平凡

平凡

桜が好きかと聞かれたら、はっきりと答えられない

桜が好きか、と聞かれたら、はっきりと答えられない自分がいる。

 

電車に乗っていて、歩いていて、視界に飛び込んでくる、淡い、淡い、ピンク色。

白にほんのり紅を垂らしたような色合いが、ある日突然、公園を、校庭を、土手を埋めつくす。

若葉が芽吹き切る前、あまりにも唐突に現れるその色彩は、心をひどくざわざわさせる。

そのさざ波は、単純に「好き」と肯定的に表現できるものではない。

年々、その思いは強くなる。

 

たとえば、2011年。

節電のため多くの街灯が消された公園内で、

夜闇に浮かび上がるように桜が咲いているのを見たときの気持ちは、

忘れられるものではない。

あやしいほどに美しい桜。

暗がりのなかで、それに魅入る人々のざわめき。

まだまだぐらぐらした日常。

変わらない季節の巡り。

*1

 

そういえば、数年前の春、こんなこともあった。

仕事がまったく終わらず、でもちょっとだけ桜を見に行きたくて、日曜日、夫と散歩に出た。

花の名所もないような街中を、普段行かない方向へ、ひたすら桜を探して歩いた。

そこここに、こぼれるようにソメイヨシノが咲いていた。

そのときのことを思い出すと、桜のうつくしさと、

出口の見えない仕事へのモヤモヤとした重圧がないまぜになる。

古い団地群、コンクリートで護岸された水量に乏しい川、その灰色の景色のなかに差し挟まれる桜。

自信がもてない仕事、締め切りへのプレッシャー。

桜の季節であること以外は、なんでもない休日だった。

それなのに、強く、記憶に残っている。

 

どれもこれも、いい思い出なのか、悪い思い出なのか、わからない。

でも、年を重ねるって、こういうことなのかもしれないとも思う。

いろんなものが混ざり合った思い出が、濾過することもできず、

自分の中に残り続ける。

 

わたしは、あと何回、桜を目にするだろう。

そのうち何回かは、何かと混然一体となって心に沈殿するだろうか。

 

ともあれ、今年も桜が咲いた。

見たい、見に行かねばならないと思っている。

こう思わせるところも、桜のなんだか怖いところだな、などと思いつつ。

 

今週のお題「お花見」

 

*1:多くの方々が被災したなかで、被害がほぼなかった東京の者が、このようなことを書くのは非常に厚顔無恥だと思う

家事にエンタメ性を求めた者の末路

「今日こそこれをやろう!」

ババーン! と擬音が出そうな勢いで夫が差し出したのは、洗濯槽の洗浄剤。

「汚れがごっそり取れる!」「ワカメのようなものが浮いてくる!」とネットで評判の酵素系。

秘蔵の「シャボン玉石けん 洗たく槽クリーナー」である。

www.shabon.com

 

洗濯槽の掃除をするのは、恥ずかしながら久しぶりだ。

昨年、引っ越し直後に、やはり酵素系のクリーナーを使ったのだが、

まったく汚れが浮いてこなかった。

原因はおそらく、その直前まで住んでいた家での洗濯機の配置だ。

前の住まいでは、洗濯機をベランダに置いていた。

しかも昼間は日差しが当たりっぱなしの南西向き、屋根なし雨ざらし

あの環境では、カビも繁殖できなかったのだろうかと妙に納得したのだった*1

しかし、今の住まいは室内である。

なんとなく、感じるのだ。

そう、洗濯槽にカビがはびこる気配を。

 

ところで夫は、結果がハッキリ見える家事が好きだ。

休日、気がつくと茶渋がついたコップを

「激落ちくん」でこすってくれていたりする。

「こういう、ビフォア・アフターがはっきりわかるの家事って、

エンタメ性あるよね!」。

そんな夫である。

1年ぶり・室内置きの洗濯機・ネットで話題の酵素系クリーナーとあって、

期待は高まるばかりだ。

 

夫がここまで洗濯槽クリーナーに期待を寄せるのには、もうひとつ理由があった。

遡ること2週間前、夫は同じように目を輝かせながら、風呂釜の洗浄剤を使用した。

以前、実家で使ったとき、嫌というほど汚れが出てきたらしく、

「きっとすごいことになるよ!」とワクワクしていた。

しかし、結果は惨敗。

薬剤を使っての1回目の追い炊きでも、

2回目のすすぎ用追い炊きでも、

まったく汚れは出てこなかった。

「追い炊きしているとき、お湯を吸い込んでるよね?

その湯垢はどこにいってるの?

こんなに絶対おかしいよ」

と、どこぞの魔法少女のような台詞*2を吐きながら、

まっさらな湯船を見つめていた。

「実家は2つ穴タイプで、

ポンプみたいに空気を送り込んで洗うから、汚れが取れたのかも。

うちは1つ穴だから」

と悔しそうにしているが、さすがに風呂の構造ばかりはどうにもできない。

次は違う薬剤を使ってみようとなぐさめた。

 

その落胆からの、洗濯槽クリーナー。

夫の心中には、「今度こそ!」という思いがメラメラと燃えている。

 

まずは、洗たく槽に水を張る。

ぬるま湯を使うとよいと書いてあったので、

ケトルで2リットル湯をわかして投入するのも、

あまり湯温は変わらなかった。

洗濯機が回り始めたらいったん止めて、いよいよ薬剤を入れる。

「ほんとに汚れ、取れるのかな」

「洗剤、溶けてる溶けてる」

など、興奮のあまりふたりでのぞき込みながらやっていたため、むせた。

薬剤を吸い込んだらしく、あわてて喉をゆすぐ。

危ない。

少しだけ洗濯機を回し、一時停止して、待ち時間。

ふたりとも、喉をイガイガさせながら、近所のカフェで時間をつぶした。

 

帰宅し、洗濯槽をのぞき込むと、何やら浮いている!

「これがワカメのような汚れ!」

ハイタッチせんばかりに喜んだのは、つかの間。

いざ、洗濯機を回し始めると、出てくる出てくる。

「汚れをすくってください」と書いてあったので、

風呂桶の湯垢取りを掃除用に下ろし、使うことにする。

ただ水に突っ込むだけで、次々汚れがすくえてしまう。

糸くず取りが、あっという間にいっぱいになったので、外して洗う。

「キャッホー、すくい放題だよ!」とわたしがはしゃしぐ横で、

夫は後ずさっている。

「あれ、やんないの?」と聞くと、

夫は「いや……なんか……すごすぎて引いた……」。

まあ、わかるけどさあ。

「ここで……今まで……洗濯を……」

「それはそれ、これはこれ!

過去は変えられないんだから、今を楽しもうよ!」

と声をかけたものの、夫は最後まで浮かない顔だった。

わたしが疲れて「はいっ」と湯垢取りを渡したときだけ、

「これも家事の分担だから、時々交代してやります」

と言いたげな義務的な顔つきで、洗濯槽をかき回していた。

 

その後、2度のすすぎ洗いを経て、汚れが出てこなくなるころには、

夫は

「あの洗剤、いくらぐらいするの」

「これからは1カ月に1回はやろう」

と建設的な意見を述べるぐらいには回復していた。

 

あれを見てしまったからには、もう少し頻度高く、洗濯槽クリーナーを使おうと思う。

2度目はきっと、あれほどは汚れは取れない。

夫婦ともども、ちょっとのがっかり感と、安心感を覚えるに違いない。

しかし、この「安心感」が大事なのだ。

ああよかった、そんなに汚れていなかったのだ、という安心感が。

この安心感は、ただ出てくる汚れが少ないだけでは生まれない。

風呂釜の洗浄のように、久々にやったのに汚れが出ないと、不信感が募るだけだ。

やはり、「わたしたちがキレイにしているから、こんなに汚れが出ないのね」という

確信があってこそ。

 

ビフォア・アフターがはっきする家事は、エンタメ性がある。

しかし、エンタメ性に富みすぎると、楽しいどころかドン引きしてしまう。

何しろ、エンタメ性は「ごっそり取れた汚れ」に宿っているからだ。

やはり、刺激より安心、安定を追求するべきなのだ。

何事も、こまめ、こまめに……。

そんな当たり前のことを確認した洗濯槽クリーニングだった。

*1:洗濯槽の汚れの原因は、カビだけではない気もするので、使った薬剤がよくなかった可能性もある

*2:魔法少女まどか☆マギカ」における主人公まどかの台詞であり、6話目のサブタイトル

変哲のない月曜日

変哲のない月曜日。

夫婦ともども、早めに仕事が切りあがった。

最寄り駅で待ち合わせ、いつもの中華料理屋に向かう。

梅雨の湿気に、気が早い真夏の熱気が混ざり合った空気は、ムッとしている。

この前、同じような偶然があって、仕事終わりに待ち合せたときは、

爽やかな気候だったはずだ。

毎日、一緒に暮らしてはいるけれど、

この季節に、平日に、夫婦ふたりで一緒に夕食を食べるのは、

今年はじめてかもしれない。

そう思うと、なんとなくうれしくなるのだった。

新しい季節を告げているのが、たとえ不快度100%の空気だったとしても。

 

初老の店主がひとりで営む、小さな中華料理屋ののれんをくぐる。

幸い、席には空きがあった。

ただし、満席に近いため、店主が厨房でてんてこまいしているのが、

気配で伝わってくる。

今日は、手伝いがひとりいる。

店主の息子だろうか、「男の子」と言いたくなるような、

幼さを残した彼がオーダーを取る。

夫は生姜焼き定食を、わたしは麻婆茄子丼を頼む。

 

客は、男性のひとり客が何組か、わたし達以外に夫婦ものがもう一組、若い男女ふたり連れ。

たいてい、店備え付けの漫画雑誌を読んだり、天井近くのテレビを見たりしている。

なかには、ページをクリップで挟んで開き、文庫本を読みふけっているサラリーマンもいる。

なるほど、こうすれば、ページがはらりとめくれてしまうこともなく、読書と食事に没頭できるというわけだ。

行儀はヨロシクないけれど、ひとり時間を満喫している様は、見ていて不快感はない。

店内は古びているけれど清潔に保たれ、客層は落ち着いており、思い思いの時間を楽しんでいる。

くすんではいても、よどんではいない空気感が、居心地がよい。

 

わたしたちもそれぞれ、漫画雑誌を持ってきて読みふける。

厨房はテンパりを極め、出前の依頼らしき電話を取っては断り、

若い男女が会計をしたいと告げると、

「ああ、えっと、ちょっと、ちょっと、5分ぐらい待ってくれる?」

と答えている。

満席に近いとはいえ、わたしたちより後に客は入っていないし、

大半の客には、料理は配膳済だ。

何をそんなに慌てているのかわからないが、

出前でも入っているのかもしれない。

会計を待ってくれと言われた女性は、

快活に「急いでないんで、いいですよ」と答え、連れの男性との会話に興じている。

我々の料理が運ばれてくるまでの道のりは遠そうだ。

覚悟を決めて、別の漫画雑誌を取りに行く。

 

やがて、店内に客は我々だけとなったころ、2人分の料理が運ばれてくる。

油がよく馴染んだ茄子、しっかりと味付けされたひき肉。

きちんと、中華鍋で強火で炒めたのだな、という味がする。

これまた町場の中華料理店らしい薄い琥珀色のスープには、

ワンタンが浮かんでいる。

前回来たときは、入っていなかったはずだ。

待たせたことを気にして、店主がサービスしてくれたのかもしれない。

途中、夫の生姜焼きと交換する。

豚肉は、炭火で焼いたようなスモーキーな香ばしさがある。

ちょっと意外性あるおいしさだ。

普通の、それでいて、家庭で作る味とはちょっと違う、丁寧で特別な味を堪能する。

 

会計を済ませ、店を出て、

さっき食べたばかりの料理をほめたたながら、家路をたどる。

まだ週半ばなのに、こうして夜道をふたりで歩いている。

それだけのことなのに、なんとなく特別な感じがする。

普通だけど特別、ちょっとさっきの中華料理と似ているな、

などと考えていると、

夫が「平日なのに、なんだか得した気分」

とうれしそうに言う。

 

疲れているから、早く家に帰りたいような、

ずっとこうして歩いていたいような。

そんな気持ちで歩きながら、変哲のない月曜日が終わっていく。

 

 

 

ちょうど1年前に、似たようなことを書いていた。

イベントの少ない梅雨の時期は、同じようなことを考える傾向があるのかもしれない。

hei-bon.hatenablog.com

 

 

自由に書く、しばられて書く

なんだかんだ、このブログをはじめてから1年半ほどが経過した。

更新間隔が1か月に1回という時期もあったので、

「続けている!」と実感があるわけではない。

それでも、はじめたころの記事は、すでに内容を忘れていたりして、

ああ、それなりに持続したのだなという気持ちになる。

(読めば思い出すが)

 

本数をこなそうとは思っていないし、

更新頻度も決めてはいないのだが、

実際に書いてみての実感として、

更新頻度を高くする、または一定に保つのは、そうとう難しい。

 

そういうことをやりたいかは別にして、

短期間で100記事書きました! なんて人を見ると、

すごいなと思う。

ひとつひとつの記事が内容が薄かったとしても、

完結させた何かを作るのはそれなりに労力がいる。

それを、100本ノックしているわけだ。

 

ところで、事情あって、わたしは制約のある文章を書くことに慣れている。

縛りの中ではそこそこ上手くまとめる自信はあるが、

反面、縛りの外へ出ることが、すっかり苦手になっていた。

ネット上の文章、とくにブログを読んでいると、

容れ物に自分をいれたことがないからこその

飛び跳ねるような自由な表現、飛躍、いきいきとした文章に出会うことがある。

うらやましく、まぶしく思う。

 

ただし、何度か書いているが、わたしは仕事にせよ文章にせよ、

縛りがあるのは悪いことではないと思っている。

制約のある中で、クオリティを高めるのは楽しい。

また、型にはめても、どうしようもなくにじむ個性も、確実にある。

自分を黒子にすることで、何かの魅力を伝えられることもある。


 http://hei-bon.hatenablog.com/entry/2016/03/10/180000

「縛り」と「自由」について書いた記事。


しかし、いちばんの理想は、

制約があることも、自由なことも楽しめることではないのか。

制約があるときはきっちりとそれを守り、そこにやりがいを感じる。

自由に書くときは、枷を外して、

型にはめていたときとは違った発想、表現を使って書く。

両方を行き来できたらいい。

一定期間、ブログを書き続けたことで、

そう思うようになった。

 

世間の多くの人が、

「制約があるのはかわいそう、本意ではないこと」

「自由は善」と漠然と思っているのと鏡合わせで、

わたしは「制約があるのは善」「自由は悪ではないにしても、自分には必要がない」と

思い込んでいたのかもしれない。

 

最近、ブログを書くのが楽になった。

頭の中にあるテーマを、外にアウトプットすることに慣れたのだろう。

縛りの外へ出られているとは思わないが、

「自由に書く」ということ自体に、すこし慣れてきたのだろう。

 

世の中には、いろいろなブログを書いている人がいる。

ティップスを与えてくれるもの、

読んだ本について書いているもの、

日記や雑記、

学習について、

プログラミングについて、

アフィリエイト至上主義、

有名無名いろいろあるけれど、ひとまず、

どんなことでも書けるというのは、すばらしいことだ。

中身のない記事があったとして、

それが発表され得ることは豊かだと思う。

もっとも、検索結果が無駄な情報で溢れるのは問題であるが。


わたしのブログも、その豊かさの中でこそ、存在し得ている。

このブログのような内容を、世の中に発する意味があるのかと思うこともあるが、

すくなくともわたしのなかでは、「自由に書くこと」に対しての、変化があった。

書くことに限らないが、自由に振る舞うにも、それなりに慣れと技術がいるのだと思う。

そのことに気が付けただけでも、わたしにとって、このブログは意味がある。

 

また、たいへんに個人的な内容にも関わらず、

アクセスがあり、読んでくださる方がいる。

これは、すごいことで、ありがたいことだと思う。

そのすごさ、ありがたさは、数の多寡は関係がないの。

これもやってみて、感じたことだ。

 

これからも、明日には忘れてしまいそうな日常の出来事を、

あまり何も考えず、綴って行こう。

そうすることで、自分なりの自由を獲得していけたらいいと思っている。

「けものフレンズ」と時代

最初に断っておくが、この文章ではアニメ「けものフレンズ」の結末にふれている。

 

終了からもうすぐ3か月以上たとうとしているが、

2017年冬アニメでは、夫婦そろって「けものフレンズ」を毎週楽しみにしていた。

 

けものフレンズ」の舞台は、美少女化した動物たちが暮らす「ジャパリパーク」。

作中では、美少女化した動物のことを、「フレンズ」と呼ぶ。

物語は、「さばんなちほー」に住むサーバルキャットのフレンズ(サーバルちゃん)が、

謎の少女と出会うところからはじまる。

その少女は、とんがった耳もないし、羽もない。

何の「フレンズ」か皆目わからない……。

かばんを背負っているため、「かばんちゃん」と呼ばれることになった彼女は、

自分がどんなフレンズかを知るために、「としょかん」を目指すことになる。

 

最初は、「また美少女化ものかよー」と思った。

しかも、「けものフレンズ」には、先行するソーシャルゲームが存在する。

わたしの認識だと、ソーシャルゲーム原作で、大ヒットしたアニメはそう多くない。

そして、そのソーシャルゲームはすでにサービス終了しているのだ。

いろんな意味で、あまり注目していなかった。

 わたしの油断した視聴態度は、1話ラストから揺らぐことになる。

サーバルちゃんとかばんちゃんが歩いていくと、

あきらかに、人の手による看板やパンフレットが出てくるのだ。

かばんちゃんは透明な箱に入ったパンフレットを見つけ、蓋を開け、手に取るが、

サーバルちゃんは「なにそれなにそれ、どうやったの?」と驚く。

サーバルちゃんには、パンフレットが、目にすら入っていなかったのだ。

 

ここで、3つのことが示唆される。

 

ひとつめは、「ジャパリパーク」は人に手によって作られた、

サファリパークのような場所である。しかし、遺棄されている可能性が高いこと。

 

ふたつめは、かばんちゃんはおそらく人であろうということ。

 

みっつめは、この作品は、サーバルちゃんをはじめ「フレンズ」を、

たんに「人が動物のコスプレをした」キャラクターではなく、

「動物が美少女化した、動物の特徴を色濃く残す存在」

として描こうとしているということ。

 

ひとつめの、遺棄された施設であるという部分は、

「人間は、世界はどうなっているのか?」 という疑問を呼び起こす。

一見ほのぼのと始まった作品だが、いずれは世界の残酷さが暴かれるのか?

それとも、このまま、平和路線で行くのか?

そういった、今後の展開に関する興味を喚起し、続きを見たくさせる設定である。

 

そして、ふたつめとみっつめ、人としてのかばんちゃんと、

動物としてのフレンズの明確な違いは、作品全体を貫く大きな柱となる。

人であるかばんちゃんは、運動能力も低く、弱い。

しかし、道具や火を扱うことができ、文字も読める。

一方、フレンズはそれぞれが違った身体能力をもっている。

朱鷺のフレンズは飛べるし、

アルパカのフレンズは高山をものともせずのぼることができる。

かばんちゃんの知恵と、それぞれのフレンズの特徴で、

さまざまな難局や困ったことを切り抜けていく。

 

みんなそれぞれ得意なことは異なるけれど、誰もそれを否定しない。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

この、「違う存在が、得意なことで協力しあう」という

基本軸に厚みをもたせているのが、描写の丁寧さだ。

たとえば、かばんちゃんが文字を読んだとき、サーバルちゃんは、

「かばんちゃん、突然何を言い出すの⁉」と驚く。

サーバルちゃんは、文字というものの存在時代を知らない。

だから、かばんちゃんが何をしたのかが理解できないのだ。

これは、非常に丁寧な台詞まわしだと思った。

わたしだったら、「かばんちゃん、文字が読めるの⁉」と言わせてしまいそうだ。

こうした描写の積み重ねで、それぞれの違いを際立てているからこそ、

彼女たちの「共生」「協力」を見たときの喜びが、より強く感じられる。

 

みんなの「違い」を際立てながら、誰もそれを否定しないというのも作品の特徴だ。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

多種多様なもの同士の、共生と受容の可能性を示しつつも、

常に滅びの気配をまといながら、物語は進んでいく。

11話、つまり、最終回の手前では、「ジャパリパーク」に危機が訪れる。

悲しい終わりになるのかと思いきや、12話では大団円。

彼女たちは協力し、誰ひとり欠けることなく、危機を切り抜ける。

かばんちゃんは新しい土地へと旅立つが、

サーバルちゃんは、それを追いかける。

世界は不穏なままだが、物語はどこまでもやさしく締めくくられた。

わたしは心底ほっとしたし、ネットにも、そういった声があふれていた。

 

その一方で、こんなにもやさしい終結を、

これほどまでに喜んでいる自分に、

少々驚きを禁じえなかった。

 

たとえば、20年前ぐらいだったら。

この終わり方を、「手ぬるい」と評した気がする。

(時代の目安として1タイトルを挙げるとすると、

新世紀エヴァンゲリオン」が大ヒットしたのは21年前のことだ)

 

10年前だったらどうだろう。

やはり、「いいけど、もうちょっとひねりがあっても……」

などとのたまった気がする。

(やひり目安として、乱暴に1タイトルを挙げると、

涼宮ハルヒの憂鬱」のオンエアは、11年前である)

 

もちろん、これは作品がすぐれているからでもある。

いたずらに暗い結末や、落差をつけなくても満足がいくぐらい、

キャラクターの描写やエピソードの積み重ねがあり、

作品に「強さ」があった。

 

ただ、以前の自分だったら、この作品の「強さ」に気づけただろうか。

この「強さ」を、物語に通底する「やさしさ」「受容」を、

今ほどよきものとして、喜び、尊べただろうか。

ことわたしに関していえば、「否」だと思う。

 

自分は思った以上に、疲れている。

深まる対立と格差、非寛容、

そんなものに。

受容の難しさを、日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

けものフレンズ」への感動と表裏一体で、

そのことに気がついたのだった。

違うものを受容し、共に生きる難しさを日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

 

作品と時代は切り離せないが、

かといって、作品を通して時代を語ることは、

あまりにも乱暴だと、わたしは思っている。

ただ、「けものフレンズ」に関していえば、

作品に夢中になっている自分のなかに、

わたしにとっての時代を発見したのだった。

タイトルでは「『けものフレンズ』と時代」と大上段に

ぶってしまったが、ここでの“時代”は、

あくまでわたしが見ている主観的なものであることを断っておく。

 

「『けものフレンズ』よかったなあ」と思うたび、

わたしはわたしの主観がとらえている、社会と自分自身のドロドロに愕然とする。

一方で、だからこそ、この作品があってくれてよかった、とも思える。

サーバルちゃんとかばんちゃんの旅には、

現代を「多様化と断絶の時代」ととらえる者が、

今後どうふるまっていくかについて、

ヒントがたくさん含まれている。

わたしにとって「けものフレンズ」はそんな作品である。

眠れる自転車乗りたちの言い訳探しは続く

わたしたち夫婦の共通の趣味のひとつ、それがサイクリングだ。

わたしはクロスバイク、夫はロードバイクを所有している。

当然、2台の自転車は室内保管。

昨年の引っ越しに際しては、

保管場所が確保できる間取り・広さも条件となった。

 

生活スペースにそれなりのリソースを割いているにも関わらず、

昨年、自転車に乗ったのは何回だろうか。

わたしはたまに、仕事での移動手段として乗っているが、

その機会も住居が都心から離れて、激減した。

平日ライドが難しい夫は、年間、片手で数えられるぐらいしか乗らない。

 

自転車は、我々夫婦の出会いの一端も担っている。

ふたりとも、自転車を買ったときはまだ独り身で、

お互いのこともほとんど知らず、別々の場所、

別々のスタイルで、自転車に乗りまくっていた。

ふたりで付き合うようになったらもっと乗るのかと思いきや、

映画だイベントだとやりたいことがたくさんあって、

めったに乗らなくなったのは意外だった。

 

わたしのクロスバイクはともかく、

夫のロードバイクは盗難が心配なため、

長時間駐輪して何かをすることは難しく、

休日にやれることが限られてくる、というのもひとつの要因だ。

 

そして、一度乗らなくなってしまうと、

乗る前に空気を入れて、自転車を外に出して、

帰ってきたらタイヤをふいて家に入れて……

ああ、出かける前には、サイクルジャージ着て、

ヘルメットとグローブつけて、サングラスもかけなくちゃ……

というのがとてつもなくめんどうくさくなってしまうのだった。

 

それに、春は花粉、初夏は梅雨、

夏は夏バテ、にわか雨の心配もあり、

冬は末端の冷えと、

自転車に快適に乗れるシーズンは案外限られている。

「乗らない」言い訳には事欠かない。

 

それでも、ふたりとも自転車を手放そうとは思わない。

自分の脚の力がペダルに伝わり、

スイスイと信じられないスピードで長距離を走る、

あの気持ちよさを知っているからだ。

 

乗れば、「なんで今まで億劫になっていたんだろう。

こんなに気持ちよいのに」と思う。

それはわかっている。

だから、「乗らない」言い訳と同じぐらい、ほんとうは、

「乗る」言い訳もさがしているのが、

我々“休眠自転車乗り”なのだと思う。

 

梅雨の晴れ間なんて、その言い訳に最適ではないか。

だから、「晴れたらやりたいこと」は、サイクリングだ。

雨が止んだし、まだ夏ほど暑くないし、

このあたりには緑が気持ちいい場所がたくさんあるし。

休日晴れたら今度こそ、そんな“乗るための言い訳”を並べ、自転車で出発したい。

そう思っている。

 

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

黄金の休日、黄金の長野・野沢温泉 その2

野沢温泉2日目。

朝は早めに起きて、宿から近い上寺湯へ。

熊の手洗湯と、泉質は似ている。

源泉が同じなのかもしれない。

熱めのお湯で目が覚めた。

……とはいえ、朝食後、ひと眠りしてからチェックアウト。

 

2日目は、

駅でもらったいくつかのパンフレットから検討した結果、

飯山駅で遊ぶことにした。

飯山駅では、駅構内にある「信越自然郷アクティビティセンター」で自転車を借りる。

信越自然郷アクティビティセンター|飯山駅観光交流センター

店がその辺に自転車を置きまくっているため、

レンタサイクルがあることは、駅を降りればすぐわかる。

ロードバイククロスバイクもあったけれど、

体力に自信がないので、電動アシストタイプをチョイス。

半日(4時間)1000円/1台、だったと思う。

我々の共通の趣味には、スポーツ自転車があったはずなのに、

どうしてこうなった。

 

アクティビティセンターでは荷物を預かってもらえた。

そのうえ、スタッフの方におすすめランチスポットを丁寧に教えてもらったり、

ゴールデンウィーク特典で「道の駅」のソフトクリーム無料券をもらえたり、

レンタサイクル以外にもすっかりお世話になった。

 

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自転車はよく整備されていて、ピカピカ!

 

目指すは「道の駅 花の駅 千曲川」だ。

走り出すと、アシストがぐーいぐいと後ろを押してくれて、楽ちんだ。


駅前通りを抜けると、通称「仏壇通り」へ。

知らずに通りかかっても、「ここは何?」と気づくくらい、

通りには仏壇店、仏壇店、仏壇店。

なんでもお寺が多い土地柄から、仏壇店が集中。

今もかなりの全国シェアを誇るという。

観光パンフレットには、

「仏壇店の技術が気になったら店に入ってみましょう」と

書いてあるけれど、これ、店にとっては迷惑なのでは……。

 

へええ、などと言っているうち、

お昼を食べる予定のあたご亭に到着。

www.iiyama-ouendan.net

 

お目当ては、飯山が誇るブランド豚「みゆきポーク」を使った豚丼だ。

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見よ! この迫力! たしか800円くらい。

 

「みゆきポーク」は、さっぱりと上品な味わい。

くさみや脂っこさがなく、噛むほどに豚の旨味か広がる。

見た目ほど重くなく、ふたりとも美味しく完食。

お店のスタッフさんが、

「どこからいらしたんですか?」

「楽しんでくださいね」などと話しかけてくれて、

なんだかうれしかった。

 

途中、千曲川沿いに出ると、沿道には、山をバックに桜と菜の花が咲き誇る。

 

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風が吹くと桜吹雪までが舞い始め、「アニメの1シーンみたい!」
「オープニングとかでありそう!」とはしゃぎながら走り抜けた。

 

楽しく走って、「道の駅 花の駅 千曲川」に到着。

道の駅は、地元の人で大混雑!

まずは、アクティビティセンターで無料券をもらったソフトクリームを。

こちらも長蛇の列だが、手際がよく、サクサクと進んでストレスなし。

私は「スノーキャット」、夫は「シナノスイート」を注文。

どちらも、香料だけではない、素材の味がきっちりする。

美味しいうえに、ここでしか食べられない(おそらく)味。ワンダフル!

 

野菜売り場では、安い! 東京では見ないものが売っている! とあって、
夫婦でテンション上がる。あれもこれもほしくなってしまう。

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にぎわう売り場。在庫チェックに来た農家さんもいて、とにかく活気があった。

 

「雪下ニンジン」のコーナー前では、地元の人達が

「雪下ニンジン、ニンジン嫌いのウチの子が食べたのよ~」

「フルーツみたいよねえ~」と会話をかわし、

そのうえ、試食が置いてあった。

ニンジン嫌いの夫も、

このダイレクトマーケティングぶりに心を動かした。

ためしにひとつ口に入れて、

「おいしいいいい」と目を輝かせている。

夫いわく、「ニンジンの土臭さがぜんぜんない」とのこと。

購入決定。

 

また、「とうたちな」というはじめて見る野菜もあった。

野沢菜、大根(葉の部分)などの野菜が育ち過ぎた状態を言うらしい。

ネットで調べても情報が少ないが、

ゆがけば青菜と同じように食べられることがわかった。

ためしに野沢菜のとうたちなを買ってみた。

家に帰っておひたしとシンプルな炒め物にすると、これが美味しいのなんの。

さわやかななかに、本当にわずかな苦みがあり、まさに春の味わいだった。

 

野菜とお土産を買いこみ、今度は「菜の花まつり」会場へ。

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「菜の花まつり」会場は、とにかく一面の菜の花が咲いているのだ……。

 

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除草のための山羊もいて、のどかな雰囲気。

 

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子どもの日が近かったため、鯉のぼりが。

 

ここまでで、自転車のレンタル残り時間は1時間半ほど。

余裕で飯山駅に着くはずが、道を間違えてしまい、途中、あせって帳尻を合わせた。

電動自転車で本当によかった。

総走行距離は15キロぐらいだと思う。

 

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「道の駅 花の駅」へ、基本的には千曲川沿いを移動する。

 

自転車を返してから、飯山駅の「パノラマテラス」でしばらく仕事をして、

駅構内の立ち食い蕎麦屋で蕎麦を食べて新幹線に。

 

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野沢菜わさび昆布」を注文。

やはり蕎麦どころゆえか、立ち食い蕎麦も美味しい気がする。

また、便宜上「立ち食い」と書いたが、座って食べられる。

 

野沢温泉のように外湯がたくさんあると、

「何もしない贅沢」というほどはぼんやりとはせず、

ほどよくアクティブに温泉を楽しみ、

のんびりすることができる。よい場所だなと思う。

 

野沢温泉には、1月に豪快な火祭りがある。

野沢温泉の道祖神祭り : 北信州野沢温泉 観光協会オフィシャルウェブサイト

それに合わせてリピートするのもオツだな~などと思いつつ、

温泉あり、サイクリングあり、花あり、はじめての野菜との出会いありの

旅が幕を閉じたのだった。