平凡

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映画『BLUE GIANT』を劇場で見てくれー! と叫びたい

「これは映画館で見てよかった!」と思える映画ってありますよね。

この間、まさにそんな映画に出会ってしまったんです。それは『BLUE GIANT』。

 

bluegiant-movie.jp

 

 

原作は、『岳』で知られる石塚真一さんによる同名コミック。ジャズに魅せられてテナーサックスを吹き始めた宮本大(みやもとだい)が「世界一のジャズプレイヤー」を目指す姿を描いています。

原作の単行本はエピソード区切りでタイトルが変わり、巻数をリセットして連載中。

大の日本での黎明期を描いた『BLUE GIANT』が全10巻、ヨーロッパへ渡った大の姿を描く『BLUE GIANT SUPREME』が全11巻、大がアメリカ西海岸へ降り立つ『BLUE GIANT EXPLORER』は既刊8巻。累計発行部数1000万部を突破しています。

映画は大が日本で過ごした日々を描く『BLUE GIANT』部分をアニメ映画化したもの。

わたしは漫画未読――というか、実は何度か挑戦して挫折しています。

 

物語はジャズプレイヤーになるため、大が仙台から上京するところからスタート。やがて大は高い技術を持つピアニスト・沢辺雪祈(さわべゆきのり)、同級生でまったくの初心者ながらジャズに魅せられてドラムを始めた玉田俊二(たまだしゅんじ)と、三人編成のバンド「JASS」を組むことに。

あまりにもまっすぐ過ぎる大、自信家の雪祈、足を引っ張りがちだと悩むものの、いちばん柔軟な玉田。彼らはぶつかりながらも大の演奏に魅せられ、認め合い、頂点へと駆けあがっていきます。

 

タイプが違い、我が強い三人が直面するそれぞれの壁や挫折は、生々しいものです。たとえば、三人の中でいちばん経験も技術もあると思われた雪祈は、それゆえのハードルが立ちはだかります。乗り越えるのは最終的には己の力なのですが、跳ぶためのバネになるのが、認め合うものの馴れ合わない三人の関係性です。

それがもう、本当に見ていて胸が熱くなるんです。

 

その熱さと常にセットになっているのが、ライブシーンです。

ちいさなジャズハウスでわずか客三人だったはじめてのライブ。

地域のジャズフェスティバルで、「メインアクトを喰ってやる!」と鳴らす自分たちの音。

そして大舞台でのラストライブ……。

 

「JASS」は雪祈が作曲したオリジナルの曲を演奏しており、アニメ映画ではそれを上原ひろみさんが作曲。

ライブシーンでの演奏も、上原さんが雪祈のピアノを担当。ほか、大のサックスはオーディションで選ばれた馬場智章さん、玉田のドラムはmillennium paradeにも参加されている石若駿さんによるものです。

その音楽の迫力ったら! 

作品のキーになるのは間違えなく、吹いて吹いて吹きまくってきた大のサックスの“引力”で、その強く情熱的な音色が見事に表現されていました。

映画館で見てほしい理由のひとつが、この「音」を最高の音響設備で浴びてほしいから。

 

音楽に加えてライブシーンで圧巻なのは、映像表現です。人のリアルな動きを入れた方がよいごく一部のカットだけは3DCGを使い、あとは2Dアニメで演奏者の表情、音の奔流、感情の流れがひたすら表現されます。ここでポイントになるのが、「作中で観客が受けているエモーショナルな印象や、演奏に打たれた感動」もアニメーションで表現されていること。

このライブにたどりつくまでの熱い物語、そのすべての想いを叩きつける演奏(音楽)、加えて観客の感動。これらが三位一体になって迫ることで、思わず映画の観客だるわたしも、「今、伝説的なライブに立ち会っている!」気持ちになれる。この没入感は、ぜひ映画館で味わってほしい! それが劇場で見てほしい二つ目の理由です。

 

ライブシーンは一部YouTubeで公開されているのですが、あえて貼りません。単独で見ても素晴らしいものですが、初回は物語の流れの中で見てほしいから……。

 

いろいろ御託を並べてしまったのですが、『BLUE GIANT』はとにかく熱い!

キャッチフレーズの「二度とないこの瞬間を全力で鳴らせ」そのものな、青く激しく燃える三人の青春とその帰結、ぜひ劇場で見て! 見て! 見てください!

お願いしますッ!

 

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桜は散りて春は深まり。1月~3月まとめ

 

友人親子と公園でピクニックをしたのは、二週間前のことでした。日差しはあたたかく、それでも日影では風よけの上着は必須。桜のつぼみはふくらんでいたものの開花はまだまだで、木々は裸の枝を伸ばしていました。

 

それがいまは、ベランダから見える桜はおおかた散り、アスファルトにピンクの花びらが吹きだまっています。

春です。

季節のかわり目、最近はやれていなかった「まとめ」を、いまこそやろうと思います!

 

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年明けはすこし仕事が落ち着いていたので、毎日少しずつ確定申告の準備をしていました。

「仕事が落ち着く」と書くと平和なイメージですが、フリーランスとしては不安に襲われ、何も手につかなくなることのほうが多いです。事務処理を淡々と進めることで、精神が安定したのはよかったです。

まさか経理作業に救われる日が来ようとは……。

 

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はてな公式ブログに、12月に書いたエントリーを取り上げていただきました。

blog.hatenablog.com

 

こちらのエントリーです

わたしの、新しい靴「2022年買ってよかった」

https://hei-bon.hatenablog.com/entry/2022/12/09/073000

 

思い入れのあるブーツについて書いた記事なので、うれしかったです。取り上げていただき、ありがとうございました。

こういう記事では、自前の写真をつけることも大切なんだな~と感じました。

 

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年末年始から1月中は例年、胃腸の調子を崩しがちです。

2月はじめに出張が入っていたので、2週間ほど、胃腸の調子を整えるためにひたすら鍋を食べていました。リングフィットと散歩も欠かさずに。体調はかなり整いました。

ただ、その反動で2月半ばから3月は、完全に昼夜逆転してぐっだぐだに。

3月の頭に超絶多忙時期がやってきたら、朝型に戻りました。

 

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FGOの第2部6章がとてもよかったです。

ロストベルト攻略の最後に、「比べることも争うこともしない超平和主義の知性体」との交流を通じ、「自分の世界を残すため、他の世界を滅ぼす非道をやっている」主人公の行動を肯定する。上手いなあと思いました。

 

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すでに終わった展示ですが、清瀬市博物館で開催されていた「歩く、描く 谷口ジロー清瀬」へ行ってきました。

谷口ジローさんはずっと清瀬にお住まいだったとかで、『歩くひと』『犬を飼う』などの作品にはその風景が描かれているそう。

小規模展示でしたが、超絶美麗な原画を間近に見られて眼福でした。

何より博物館へ行くまでの道が、すでに「これ、『歩くひと』に出てきそうな風景だな~~~!」と思えるもので。鑑賞後は、『歩くひと』に出てきた「中里の富士塚」へ足をのばしました。「それが描かれた場所で、描かれたものを見る」のは贅沢な体験でした。

 

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『シン・仮面ライダー』を見てきました。わたしはおもしろかったです。元ネタ知識ほぼゼロです。

わたしは「本郷とルリ子の孤独な心情をムードたっぷりに描いたロードムービー」として楽しめました。褒めている人であってもみな、「キャラクターの感情がわからなかった」と書いているので、わたしが何か誤解している可能性は高いですが。

何を見せたいか、何を想像で埋めてほしいか、ドラマの演出の方向性はすごくはっきりしていると感じたんですよね……。

 

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映画『BLUE GIANT』がめっちゃくちゃよかったです。最初はのれなかったのに、中盤からはずーっと泣いていました。

タイプがまったく違う、まだ何者でもない若者3人がぶつかり、ジャズを通して認め合い、彼らだからこそ到達できる頂点を目指す。その3人の関係性が「ジャズの魅力」を雄弁に語り、最高に熱い物語の途中で、最高に熱い演奏シーンが入る。映画館で見てほしいです……!

思い出しただけで泣いてしまう……。別途記事を書けたらと思います。

 

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あとは他の記事に書いた通り、なんだかんだいろいろな場所で、いろいろ書いています。

すでに書いたこととかぶりますが、思いついたらどんなに下劣なものでも書き出し、できるかぎり物語形式にするようにしたら、頭が軽やかになりました。もっと早くこうすればよかった。死後に読まれたら恥ずかしい、とかはありますが、そこはもうしょうがない。


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そういえば、ピクニックをした日の夕食は、「王将」の天津飯でした。卵の出荷数不足と値上げが止まらず、いまは天津飯の提供をやめていると聞きます。

2週間あれば、いろいろなことが変わっていきますね。

 

それはともかく、春らんまん! とうことで、もうすこし外に出たいです。

皆さまの春が、楽しいものでありますように!

 

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人生修行としての「書く」

コミュ障だ。書けば書くほど、そう思う。

 

昔々コミュニケーションがオフラインのみだったとき。

「対面のコミュニケーションは苦手でも、文章なら伝えられる」と思っていた。

 

甘かった。幻想だった。

 

ここ10年から15年、mixiTwitterだとオンライン上での、文字によるコミュニケーションの比率が増えている。

そこで知り合う人との人間関係の濃淡はさまざまだ。リアルで会ったことがある人、ない人。何回かリプライをくれた人、そうじゃない人。

求められるコミュニケーションは、その濃淡に合わせて距離感をあやまたず、礼を失しず、固すぎずやわらかすぎず。

 

Twitterで相互フォローの関係だと、つぶやきを常に見ているので、リアルな知人よりずっと距離が近く感じることが(わたしには)ある。

ただ、それは距離感の一種のバグであり幻想なので、思うがままにリプをするとコケる。相手に不快感を与えてしまう。

クソリプやおっさん構文など、コミュニケーションの不全への非難はやむところがないが、「わたしは『やってしまう』側の人間だ」といつも思う。

 

オンラインでのコミュニケーションが増え、さらに仕事の原稿だブログだ小説だと書いていて気がついたのは、文章を書くこともコミュニケーションである、という何をいまさらな真実だ。

なかでも「自分の脳内にある空想を、他人にわかりやすく、できればおもしろおかしく伝える小説」なんてコミュニケーションの極致だと思う。「その文章で伝わるか?」からはじまって、「読んでいてよどみないか?」「最低限おもしろいか?」と、終始読み手を意識しないと立ちいかない。

 

リアルでもTwitterでも、ほがらかだとかいつも楽しそうだとか、好かれる人っている。小説にもそれがある。ポピュラーな作風はストレートに人柄が出るし、暗い話でも重い話でも、作者ががっぷり取り組んで、なおかつ本気で伝えようとしてくる話は、語弊をおそれずいえば「好かれる」。目をそむけたくなるネガティブな感情を伝え、読ませるのは他者を意識して書いているからこそで、広い意味でのサービス精神があるってことだから。

 

前にも一度書いたけれど、小説投稿サイトはときとしてSNSの一種として機能している。ことにこの「はてな」も運営にかかわっている「カクヨム」は、書き手同士の交流が生まれやすい。

Web小説投稿サイトは一種のSNSではあるけれど…… - 平凡

とはいえ、つながりができるのは、まず、その人の作品を本気でいいと思えて、創作姿勢に共感ができる場合のみだと思う。わたしの経験だと、交流が生まれるとき、書いているジャンルの類似はあまり関係ない。

文字通り創作を通じてつながるわけで、そこには嘘や同情やなれ合いがあまりない。ある作品を気に入ってフォローしても、別の作品をのべつまくなしに褒めたりはしない。

いいと伝えるのは、いいと思ったときだけだ。

界隈は広いので、そうではないコミュニティもあるだろう。けれど、比較的ニッチな作品を書いているわたしから見える風景はそうだ。

だからこそ、「すばらしい!」と思った人様の作品に、感想やレビューをきちんと書きたいと思うことがある。そこにはやはり、作品を読み取り、その良さを伝えるというコミュニケートが発生する。感想であれば、「それを読んだ作者がどう思うか。不快な書き方をしていないか」「適切な距離感の書き方」が求められる。

これ、自然にできる人はできるんだと思う。わたしはぜんぜん自信がない。

「この作品、すっげー好き!」と思ってコメントをしても、何か気をつかわせてしまっている……? と感じることも多い。

交流面を除いても、小説は書けば書くほど、自分の未熟さを見せつけられる。そのつたなさに直面すれば内面の浅さがはっきりわかるし、わかりにくい文章に気づけば、ひとりよがりな自分に赤面する。

 

とにもかくにも「書く」ことを通して、自分のコミュニケ―ションのだめだめっぷりを実感する日々なのである。そのだめだめっぷりは、創作には如実に表れていると思う。

それでも書くことは楽しい。

頭の中にあることを取り出して、稚拙でもよいから表現する。ぎこちなくとも世界と登場人物が動く。上手くいけば、それが人の心を楽しませる。

同時に、自分がより良き人間を目指すならば、「書く」は不可欠なのだとも思うようになった。

自分のだめっぷりがはっきりと可視化されるのは何かを書いたときだし、それを乗り越えたいと考えを真剣に巡らせるのも書くときだからだ。

テキスト上のコミュニケーションが難しいとはいえ、対面よりはゆっくりと考え、行動することができる。

 

というようなことを考えて活動をつづけていると、心が折れかけるときもある。が、それを察知してさりげなく声をかけてもらえることも多い。

声をかけてくれる人たちは、距離感のつかみ方もことばの選び方も上手い。だから、作品や作者にファンがついている。参考にしたい……と思いつつ、なかなか真似できないが、とにかくありがたい。

そして、ありがたいと思うほど、わたしは肩に力が入ってしまう。コメントを返すのが遅くなってしまう。たくさん書いては消し、書いては消しをして、時間をかけて、結局は「とてもうれしいです!」とだけ返すことも多い。下手をすると、何日もコメントを返すことができない。でも、声をかけてもらえるのは重荷ではなく、間違えなくうれしいのだ。それに応えたいのだ。

創作の場に限らず、このブログもTwitterでも同じだ。仕事のメールでも、飛び上がるほどうれしくて涙ぐんだお褒めのことばほど、返信が返せない。いつも楽しく仕事をし、尊敬していた編集さんからいただく異動の挨拶メールも同様だ。

 

正直、コミュ障が一朝一夕で治るとは思っていない。それでも少なくとも、そういったありがたい好意には、しっかりと返せる自分でありたい。この「しっかり」にはスピード感もふくまれる。

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」。暴投しがちでも、投げることはやめていない。それに加えて、わたしは打ち返したい。いろんな人の気持ちに、ことばに、しっかりと打ち返せるようになりたい。簡単なことばでいいから、すばやくお礼が言える自分になりたい。

 

正直、他人様に読んでもらうことを前提にしたブログの場で、「文章の場でもコミュ障だ」と書くのもどうかとは思う。それでも、前に進むために、いまのわたしの記録として、書いておく。

 

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」

 

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春分の日に、一年の目標にかえて

「人生、先が見えないとつらいんだな」

そんな当たり前のことに気がついたのは、フリーター時代だった。

新卒で勤めた会社をクビになり、とりあえずはじめた接客バイトの仕事。

意外なことに、それは自分に向いていた。

目の前のお客さんの求めるものを、なるべくなら解決してあげたいと思い、そのためにフロアを走り回る。売り場を整え、商品を切らさないようにする。

それはわたしに充実感を与えてくれた。

ただ、その職場には先がなかった。

経験を積めばバイトもそれなりに知識をたくわえ、発注し、売り場を作るぐらいの権限は与えられる。

「ベテランね」とお客さんが目を細める店員は、たいてい自給なんぼのアルバイトだ。

この社会ではよくある話ではある。

そこで、より人生を安定させようと、正社員を目指す者もいる。

しかし、それは全店舗で年に二~三人通るかどうかの狭き門なのだ。

加えて、正社員になれば求められるのは、フロアでの接客ではなく、マネージメントである。

わたしはマネージメントは絶対にやりたくなかった。というか、合わないことは火を見るよりも明らかだった。

新卒で就職し、やっていた仕事は編集者だったからだ。編集者の仕事とは、各所に発注をかけ、その進捗を管理するマネージメントにほかならない。

それが、わたしはまったくできなかった。

 

接客は好きだ。周囲からは「まじめな人材」と目されていたようで、重宝もされていた。人間関係も悪くなかった。でも、そこには先がなかった。

 

わたしはだんだん笑えなくなった。

いまでも覚えているのは、春分の日のことだ。暖かい風が吹いて、それでもわたしはブクブクのダウンコートを着ていた。冬用のコートを脱ぎ去り、次の季節の服装を考えなければいけない。それが心底めんどうくさかった。

「春なんて、来なけりゃいいのに」

次の季節の到来を喜べない自分に驚いた。それまでの人生にはなかったことだったから。

 

エスカレーターに乗っているとき。ふと、ガラスに映った自分の顔が目に入った。特別いやなことがあったわけでもないのに、ものすごいしかめっ面をしていた。

「わたし、いつもこんな顔して歩いてるんだ」

そういえば、最近、笑ったことがあっただろうか。思い出せる感情は、怒り、イライラ、悲しみだけ。

 

わたしはそんなわけでアルバイトを辞め、会社勤めのライターになった。

ライターが、唯一「やったらおもしろいかも」と思える仕事だったからだ。

具体的なことは何一つわからないまま飛び込んだ世界だったけれど、商業ライティングの世界は、わたしに社会での居場所を与えてくれた。

 

ライターになって、フリーランスになって、人生は安定した。世間から見てどんなに不安定であっても、わたしにとっては安定だった。はじめて「つづけられる」と心から感じられる仕事だったから。結婚して、さらに情緒は安定した。

 

しかし、中年というか、中高年の域に達した昨今、迷いが生じた。

「わたしはこれから、どうすればいいのだろう」。

 

自分は一ライターとして記事を書いていきたい。が、出版不況の中、それをつづけていけるのだろうか。もちろん、ウェブ時代であっても、いや、ウェブ時代だからこそ、プロが書いた文章は求められてはいる。ただ、ウェブで情報を発信するメディア側のスタンスはあまりにもいろいろ過ぎる。「こうしたい」がないと、泳ぎ切れないように感じられた。

 

同キャリアの人たちは、どんどん専門性を身につけていく。自分は何かの専門家になりたいのだろうか。「こういうこと、もうすこし詳しくやってみようかな」と口にすると、いつもことばが上滑りした。

 

依頼に応じて書く、いまの仕事は好きだ。ずっとつづけていきたい。でも、つづけるためにもビジョンが必要だ。

仕事だけではない。

子どもができなかった――というか、主にわたしのふがいなさから子どもを(なかば)あきらめたこともあり、「未来」が急に見えなくなった。

 

「いま」に満足していても、未来が見えないと、人生に倦む。

「いまのままをつづけたい」と心底思えるなら、それはそれでビジョンだ。でも、どこかでそうは思い切れない自分がいる。

 

変えたい、では何を?

 

だからというわけではなく、まったく別の衝動からなのだが――。

コロナ禍に、いままでになかったタイプの小説を書き、のちに投稿サイトに掲載しはじめた。

そこで更新回数の大切さを思い知り、数年間設置しつつも、数カ月に一回の更新だったこのブログの更新回数を増やした。

ブログに「子どもをもつこと」について書いたら、驚くほど情緒不安定になって、カウンセリングに通いはじめた。

仕事の激務期間が訪れ、そのストレスで、原始的なジャンルの小説を書くようになった。

そうしたら、何か別の扉が開いたらしく、今までになく他ジャンルの小説も書きやすくなった。

そういうことがドミノ倒しに起こり、わたしはこの春、利用している投稿サイトのイベントに乗っかって、何篇か短編小説を書いた。

勢いで書いたそれらは、いままでにない題材で、でも、どれも「自分だ」と思える作品になった。

テイストはバラバラだけれど、どれもさまざまな理由から世間から外れてしまった存在が主人公だ。

わたしが利用している投稿サイトは、比較的、文芸的な作品を書くひとも多い。しかし、わたしの作品はエンターテインメントからあまりに大きく外れているように思われた。

 

わたしはときに、比喩表現ではなく、泣きながら書いた。

「なんでこんなものを書いてしまうんだろう」

「だれにも読まれないのに」

なにより、物語に登場する人物は誰もが痛みを抱えていて、それがつらくて泣いた。

 

ある朝、もっともいびつな短編を書き上げた。詰め込み過ぎだし、主人公が抱える葛藤は異常だし、0PVだろうと思ってアップした。

それが意外に、読まれた。

と書くと、皆さんは万のPVを想像するかもしれないが、そうではない。数でいえば極少だ。「それで喜べるのは、異常者ではないか」と思われるぐらいの数だ。

それでも、「これはもっと読まれてほしい」「ほんとうによかった」と書いてくれた人がいた。

投げて投げて投げて、暴投かもしれないと思っていたものが、誰かのミットにすっぽりおさまった。

 

うれしかった。

 

生まれてはじめて、「わたしにも書けるものがあるのではないか」と思えた。

上手いとか、売れるとか、そういうんじゃない。そのもっと手前の話。

「わたしだから書けること」があるんじゃないか。わたしには、それを書いて、ひとに届けることができるのではないか。その可能性が、万に一つでもあるのではないか。

 

「仕事以外の文章を書いていること」を、本心から肯定的にとらえられた瞬間でもあった。

「なんで小説を書くんだろう、書いてしまうんだろう」「なんでエッセイみたいな文章を書くんだろう」と、ずっと思っていた。

仕事のテキストだけ書いていればいいのに。それでもじゅうぶん発散できて、楽しいんだから。

ここ二~三年は、自分の書くものが冷静に見えるようになってきて、「つまらなさ」に愕然としていたから、なおさら肯定的にはなれなかった。

 

でも。書いていて、よかったのかもしれない。

わたしには、書けるものがあるのかもしれない。

 

カウンセラーの先生は、一連の流れを聞いて、「巡っていますね」と言った。

「小説に書いている内容が、たとえあなたが抱える問題と直接関係なくても。心のどこかが巡っていれば、必ず違う箇所にも循環があらわれます」

ああそうか、とわたしは思う。

「先」というより、人生には「循環」が必要なんだ。

 

その必要なものをもたらしてくれたのが、「書く」だったことを、心からうれしく思う。

 

というわけで、年初の目標も立てられなかったわたしだが、一年も三分の一が過ぎたところで目標ができた。

 

わたしはわたしの人生を循環させていきたい。

せっかく見つけたこの、「内面と文章をつなぐ回路」を、なんとかもっと太いものにしていきたい。

 

春分の日、ずいぶん早く咲いた桜が散り始めているなか、そう誓う。

沈丁花よ、夜道をゆく者にどうか加護を与えたまえ

月がさえざえとした夜道で、ふと沈丁花の香りをかいだ。

見まわしても、香りの主は見つからない。

甘い香りが、冬の終わりと春のはじまりを告げている。

 

 

季節の移ろいに趣を感じると同時に、その香りはわたしの記憶をかきまぜて、沈殿したものを舞い上がらせる。

 

思春期のころ、生きるのが息苦しくて、いてもたってもいられなくて、夜中に家を出た。

当時暮らしていた古いアパートの扉をそっと開けて、静まり返ってドラマのセットのような住宅街を歩く。

行くあてはないし、夜道は怖い。

日常とは異なる行動をしたからといって、気持ちは癒されるものではない。

泣き腫らした目に、空気が冷たかった。

それでも煌々と照る月は美しく、冬の名残の清冽な空気のなか、星が明るかった。

遠い遠い星の輝きを頼りに歩くなか、ただよってきた甘い香りに顔を上げると、民家の塀から沈丁花が顔を出していた。

ちいさな星形の花々に鼻を寄せる。

日常とは異なる行動は、けっして本質的に心を癒してくれはしない。

それでもその香りの甘さ、清らかさに、わたしの心は凪いだ。

 

そのころのわたしは、たびたび夜、出歩くようになっていた。

もうすこし常識的な時間であれば、コンビニへ。そこで立ち読みして、また重い足取りで家へと帰る。

もっとうんとちいさかったころ。

「さみしいと」「子どもがグレる、夜遊びをする」といった言説の意味が、わたしにはわからなかった。

そのふたつに、どういった関連があるのだろう。

でも、思春期になってはじめてわかった。

家にいたくないのだ。夜になるとさみしさやむなしさが募るのだ。それらが子どもを外へ向かわせるのだ。

同時に、自分の想像力のなさを思い知った。そんな単純なことですら、自身がそうなるまで理解できなかった。

 

わたしが夜道で出会ったのは、せいぜい沈丁花ぐらいのもの。

でも、別のものに出会っていたら――。

いま、ここにこうしていられたかはわからない。

 

それから何十年も経って。わたしはある事件の報道に釘づけになった。

とある地方都市で、花火大会の夜に女の子が殺された。

友達と遊んで、夜道を歩いて帰って、途中までは家にいるお姉さんにメッセージを送って、でも、その女の子は家に帰ってこなかった。

「このあたり、かなり暗いですねえ」

ニュース番組では、レポーターが、夜、女の子がいなくなった現地の道を歩いている。

わたしはその暗さを知っていた。

地方都市の住宅街の、夜道の暗さ。

沈丁花に出会い、コンビニの明りを求め歩いた、あの道の暗さ。

夜道は怖かった。心細かった。でも、歩かざるをえなかった。

 

夜道が危ないなんて、わたしたちはみんな知っている。

無力な子どもであればなおさらだ。

それでも、いろんな理由でわたしたちは夜道を歩く。

ある子どもは家庭に居場所がなくて。ある子どもは年に一回の花火大会が楽しすぎて。

それを誰が咎められるだろう。

 

わたしは運よく生き残り、報道を見ている。

その女の子は殺された。

彼女とわたしをへだてるものは何もない。

 

沈丁花の甘い香りをかぐたび、春待つ心は躍るけれど――。

同時に、願わずにいられない。

夜をゆく子どもたちに、どうか安全が、何者かの加護がありますように。

不届きものの目から逃れられますように。

 

 

今週のお題「あまい」

 

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文中で触れた事件の、ご遺族についての記事。「被害者」「被害者遺族」になったときに何が起こるかの一端が書かれています。とてもつらい。

15歳の娘は命を奪われ「屍」と呼ばれた “娘のために闘う” 父親の思い|NHK事件記者取材note

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画像は写真ACよりお借りしました。

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なんでも書いてみるものですね

仕事が忙しくて、なんだか記憶が飛んでおりました。ありがたいことです。

 

そんな多忙期間、神経がカリカリと立ちまして。

カリカリしたままに、いままでと違ったジャンルの小説を衝動的に書いて、はじめての場所に投稿してみました。

投稿期間が長くなってくるとやはり右肩上がりとはいきませんが、(わたしにしては)かなり読まれました。

まあ「誰でも書けばPVがすごくなる」といわれるジャンルで、「そういうところで読まれたからって自信持つなよ」と言われる場所なんですが(と書くと創作やってる人はだいたい想像がつくかもしれません)、新しい発見がいろいろありました。

 

ネットで書いていて、自分の文章にあんなPVがついたのをはじめて見ました。

数が大きいと、「これ書いたらPV減る」「PV増える」みたいなものがすっごくわかりやすい瞬間がありました。

ただ、PVだけがやりがいになるかというとそうでもなく。

 

どの作品でも、自分の思い描くものを形にする楽しさは変わらないし、「自分以上に物語を汲み取ってくれたのでは」と思える感想が最大のモチベーションで、感動です。

万のPVよりも、たったひとつの感想のほうが破壊力を持つ。きれいごとではなく、そう感じられたことは収穫でした。たぶん比較するものじゃないんですね。

何より。心が震えるほどうれしい感想をもらうことも、PVを獲得するおもしろさも、書いていたら両方体験できる可能性がある。

書いて、それをどこかに投げるって、おもしろいことです。

そういう経験を通して、このブログも含め、以前より(さらに?)PVが気にならなくなりました。

 

そして何より、「勢いにまかせ、かなりシンプルな物語を書いた」ことで、創作の「出力」が上がりました。

わたしは「カクヨム」を利用しており、そこでは現在、サイト創立記念のキャンペーンをやっているんですね。そのなかで、3~4日に一回お題が出され、それに沿った作品を書く即興企画も開催されています。

いままでは短期間に短編をアップすることは難しく、そういった企画は参加できたためしがなかったのですが、今回は何作か短編を書いてアップすることができています。

 

「出力が上がった」をもっと詳しく説明すると、いままでと違うジャンルを書いたことで、「自分が何を書きたい人間なのか」にすこしだけ触れられた気がするんです。

「一見、中身ゼロに見える、あることに特化したエンタメ小説を書いたとき、それでも入れてしまうペーソスや“痛み”がある」と気づいたのでした。

そうしたら、即興の「お題」を見たときに、自分なりに書きたいアングルが浮かぶようになりました。

 

創作って「誰かに読んでもらう」ことが前提になるので、「自分のためにやる」というとすこしちがうなと、わたしは思っています。

それでも、創作をしていると、自分のことがわかってくる瞬間がある。それはわたしにとっては否定しがたい事実です。

自分のことがわかっていないと開かない扉があって、その扉にふれない限り書けないものがある。

 

何か書きたいけど、何が書けるのかわからない、自信がない、自分を外へ開示するやり方がわからない……。だから、どうしていいかわからない。

そんな状態が続いていましたし、いまも続いているのですが、結局、書いてみるしかないんだな、と。

 

書くことはいろいろ発見があって、やっぱりおもしろい。

そんなことを感じている今日この頃です。

 

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「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない

世界には、「お話っぽいものを妄想する人」と、「妄想しない人」がいるらしい。

わたしは前者、「妄想する人」だ。

このブログの読者の方には、前者が多いのではないかと思う。

今日は楽しいはずのその妄想が、脳のリソースを圧迫していたことに気づいたって話。

 

 

F太さんという方が、こんなツイートをしていた。

 

「世界」というほどたいしたものではないけれど、ずっと妄想はしている。

小学校低学年ぐらいのころにはしていたんじゃないかと思う。

「世界」みたいなものは、複数ある。

きっかけは覚えていないし、それぞれがどこから来たのかよくわからない。

どの妄想も、キャラクターがいて、繰り返し想像するシチュエーションがいくつかある。

好きな味の飴玉を取り出しては、何回もしゃぶる、みたいな。

アニメや漫画、小説で見た好みのシチュエーションを、自分の中で再構築して、前後のつながりなく繰り返し再生している感じなのかな……と思っている。

実際そうなのかはわからないけれど、説明としてはそれが筋が通っている。

 

「世界」は、わたしが小説を書くより早く存在していた……と思う。

 

ここで歯切れが悪くなるのは、自分の中では妄想は2ラインにはっきりわかれていたからだ。

 

それは、「書く前提じゃない遊び場妄想」と、「書くことを前提とした妄想」。

「遊び場妄想」は長期的に自分の中にあって、基本は同じシーンの繰り返し。ごくまれに新しい展開が生まれる。

「書くことを前提にした妄想」は、単発タイプだ。音楽を聞いた、いまひらめいた、課題が出たので考えていたらポッと出た。ラノベっぽいものもあれば、文学の香りがする日常系もある。

 

小説を書いた一番古い記憶は小学四年生ぐらい。それはもちろん後者をもとにしていた。

「書くことを前提にした妄想」をするようになったのと、「書く」がどっちが早かった? と聞かれたら、ちょっとよくわからない。

「書くことを前提としない遊び場妄想」は、間違えなく「書く」より先だ。

 

「書くことを前提としない遊び場妄想」が、なぜ書くことを前提にしなかったのか、それもよくわからない。

「これは書かないやつ」と、いつの間にかカテゴライズしていた。

こっ恥ずかしさもあったのかもしれないが、もっと大きなストッパーがあったように思う。

 

ところが、ここ三年、その「遊び場妄想」をもとにした物語を書くようになった。

コロナ禍にあって仕事量が減ったとき、いくつか新たな妄想が浮かび、わたしはそれを書こうとしていた。

うんうん考えるが、物語はいっこうに進まない。

そのとき、突然、「この登場人物たちは、『遊び場妄想』に出てくる人たちに似ていないか?」と気がついた。

「遊び場妄想」はすごくシンプルで、枝葉がない。

たとえるなら、「かっこいい人物が屋根にのぼって悪者をやっつけるのだ、ヤー! どうやってか知らんがかっこいい人物はかっこよく跳ぶ! 背景には満月、ドーン!」ぐらいのざっくり感だ。

 

それが、「書く前提の妄想」と合流したとき、急速に血肉をつけた。

この人たちには、こういうことがあったのではないか。こういうことをするのではないか。長年妄想していたシーンとシーンの間に、はじめてつながりが生まれた。

そしてそして、こうなっていくのではないか……と、妄想の「先」が生まれたのもはじめてだった。

原始のスープのようだった遊び場は消え、輪郭のある世界になった。

 

そうしたら、不思議とすごくラクになった。

 

そのときはじめて気がついた。

「妄想は楽しい」と思っていたけれど、出口のない空想を自分の中に抱えているのは、苦しかった。

「繰り返し同じシーンを楽しんでいる」と思っていたけれど、実はどこかに突破口を探していたのではないか。

出口のない妄想は、ずっとずっと、頭のどこかを常に圧迫していた。

外に出すことではじめて、想像力が羽ばたくこともある。

空想が先に進むのは、なんて楽しいことなんだろう。

 

あいかわらず妄想はするけれど、いまのわたしには「遊び場」はもうない。

「これは書いちゃダメ」「これは書く」と区別をつけなくなったし、思いついたらすぐにアウトプットするようになったからだ。

しいていえば、今はメモをするEvernoteや、作品を投稿するWebサイトが「遊び場」になっている。

とはいえ、日常的にやっていることといえば、思いついたらすぐにそのシーンをメモるだけ。上手く書けないことがほとんどだ。

それでも、「とにかく出す」ようになってから、妄想は「閉じられた、行き場のない遊び場」にはならなくなった。

どんどん開いて広げていくことが可能な、「拡張式箱庭」に変貌した。

同時に、いままでだったら「書く前提の妄想」にカテゴライズしていただろうな、というものも、腐らせなくなった。

「書く前提」とはいえ、いままでは頭の中に放置しっぱなしなことも多かったのだ。

 

人生で、いま、頭の中がいちばんクリアになっている。

「わたしの中の妄想を、わたしは物語として駆動していける」という(根拠なき)自信がある。

上手く書けるかどうかは別だ。人におもしろいと思ってもらえるかも別だ。

アウトプットしたからこその苦しみ、悩みもある。

それでも、書いたほうが楽しい。書いたほうが広がる。

 

これはごく個人的な話だ。

あんたの頭の中の妄想が何ラインになっていようが知ったこっちゃねえ、と思われることもあるだろう。

でも、人の頭の中のことってよくわからない。

わたしは人類がみな、物語があってキャラクターがいるタイプの妄想をすると思っていたけど、そうじゃないケースもあるみたい。

だから、だれかのごく個人的な話にだれかが共鳴することもあるはずだ。

それが自由に書けて、誰でも見ることができるインターネットの良さだ。

そう思って、いま、わたしはこのエントリーを書いた。

「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない。

「書いていい妄想だけを書かなきゃいけない」なんて、ない。

想像だけしているよりも、たとえ不完全でも作ってみるほうが楽しいこともある。

何かを作ってみることで、人生が進んでいくこともあるのだ。

 

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写真は写真ACよりお借りしました。

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