乗せる。今度こそ起こしてしまったかと思いきや、まだ白い腹は規則的にゆっくりと上下しているのだった。からだを丸めることもなく、人間の気配におびえることもなく、あたたかなからだはのびのびと。こまぎれで、一回一回は人間よりもずっと短いはずの眠りに身をまかせるその姿。
充足。
猫自身がどう思っているかはわからないけれど、そんなことばが浮かぶ。

 

ふたたび、首のつけねをゆっくりと丁寧に、かくようになでる。いま、このとき、ここには脅威はない。それをよく知るちいさな命が、目の前で眠っている。その安堵に、まどろみに、こちらの心もゆるんでいく。人生はそれほど怖いものではない。そう錯覚する一瞬がある。指から伝わるあたたかさに眠気を誘われる。

 

できればこの寝息を、家で聞かせてくれないか。わたしが眠る布団の上で、枕元で、あるいはお気に入りの座布団の上で。食って遊んで眠って満ち足りる。その生きざまを、間近に見せてくれないか。猫といっしょに目を閉じて、ふわふわの毛をなでながら、わたしは起きながらにしてそんな夢を見る。

 

*画像はぱくたそからお借りしました。

「ゴロ寝中のにゃんこのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190218051post-19646.html