言葉とは、化石燃料のようなもの。
“資源”だと思う。
独立したばかりのころ。
わたしは、アルバイトをしていた。
今までになかったレベルの
経済不安定さに頭をガツンとやられたから。
というのも、もちろんある。
しかし、もうひとつ大きな理由があった。
それは、「言葉が頭から抜けてしまう」ことだった。
自宅でひとり仕事をするようになって、人と話す量が激減した。
当時は、仕事の量もたいして多くなかったので、なおさらである。
同時に、入ってくる「言葉」も激減した。
言葉の出入りがあるなんて、それまでは意識したことがなかった。
けれど、なくなってみるとわかる。
違う思考とボキャブラリーをもつ人間と会話をかわす。
それは、日々小さな“異文化”と出会うことであり、
言葉を交換し、お互い、自分の中になかった言葉を補給することにほかならない。
生物の死骸が長い時間をかけて蓄積され、化石燃料になるように、
取り入れた言葉は知らぬうちにプールされ、ボキャブラリーへと変わっているのだ。
そのうえ、わたしは仕事で言葉を扱う。
インプットはないのに、アウトプット過多。
今までたくわえた言葉が、自分の中から消えていく。
それははじめての感覚だった。
そこで、経済的不安と、言葉的不安を解消するため、接客業のアルバイトを始めた。
月に3~4回の派遣バイトだったが、
見知らぬ客と会話していると、みるみる「言葉」が入ってくるのを感じたものだ。
仕事が軌道に乗るにつれ、アルバイトをする暇もなくなり、
独立して1年で本業1本に。
打ち合わせなども増え、人と話すことは多少は増えた。
しかし、あのときの「言葉が抜けていく」恐怖感は忘れてはならないと思っている。
人に会い、本を読み、化石燃料を貯め続けなければならない。
夫と結婚が決まったとき、期待したのは、この「言葉の補充」だった。
何しろ、違う家庭で育った他人と、ひとつ屋根の下で暮らすのである。
日々、定期的に言葉が補充されるに違いない!
残念ながら、一緒に暮らし始めて2年もすると、その期待は裏切られた。
我々は似た者夫婦なこともあり、
次第に同質の文化、共通の言葉をもつようになっていったのである。
会話していて、思い出せないことがあっても、
「あれ」でたいていのことが通じてしまう。
あまりに同化しすぎると脳に刺激がなくなってボケそうなので、
なるべく「あれ」で済まさず、「思い出してはっきり言って」と促すようにしている。
コミュニケーションのストレスは限りなく低いが、
同時に摩擦による刺激も限りなく少ない。
言葉が抜けていくこともないけれど、補充されることもない。
家計を一にし、同化していくうちに、
2人の言葉の油田も、なんとなくつながってしまった。
夫婦でかわした言葉も知らず、天然資源となっているのかもしれないけれど、
それは微々たるものだなと思う。
夫婦はひとつ、だけど他人。
化石燃料の材料になるものは、個々でせっせと集め、
資源を守っていくしかない。
そして、同化に向かいがちな夫婦は、異化する努力も必要である*1。
結婚は万能ではない。
そして、夫婦円満であればこそ、出てくる問題もある。
結婚生活で得た意外な気づきである。
*1:まったくタイプが違う2人の場合は、違った努力が必要になるのだろう、当然