いつの間にか、Amazonを使わなくなった。
たしかになんでも揃うし、安い。
しかし、品物名を入れて検索すると、ときには品質あやしからん品が並び、ときには「品物が届かなかった」というレビューが目に入り、新刊本が妙に高いかと思えば転売品であったり、そういったことに疲れてしまったのだ。
「これは信頼がおけるかどうか」を常に判断しなければならないのは、精神的な負担が大きい。
かわりにヨドバシカメラの通販や、Yahoo!ショッピングを利用するようになった。
そう、「これは信頼がおけるかどうか」を常に判断しなければならないのは、精神的に、負担なのだ。
わたしはブラウザ上でTwitterを開きながら、同じことを思う。
どこの店が美味しいとか、こんないいことがあったとか、かわいい猫ちゃん画像とか、真偽を確認しなくてもいい情報もガンガン流れていくが、時事問題に関してはそうはいかない。
たとえば、放射性物質の危険性について。新型コロナウイルス感染症について。そして、ウクライナ情勢について。
わたしの情報収集方法の基本は、2011年、福島第一原子力発電所の事故から変わらない。専門家、もしくは専門知識を持つ市井の人を複数フォローし、共通認識を探る。センセーショナルな情報にこそ、警戒心を持つ*1。
そのあたりについて書いた記事はこちら。
ウクライナ情勢についても同様にしており、その結果、「これはロシアの侵攻である」と認識している。
しかし、「これはウクライナのプロパガンダだ」という向きある。そうすると、「わたしが『ロシアの侵攻である』と信じているのはなぜなのか」を問い直すことになる。
これは非常に疲れるけれど、何かを盲信するのは危険なので、常に自分の認識を疑いつづけることもまた大切なのだ。
実際は、気力と時間にはかぎりがある。「これはロシアの侵攻か否か」ぐらいの大枠は、ある程度情報収集したら問い直さないようにしている。そうはいっても、こまごまとしたレベルで「これは正しいのか否か」を考える事態が頻発する。
わたしたちは、否が応でも情報戦に巻き込まれている。何を、どれだけ世界の人々が支持するか。それが、民間人、兵士問わず、戦地の人々の士気に影響し、支援の多寡にも波及する。
わたしは「21世紀にもなって、一国がこのような言いがかりで侵攻するのは許されない、おそろしいことだ」と思っている。だから、ロシアを止めたい。もはや甚大な被害が出ているけれど、今後出る死傷者はできるだけ少なくあってほしい。
シリアでのロシアの蛮行を見過ごしていたことも、罪悪感がある。今回の件に限らず、このような事態をこれ以上再演させてはいけない、と思っている。
ほかのこと。たとえば、ミャンマーのクーデターについても、もっと声をあげるべきだ、とも思っている。「世界がそれを許さない」と示すことは重要なことなのだ。
だから、こうしてブログで、あるいはツイッターでそれを発信する。大変基本的なことであり、理想であるが、「戦争は嫌だ、間違っている」と個人が表明し、それが共通認識だと示すことには意味がある。
意味があるからこそ、情報は精査しなければならない。
SNSの登場と機械翻訳の機能向上で、世界はより「つながる」ようになった。国により歴史文化は違うけれど、「世間」の範囲は広くなりつつある。
アメリカに端を発する陰謀論Qアノンがほぼダイレクトに飛び火して、日本独自の陰謀論Jアノンに育っていく。陰謀論にひもづいて、他国であるアメリカの大統領選が大きな話題になる。そんな事態は10年前は考えられなかった。
昔、考えていたのと違う意味で、「世界はひとつ」なのだ。
「微力な個人であっても、世界とつながっている」。それがこれほどダイレクトに感じられる時代は、かつてなかったはずだ。わたしはそれを、「重いな」と思う。重いが、この世界をよりよくしていきたいと願うなら、背負う必要がある……というのがわたしのスタンスだ。
そして「こういった事態は、ロシアのウクライナ侵攻が最後ではない可能性が高い」と考えている。わたしが生きて元気なうちに、もっと身近な場所で、「止めたい」と思うことが起きるだろう。
問題が近くなればなるほど、国境の垣根なく広がる「世間」の空気が重要視されるほど、「何も表明しない」ことは中立ではなくなっていく。「沈黙はそれはそれで、立場の表明である」ということが明確になっていくはずだ。
これは表明しないことの是非ではない。何を選んでもいい。発言しない自由は誰にでもある。あえて世界の重さに触れないことで、人々に安らぎを与えるスタンスもある。
ただ、「沈黙していても、何かを表明しても、どちらにせよ世界の重さからは逃れられない」ことだけは、よりはっきりとしていくのではないか*2。
人は愚かで、同時に知恵があり、良くも悪くもときに予測不能なことを起こす。そんな人間が社会を構成し、これまた予測不能な自然というものがあるのだから、本来、世界は不確実性に満ちたものなのだろう。
「いままでの常識では考えられない」ことが起こり、人類が経験したことがない速さで情報が駆け巡る。
「これが信頼置けるかどうか」を判断するのは、コストがかかる。とても疲れる。今日、目にしたマリウポリの惨状は、果たして本物なのか*3?
だからといって、「Amazonが嫌だから、ヨドバシを使います」のように、乗り換えるわけにはいかない。現実はただひとつだからだ。ただ、信頼に足る情報源を自分なりに確保することで、すこしはその疲労を軽減することができる。
かつてわたしが敬愛するノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは言った。「南米には独裁政権がいくつもでき、多くの人が命を奪われた。しかし、世界は振り向かなかった。ノーベル賞受賞により、世界の目が少しは南米に向けられたのではないか」*4。
マルケスの代表作、『百年の孤独』は、ファンタジックな作風ながら、南米の歴史が詰め込まれたものだ*5。
「知る」ことには、感心を持ち続けることには、昔から大きな意味がある。SNSが発達した現代ならなおのこと。
「これは信頼できるかどうか」を判断するのは、とても疲れる。コストがかかる。それでも、わたしは情報の精査に心を砕く。
世界がよりよきものであるために。理不尽な死ができるだけ少なくなるように。人が生きる権利や自由が、侵されないように。
世界が平和でありますように。
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