平凡

平凡

Web小説投稿サイトは一種のSNSではあるけれど……

Web小説投稿サイトを見ていると、定期的に「読まれない!」という記事を見かけます。

 

この間は投稿サイトのひとつ「カクヨム」で、「作品があまりにも読まれないことに絶望し、お金を払って感想を書いてもらう『感想屋』に依頼し、ハマった」という記事が人気を博していました。

筆者は有料で感想をもらうことにハマり、1回何百円が塵も積もって合計金額5万円を超えたところで目が覚めた……のですが、そのきっかけは、ほかの書き手から感想をもらったことだと言います。

その感想はキャラクターの深い心理を読み解いてくれたもので、それはどの感想屋も見逃していたポイントだったとか。

「あ、感想をもらうってこういうことなんだ」と開眼し、有料の感想屋に頼むことはやめたという話でした。

けっして感想屋に恨み節を吐かない筆者の姿勢もあいまって、さわやかなよい話にまとまっていました。

 

そういった読まれない系の嘆きへの定番の反応として、「読まれたかったら、(ユーザーが企画できる)自主企画に参加したり、『いいね』的なものや『評価』を入れたり、ある程度のつながりは必要。投稿サイトは一種のSNSなんだから」があります。

 

基本的には、一利用者であるわたしも「そうだなー」と思うわけですが、ときとして「ちょっと待って」と言いたくなるときもあって……。

 

それは同じようなコメントでも、「純粋に読まれるなんてどだい無理だから、つながり、つながりですよ」と、皮肉めいた響きを帯びているとき。

そういった皮肉めいたニュアンスには、「宣伝やつながりを求めず、純粋に読まれるのが本来」「つながりを持つことは簡単である」という、ふたつの前提があるように思います。

 

それに対し、なぜ「ちょっと待って」と思うか。

わたしはWeb小説投稿サイトでほかの書き手とつながりを持つって、あんまり簡単じゃないと思っているからです。

 

まず、他人の作品、それもできれば自分の作風に近いものに「いいね」や評価を入れる。

たしかに自分の作品を読んでもらうきっかけとしては、有効ではあります。

でもこれね、ただ1、2話読んでテキトーに反応するだけじゃ、つながりには発展しません。

自作に反応を返してもらえても1、2話です。そこで終わってしまいます。

じゃあ、どんなときに「関係」といえるものが発生するか。

自分が「本気で好き!」と思える作品を読んで、応援して、ときには失礼ではないコメントを残して、なおかつ相手がこちらの作品も好きだと思ってくれたとき――じゃないでしょうか。

そこでやっと、「お互いが応援したいと思える作家さん」という「つながり」に発展するように思います。

お互いの作風が合わなくても、「初期から自分の作品をめちゃくちゃ熱心に応援してくれた」「一生懸命書いているのはわかる」「悪戦苦闘しているけど、創作は応援したい」「この人に筆を折ってほしくない」みたいな思いがあれば、「つながり」に発展することもあるでしょう。

当然、自分の作風がお相手の口に合わなければ、一方通行になります*1

 

ようするに、「本気の好き」がボールの投げ返し発生の最低条件だし、キャッチボール状態を継続するには、「作品」「創作姿勢」への共鳴がいる。

ちょっと「いいね」や「評価」を入れれば、なれ合って読み合いが発生する簡単な世界ではない。

それがわたしの実感です。

いや、もっと人づきあいがうまかったり、うまい書き手は違うのかもしれませんが……。

 

当然、つながりがあっても、ぜんぶの作品を応援してくれるとはかぎりません。

「好き」「よくできている」と思ってくれた作品にのみ、反応があることがほとんど。

ほかの書き手さん同士のつながりを見ていても、そんな印象を受けます。

 

書店でプロの作家さんの本を選び、手に取るときとは違うけれど、「純粋に読まれる」にそれなりに近しいものじゃないかと思うんです。

すくなくとも「簡単な、インスタントなつながり」「なれ合い」とは言えないんじゃないか。

 

そうやってつながっても、多くの書き手は求められない限り、「ここをこうしたら」とは言いません。

基本、コメントするのはいいと思った点について。

それがなれ合いに映ることもあるのかもしれません。

そのかわり、いいとは思わない点を無理にほめることはありません。

ブラッシュアップは常に“自力本願”です。

 

内容と共感でつながる。

それはブログでもTwitterでもInstagramでも小説投稿サイトでも同様です。

が、なかでも小説投稿サイトは、「つながる」ハードルが高いと感じます。

だからこそ、「読まれない」悩みが頻出するわけですが……。

 

冒頭でふれたエッセイの筆者は、エッセイをきっかけとして、「読まれない」と嘆いていた作品のアクセスや反応が増えたようでした。

理想的な連鎖です。

そうなったのは、エッセイのキャッチ―なタイトルと題材選び、良質の内容、そこから伝わる人柄、そして読まれるべき小説が「用意されていた」から。

結局は、作品ありきなのです。

 

ここまで、「自分から反応して読んでもらう」ことを中心に書きましたが、小説投稿サイトでは、ほかの書き手や読み専の人に見つけてもらえる、そういう奇跡もあります。

そういった奇跡を呼び込むためには、キャッチフレーズやタイトルで端的に小説の魅力を伝えたり、冒頭1話をできるだけビビッドにしたり、初期は更新頻度を増やしたり、といった工夫が必要です。

 

小説投稿サイトは一種のSNSであることは間違えがない。

ただし、作品ありきで、つながるハードルはそれなりに高い。

そんなふうにわたしは思っています。

*1:書き手の中には、反応を返さないポリシーの人もけっこういます

台風少なき夏がゆく。8月まとめ

夜風涼しく、月光さやけき、虫の音がひびく夏の終わり――。

ロマンチックですが、この年になっても「しゅ、宿題が終わらない……!」と焦りを感じます。

子どもの時代の悪行は一生たたります。くわばら、くわばら。

 

 

8月が終わりました。

 

8月初旬は、新型コロナウイルス感染症のバリバリ有症期間からの回復期でした。

コロナのことは過去記事に書きました。

新型コロナ療養記、我が家の場合 - 平凡

食料さえなんとかなり、家の中では自由に過ごすことができれば、外出に制限がつくことはまったく苦になりませんでした。

わたし、こんなに出不精なんだ……とショックでした。

刺激があまりになさすぎるといいものを書けないので、意図的に外出機会を増やそうと思います。

 

コロナワクチンを3回打ち、さらに罹患したのだから、いまがいちばん抗体値が高いんじゃない!? というわけで、夫婦で快気祝いにファミレスでパフェを食べました。

パフェを食べたのは、おそらく3年以上ぶり。

いいものですね、パフェ……。とてもうれしかったです。

うちは外食をすごく警戒していますが、これが正しいとは思っていなくて……。

引きこもろうと思えば引きこもれる生活を送っていると、無駄に警戒「できてしまう」んですよね。

東京のコロナ感染者数がかなり多い時期だったので、人手が足りないのか、パフェ提供まで40分ぐらい待ったことも印象的でした。

 

コロナ罹患直前に配信で前編を見た劇場版『輪るピングドラム』(劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』)。

自宅待機期間中に上映が終わっていたらどうしようかと思いましたが、後編を劇場で見られてとてもうれしかったです。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』があまりにも良くて思考停止しているので、支離滅裂に書く - 平凡

 

 

映画といえば、『ONE PIECE FILM RED』を見ました。

噂には聞いていましたが、いろんな意味ですごい作品でした。

『ワンピース』で変化球的な作品といえば、細田守監督による『 オマツリ男爵と秘密の島』の名前があがりますが、そんなもんじゃありませんでした。

冒頭から隠し事をしないし、ウタちゃんの歌の歌詞にはバンッバン真実が歌われているし。

見た後は、うにとチョコレートとデスソースと炭酸飲料と高級ステーキを口にぶちこまれた気持ちになりましたが、

実はそれがすごい塩梅で計算されており、『RED』という唯一無二の味になっている……てな作品でした。

「●●●が●●で●●●になる話」なので、この作品単品で好きになる人もいると思います。(ネタバレOKな人は文末で確認してください。ただし、はてなスターを付けたりブックマーク付けたりするには下部へのスクロールが必要なので、ネタバレNGの方はお気をつけください)

ぜひ劇場で見てほしい作品です。

そして何より、冒頭の民の訴えから、

「わたしは何を見せられているの……。『ワンピース』の映画を見に来たんだけど。いや、ナミちゃんの出自とかこんな感じだけどさあ」と戸惑うことが多かったのに、見終わると「『ワンピース』、読み直してみようかな」となっている。

ちゃんと作品に回帰させるんです(わたしは途中離脱組です)。

実際、単行本も売れているらしいです。

すごい、すごすぎる。

作品がはじまって20年以上経ってこんな映画出してくる、そしてこんな内容を内包できる。

作品の底力を感じました。

また、Adoさんの表現力には舌を巻きました。怒り、やるせなさ、哀しさ、そういったものが歌を通じてビシビシ伝わってくるんです。

中田ヤスタカさんや秦基博さん、Mrs. GREEN APPLE、Vaundyさんなどなど、当代一流のポップアーティストがシビアなウタの心情をストレートに楽曲で表現しているところにも製作陣の本気を感じました。

 

それと、Web小説投稿サイトへの投稿を再開しました。

創作の話をあれこれここで書くのはどーかと思う。が、整理するために書く - 平凡

ひとつの作品を長くつづけると、感じることもいろいろ……。

たぶんまた、ブログでいろいろ吐露してしまうと思います。

てか、いまひとつ、下書きしている記事があるのです。

楽しいことにはまちがえないです。

それにしても、「書く」とか「描く」とか「創る」とかアウトプット系の行動って、ついつい意味を問い、求めてしまうのはなんででしょうね。

ブログについて「なぜ書くのか」を問い直す記事はよく見かけますし、わたし自身も書いています(この文章自体もそうです)。

たとえばスキューバダイビングや登山をやっていて、「こういう理由でやっている」「別にプロになりたいわけじゃない」「できればお金になったらいいと思っている」とか言うことってあんまりないと思うんですよね。

 

クレジットカードの不正利用未遂がありました。現在は、すでに新しいクレジットカードが届いています。

クレジットカード不正利用されかけた話 - 平凡

 

それと、5年ぐらい前に序盤だけブログにアップして、ずーっとほったらかしにしていた「海外旅行で病院送りになった」話。

やっとまとめてアップできて、肩の荷が下りた気分です。

当時、「続きはないですか?」とコメントくださった方、見てないだろうなあ……。

申し訳ありませんでした。

海外旅行で病院送りになった話1~はじまり~ - 平凡

 

8月中旬、久しぶりの方からお仕事いただけてうれしかったです。


8月下旬には、近所のコンビニが「新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、2日間お休みします」と一時閉店。

おそらくスタッフさんに感染者&濃厚接触者多数で回らなくなったのでしょう。

これも2022年夏の風景だなと思いました。

同時期、仕事でご一緒した方が、次の日コロナと診断された、てなこともありました。

濃厚接触者にはあたらないけど、といちおう連絡をいただきました。

両方、コロナ流行の猛威を感じたできごとでした。

 

8月は……正直、「外出しちゃいけない=外出しなくてもいいお墨付きがもらえた」コロナにより、意図的に作っていたちょっとした外出習慣が吹き飛んだひと月でした。

というか、吹き飛んではじめて、「意図的に作っていたんだな」と気づきました。

昼間は命の危機を感じる暑さだったし……。

 

今年もあと3か月。

唐突に、なんとなく年内にできたらいいなということを書いておきます。

スマホ機種変して容量を増やし、写真を撮り、ブログのキャッチ画像に自作を増やす(いま、スマホの容量がほぼ満杯で写真が撮れません)

・旅行

・犬とか……お迎え……できないかな……

 

9月は忙しくなりそうなのですが、自分を整えてがんばっていきたいと思います!

 

※この下に『ワンピース』のネタバレがあるので、回避したい方はお気をつけください。

画像は《涼を味わう日本のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20220812224post-42148.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレで伏せた部分は、「女の子が彼岸で禍ツ神になる話」です。正確には彼岸じゃないけど。

クレジットカード不正利用されかけた話

この記事の内容は、タイトル通り。

注意喚起をしたかったので書きました。

 

 

経緯

使っているクレジットカード会社から、「至急開けて」という封筒が届く。

「不正利用の可能性がある履歴がある。一覧表を添付するので、自分で使ったかどうか〇×をつけて教えてほしい」

リストは身に覚えがない使用履歴ばかり。わたしの場合、あるホスティングまたはサーバー会社に対する支払いが10件ほど。各1000円~9000円。

ひとつだけ、そのあおりを食って実際にわたしが契約しているサブスクの支払いが止められていた。

あわててクレジットカードの利用履歴を見ると、今回のリストにあるものは支払いが差し止められているらしく、ほかにあやしい支払いはなし。

リストを返送。現在、クレジットカード差し止め&新しいクレジットカードが送られてくるのを待っている。

 

どこで?

不正使用の直近、リアル店舗でクレジットカードを利用したのは映画館のみ。

ネット通販は大手のみ。

ひとつだけ変わったことをしたのは、電気代の支払いをクレカに変えたこと。お客様センターに電話し、SMSに送られてきたURLに番号とセキュリティーコードを入れた。そのサイトにはお客様番号があらかじめ打ち込まれており、その後めでたくクレカ引き落としになったので、偽サイトではない。

不正使用先からも、リアルでのスキミングではなくてクレカ番号とセキュリティコードがどこかネット上で漏れたという感触。

正直、防ぎようがないと感じる。ただ、不正利用はちゃんと気づけば止められる可能性が極めて高いので、こまめに履歴をチェックして、あとは最低限の注意をして気楽に使うしかないのかも。

 

注意喚起したいこと

  • 封筒はすぐ開封 わたしは届いた封筒を放置しがちなタイプ。ブログを読んでいると、けっこうそういう人が多い印象があります。クレジットカード会社から「至急」の封筒が来たら、すぐに開封しましょう。
  • クレカ利用履歴はこまめにチェック! 検索したところ、サーバー会社、ドメイン会社へのクレカ不正使用はけっこうあるようです。詐欺サイトなどに使うのかもしれません。今回、わたしは運よく不正使用前にクレカ会社によりはじかれましたが、もともとサーバー、ドメインなどの契約をしていたり、不正使用者がもっと控えめに利用したりしたら、通っていたかもしれません。ブログをやっている人は、そういった契約をされている方も多いかもしれません。不正使用先は、わたしはNTT系でしたが、ネットの声ではコノハやさくら、お名前.comも見かけました。ちょうどTwitterでは、「定食を定期的に食べる」タイプの不正使用があったと見かけました。クレカの不正使用されても、早めに気づけばお金は戻ってきます。クレカ利用履歴は1か月に1回は確認しましょう。
  • クレカは予備1枚あると安心 今回被害にあったのはメインで使っていたクレカ。ちょうど、すこし前にもう1枚クレカを作ったところでしたが、これがなかったら停止から再発行までノークレカになるところでした。ネット上ではクレカ決済のみのサービスも多く、契約が途切れたら困るものもあります。ミニマムに暮らしたくとも、クレカは2枚ぐらい持っておくといいかも。フリーランスでも、ゴールドカードがいいとかの希望がなければ、クレカ自体は作ることができますよ! わたしはBicカメラSuicaと、三井住友系を持ってます。

ぼやき

  • 今回不正利用にあったのは、メインのクレジットカード。光熱費、各種サブスク、通販の支払いは全部これ。全部登録し直しだよ~。めんどいですが、がんばります。

 

 

  • 返信したものの、いつクレジットカードが停止して、いつ再発行されるかいまひとつわかりません。2週間ほどは待つしかない。

 

それにしても、今年は湿疹とは別に謎の紅斑ができて、皮膚科へ行ったら「なんらかの感染症のあおりだが、他に体調不良ないなら治りかけているので放置を」と言われ、膀胱炎になり、コロナ感染し、クレカ不正使用されと、なかなかのなかなかでごわす。

でも命に別状なく、家族も元気なのはありがたい……!

 

とまあ、こんな感じでした。皆さんもお気をつけください~!

「見て」から書くか、書きながら「見る」か

ブログを書くとき。

ツイートするとき。

インスタにコメントを添えて投稿するとき。

何か「描写」する場合、何を頭に浮かべて、どうやって書いていますか?

単純に説明すると、「そのときのことを思い出して、写真を見て、テキストにしているよ」となるのではないでしょうか。

むむ。当たり前すぎる。

とはいえ、この当たり前の「そのときのことを思い出して」「テキストにする」にも、いろいろあるよね~というお話です。

 

 

こんにちは。平凡と申します。紙媒体中心にライターをしております。

風が涼しい日も、パソコン前にすわるとじっとり湿度を感じるのはなぜ……と思いながら今日もキーボードを打っております。

 

10年ぐらい前。

当時通っていたカウンセリングで、こんなことを言われました。

「平凡さんは、“ビジュアル記憶”ではなく、“雰囲気記憶”が強いタイプなのね」

話の流れとしては、真剣なカウンセリングというよりも雑談寄り。細部のことばはこのとおりではないかもしれません。

 

ようするに、何かを見たとき、「(自分が感じた)雰囲気は覚えているけど、細部のビジュアルはあまり覚えてないタイプ」ということです。

この区分けで行くと、その反対として「細部のビジュアルは覚えているけれど、(主観的な)雰囲気はあまり覚えていないタイプ」があることになります。

果たしてそのような認知のタイプがあるのかないのか?

そんなタイプ分けにエビデンスがあるのかどうかはわかりません。

ただ、わたしにとってはこれは非常に「そのとおりだな~」と思った内容で、かつ、その後の人生、とくに仕事で役に立った内容でした。

 

たとえば、あるカフェに取材で行ったとき、「あ~めっちゃ居心地いい~」と思ったとします。居心地いいにもいろいろあるわけで、これはどういう種類なんだろう、と考えます。

「これはあれだな、たとえるならお気に入りの毛布に包まれているような! あったか~! ほおずりしたい、ずっとくるまっていたい!」

と思ったら、「お気に入りの毛布! あったかくるまり!」とかメモをしておきます。

次に「なぜそう感じたか」を探します。

それは店員さんの接客かもしれないし、おそろいで身に着けているオリジナルエプロンがステッチを強調した手作り風だからかもしれない。

アンティークというより、使い込まれ感が際立つ古道具系のテーブルがそう思わせるのかもしれない。

テーブルに飾られたちいさな花瓶がやちむんであることが、挿されているのがなずなであることが、そんな安心感を醸しだすのかもしれない。

 

というように。

カウンセラーに「雰囲気記憶が強いタイプ」と言われてから、雰囲気を味わい、直感的に感じたことをメモし、その理由を探すという順序を意識するようになりました。

 

仕事の原稿は客観に軸を置いて書かなければならないので、だいたい「雰囲気を構成するもの」と雰囲気を併記していくことになります。

 

たとえば……。

(例)

「常連さんからは、実家に帰ってきたような安心感があるといわれるんです」と笑うのは、「カフェお茶の間」の店主・鈴木花子さん。あえて昭和の建築を残したという木製の玄関扉を開けると、古道具の机が並び(以下略、インテリアの描写続く)。ぬくもりのある落ち着いた雰囲気のなか、おばんざいが楽しめる。

 

昭和古民家おばんざいカフェの描写になってしまいましたが、お店の方のコメントを拾えたらこんな順番で書きます。

「毛布みたい!」といった癖が強い表現を入れると、読み手をとまどわせてしまうので、そこは調整して、ここではお店の方のことばに。

わたしがやっているような仕事では陳腐な言い回しは忌避されないので、雰囲気を構成するものについて書いた後、「ぬくもりのある落ち着いた雰囲気」とまとめます。

 

取材中はいろいろと聞くことがあってバタバタするので、雰囲気を構成するものについては、家に帰ってからスマートフォンで自分用に撮影した写真を見たり、カメラマンさんが撮影した画像をチェックしたりして考えることもあります。

たぶんこれ、ビジュアル記憶が強い人なら不要な過程なんじゃないでしょうか。

 

ひさしぶりに“雰囲気記憶”と“ビジュアル記憶”のことを思い出したのは、小説を書いている方のブログをいくつか読んだからでした。

複数のブログで、「見えているシーンはあるけど、それを描写するのが難しい」といった内容が出てきたんですね。

「そうか。みんなけっこう理想のシーンが見えてるんだな……」と思ったのです。

もちろん自分自身、小説を書いているからには、「書きたいシーン」「見えている(浮かんだ)もの」はあるていどあります。

が、わたしの場合、書けば書くほど感じるのは、「わたしの視界、ぼやけすぎでは⁉」ってことなんです。

「こう、ぐーっとぐぉーっと盛り上がって、人生! みたいな。ふたりは手を取り合う、あと花が咲いている」みたいな感じのことを、いつも文章にしています。

そのためには、「そうするためには何が配置されていたらいいか?」とか、「物理的な描写が少なすぎるよね? 背景には何があって、登場人物はどんな姿してるの、いったい?」とか、「目をこらす」過程が必要です。

この「そもそも見えていないのではないか」「書きたい雰囲気を構成するために、逆算して具体的なモノを配置していく」発想は、ライター仕事をやっていたから気づいたことかもしれません。

 

ついでにいうと、わたし、夜に見る夢もぼんやりしています。

夢に出てきた友人の髪形を「超かっこいい! パンキッシュ!」と思ったことを覚えているのですが、起きてみるとどんな髪形か何一つ思い出せない。

「記憶していないのではなく、そもそも具体的な形がなかったのでは?」疑惑がぬぐえません。

当然のことながら、わたしはひとの顔を覚えるのが苦手です。

言語化できない雰囲気、印象」「(どこに住んでいるかなど)文字化できて雰囲気と結びつきやすい周辺情報」は比較的思い出せるのですが、そういったふわわんとした情報は、“二度目まして”での識別にはあまり役に立ちません。

 

書いていて、「わたしは単にビジュアル記憶が弱いだけなのでは……」という気もしないでもないですが、そこは目をつぶって……いや、なるべく目をかっぴろげることでカバーしていこうと思います!

 

この話、とくにオチはありません。

「書く」を語るときって、どうしても語彙力とか表現力の話になってしまいます。

もちろんそれも大切です。

ただ、それ以前にどんな文章にも「書くための材料収集」過程があります。

それは写真をアップするついでにフリック入力で書いた87文字のツイートであっても、雰囲気重視のお店の紹介(600字)であっても、自分の頭の中でイメージを作り上げて出力した1万字の小説であっても。

その材料収集の過程はあまりにも人それぞれで、言語化される機会が少ないもの。

そして、材料収集で大きなウェイトを占めるのが、視覚情報。

これもまた、「その人がどう世界を見ているか」は、当人以外にわからない世界であり、言語化されることが少ないように思います。

 

そこで、「視界ぼんやりさん」であるところのわたしのケースを書いてみたというわけです。

できれば皆さんが何をどう見て、どう出力しているか。

多くのケースを知りたいな、などと願いを込めつつ記事を締めくくります。

 

画像は《列をなす光(丸ボケ)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20191221343post-24671.html

わたしのビジュアル記憶はたぶんこんな感じなのではないでしょうか……。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』があまりにも良くて思考停止しているので、支離滅裂に書く

あまりに良かった。

あまりに良かったので、まとまった感想が書けそうにない。

それが、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』後編を見ての素直な感想だ。

 

 

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』とは?

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』は、2011年にオンエアされたTVアニメ『輪るピングドラム』(全24話)の総集編だ。

輪るピングドラム』の監督は幾原邦彦氏。オンエア当時は、『少女革命ウテナ』(1997年)で知られる幾原氏が10年以上ぶりにオリジナルTVアニメを監督するということで話題となったと記憶している。

 

劇場版は同作の10周年を記念したもので、前編が4月に公開。後編が7月から公開中だ。

 

TVシリーズ公式サイト輪るピングドラム

 

劇場版公式サイト

penguindrum-movie.jp

 

ただの総集編じゃないの?

えっ、TVシリーズの総集編なのに新たに感動するとかあるの? と思われるかもしれないので解説をすると、総集編というからにはTV版の内容を再編集したもので、結末も変わらない。

ただ、前編冒頭からちょっとしたしかけがあり、「ある人物がある目的をもって、物語をふたたび紐解いていく」構造になっている。

この仕掛けが効果的で、「自分が何をなしえたのか」をその人物自身が再確認することで観客に新たな救いをもたらし、しかも2022年にふさわしいメッセージまでを発している。

 

そもそも『輪るピングドラム』とは

輪るピングドラム』筋書きのベースは、双子の兄弟、高倉冠馬と晶馬が、難病の妹・陽毬を救おうとするというもの。

余命わずかな妹・陽毬が、ふしぎなペンギン帽をかぶることで命をつなぐ。そのペンギン帽は意思を持っており、「妹の命をながらえたければ、ピングドラムを手に入れろ」と命じたことから、兄弟は四苦八苦右往左往することとなる。第一ピングドラムとは何なのか? そんな状況で、兄弟はある女子高生と知り合う。彼女は兄弟の担任教師のストーキングをしており……。

この女子高生・苹果(りんご)の過激な性格もあり、前半は終始コミカルに進む。しかし、物語が進むにつれ、兄弟の抱える秘密、苹果の行動の底にある切実さ、苹果の思い人である教師・多蕗とその婚約者・ゆりの過去が明かされ、物語は重層的なものになっていく。

世界にある呪い、家族という呪い、社会という檻、いらない子どもと見つけてもらえる子ども、加害者と被害者の邂逅、罪と罰。それらに対する救いや解呪。

そしてキャラクターたちをつなぐ「ピングドラム」とは……。

 

TVシリーズはそれが24話で語られるため、さまざまな読み解き方ができる作品になっている。

わたしが直近で通して見たときは、「理不尽な目に遭ってしまった人たちが、どうその運命に対処するか」の話のように見えた*1

 

劇場版はそこをすっきり前後編4時間にまとめているので、「愛の話」という基本の筋が見えやすくなっているように思う。

「ああ、いろいろあるけど、『ピングドラム』って愛の話だよね」と。

ピングドラム』で描かれる「愛の物語」は、「ひとがひとに分け与えるもの」「ひとの間を巡るもの」だ。全編を通してその巡り方を描いているといっていい。

 

胸の震えが止まらない……

とかなんとかつらつらと書いてしまったが、とにかく劇場で感じた情動が、数日経っても胸の内を去らない。

何かを書かないと胸いっぱいであふれてしまいそうだった。

誰もがそうであるように、理不尽にまみれた人生を生きるキャラクターたちが、ピングドラムを回しあう*2

幾原監督による独特の映像・演出で、時に象徴的に描かれるそれは、理屈ではなく心をつかむ。

その胸の震えが、いまもふとした瞬間にわたしを作品世界へ呼び戻す。

上映があるうちに、もう一度見る――いや体験したい。あの情動の波におぼれたいのか、情動を超えて理性で作品について考えたいのかわからない。

ネタバレになるので感想を書きにくいのもあるけれど、そもそもこの気持ちを解き明かしたいのかどうかも、わたしにはわからない。

とにもかくにも、もう一度。

劇場の大スクリーンであの世界を体感したいのだ。

 

というわけで、今週のお題、この夏に見たい作品は、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』後編だ。

 

蛇足だが……。

輪るピングドラム』では、村上春樹氏の『かえるくん、東京を救う』を印象的に引用している。また、地下鉄サリン事件を扱っている点でも、村上氏の仕事に通じるものがあると思う(というか確実に意識している)。もし未見でそのあたりの接続にご興味ある方は、ぜひ。

わたしは好きすぎて、「劇場版だけ見てもわかる?」と問われると判断に困るが、できればTVシリーズを見たほうがわかりやすいと思う。

 

*1:ちなみにわたしは、『鬼滅の刃』もメインではないにしても、同種のテーマが含まれていると思う。鬼に家族を殺された者がどうするか。貧困のなかで鬼になるもの、ならないもの

*2:タイトル『RE:cycle of the PENGUINDRUM』はとても直接的だ

創作の話をあれこれここで書くのはどーかと思う。が、整理するために書く

フィクションの主人公には、試練が降りかかる。

バトルやスポーツものの長編連載になれば、そりゃもう何度も何度も。

ライバルとの対決に、イップスなどのケガ、仲間とのつらい決別……とかなんとか。

 

しかし、どうして我々はそれにワクワクしてしまうんだろう。

もしワクワクできず、「試練、つらすぎ」と投げ出してしまう作品があるとしたら、何が違うんだろう。

 

ということを最近、ずっと考えている。

なぜなら! 書いている小説で! この後! 最高につらい展開を考えているから*1

 

ちょっと前は、主人公が追い込まれて自暴自棄になる展開に悩んでいた。

当初考えていた主人公が取る行動が、あまりにもひどかったからだ。

「主人公はどこまで自暴自棄になっても許されるんだろう」と考えながら、フィクションを読み直したり考えたりした。

ほら、「リゼロ」のスバル君とか……。

 

短編か中編なら、自暴自棄におちいってかなり悪質なことをしても、それを乗り越えること自体がメインテーマとなりえる。

しかし、長編の途中であまりにひどいことをすると、その後、主人公は主人公でいられなくなる。

ようするに、応援してもらったり、このキャラクターの先を見たいと思ってもらえなくなるだろう。その後、運よく読んでもらえたとしても、どんなにいいことをしても、「あんな悪行を働く奴でしょ」と見られてしまう。

わたしはまだ物語をつづけたかったので、「主人公が自暴自棄になって何をするか」は、当初の想定から変更した。

 

あれから物語を読むとき、「主人公の条件とは何か」「何が主人公を主人公たらしめるのか」を考えるようになった。

ふだん読んでいるのは商業流通している作品や、世間で評判になっている作品だ。そういったフィクションは、世に出る時点で最低限のクオリティコントロールがなされている。

なので、「主人公が主人公たる存在ではない作品」に接することはほぼない。

しかし、自分で書くとわかる。

主人公は物語にとって特別な存在で、主人公でい続けるためには条件がある。拙い書き手は、主人公を主人公から転落させてしまうことだってじゅうぶんありえる。

 

話を試練に戻そう。

たとえば『鬼滅の刃』で、炭治郎にふりかかる試練を手に汗握りながら夢中になって読めるのはなぜか。おそらく、無惨を滅するという絶対的なゴールの提示と、基本は主人公が右肩上がりに強くなる物語の構造だろう。

物語は基本、試練の連続のはずだ。

ラブストーリーだと、ふたりの気持ちが通ったところに、ライバルが現れるといった展開がよくある。

 

長編の、仕切り直しの新展開とはどういうものか。

新鮮な切り口でメインキャラやサブキャラの魅力も見せつつ、「これこれ、こういうところ好き~」と思ってもらい、そこからツルツルと不穏と試練のツイストへ……。

そんなスロープ状のスタートなら読者も入っていきやすいだろうか。

 

とにもかくにも、わたしは書きたいものを書きつつ、現状、Web小説投稿サイトで20万字近くを読んでくれて、さらに10か月更新がなくても反応を返してくれた4人の読者(神なのかもしれない)を離したくないのだ*2

そして、推定40万字の完結まで、主人公の行く末を見届けてほしいのだ。

この展開だって、工夫次第では4人の読者はきっとついてきてくれるはずなのだ。

つらくとも……!

チートもスキルも魔法もなくても……!

地獄が顕現しようとも……!

主人公たちの望みがすべて粉砕されて、それでも生きようとする展開に……きっと……!

 

書きたいものをねじ曲げる必要はない。

しかし、読者が最低限ついてきてくれるだろうと思える展開(実際についてきてくれるかどうかは別だ)を考えるのは、わたしにとって必要なことだ。

(数少ないとはいえ)読者がだれひとりついてこない展開は、きっと作者のわたしも楽しめない。

というか、そういった展開は、おそらく何かが唐突すぎる。

その一方で、思いついた筋書きのどこかには、今まで書いてきたすべてに通じるエッセンスが必ずひそんでいるはずだ。

それをあやまたずつかむこと。

つかんで転がすこと。

どんな展開を選んでも、及び腰では書かないこと。

稚拙ないまの技術で、できうるかぎり、いいものを。

 

素人が執筆姿勢や進捗ではなく、展開についての迷いを吐露するのはどうかと思う。

いや、素人であるかどうかは関係ないか。

 

しかし、こうして書いているうち、迷いの霧がすこしだけ晴れたのも事実。

ブラウザを閉じたら、「書きたいこと」「問題点」「訴求したいこと」をあらためて書き出してみよう。

それにしても、この作品を書き始めてから、フィクションをいままでと違う角度から見ることが増えた。

 

そしてそして! もしこれを最後まで読んでくださった方がいらしたら。

「主人公にたび重なる試練が襲いかかるが、それに燃えた長編作品」を教えてくださいませ。

「最大の試練がふりかかる……!」みたいなキャッチがつきそうなやつ……。

ブクマでもコメントでも。お待ちしております!

*1:ちなみに今までの展開は、試練→ちょっと平穏→試練があって主人公、自暴自棄に→危機が迫るが、仲間が増えるというもの。これから書く予定は、ちょっと平穏→超絶厳しい展開→日常を重ね、タイトル回収ハッピーエンドへ

*2:読者登録はもう少し数が多いのですが、反応をくれるアクティブ読者は現在4人なのです

仮想の夏、仮想の思い出

同人誌。なんだか作ったことがあるような気がする。

みんなでワイワイ合宿をして、缶詰になって、原稿を手伝い合って……。

コミケ。なんだか売る側で参加したことがあるような気がする。

自分が作った一冊を求めてくれる人との一期一会を噛みしめて……。

 

しかし、これらはすべて事実ではない。

わたしはコミケに頒布側(同人誌を作る側)*1で参加したことはないし、同人誌を作ったことはない。

第一、ワイワイ合宿をするような仲間がいたためしはない。

書いていてどうかと思うが、それが現実だ。

 

画像は以前、ハワイ旅行中に撮影したもの。ゲームの内容とは関係ありません。



 

ところで、以前にも書いたが、わたしは「Fate/Grand Order」(以下「FGO」)というソーシャルゲーム(ソシャゲ)をかれこれ5年ほどプレイしている。

ソシャゲにはたいてい季節イベントがある。

2018年夏、「FGO」では「サーヴァント・サマー・フェスティバル!」(以下、「サバフェス」)という期間限定イベントがあった。

 

ストーリーをかいつまむと、架空のハワイで同人誌即売会が開かれ、なぜかそこで時間がループしてしまうというもの。理想の同人誌を作り、そのループを抜け出すことが物語の目的となる。

なんでハワイで同人誌即売会!? なぜ理想の同人誌を作るとループから抜け出せる!? と、基本設定からツッコミどころ満載。

さらに、「FGO」は世界の英雄や神様をキャラクター化した「英霊」たちが活躍するゲームだ。なので、同人誌を作るのも自然と英雄や神様となる。

謎い。

謎いのだが、わたしにとってこの「サバフェス」が、「FGO」でいちばん好き、というか「思い出深い」イベントとなっている。

 

ゲーム内で、主人公(人間)や英霊たちはそれぞれサークルを作り、ハワイのホテルに缶詰めとなり、同人誌作成に励む。締め切りを守って優良進行をする英霊あらば、ギリギリ進行なのにゲームの誘惑負けてしまう英霊もあり。

 

主人公と一緒に活動する英霊は毎回、「自分の同人誌に何が足りなかったのか」を考える。そこにはたしかに、創作者の苦悩が見てとれる。

行き詰まるとハワイの海で遊んだり、砂浜を散歩したり。

そこで出会ったほかの英霊に刺激を受けて、また創作意欲に火がつくのだ。

 

わたしはこのストーリーにいたく興奮した。

というのも、サークルを作っての同人誌作りは、わたしの憧れだからだ。

しかもその憧れは、いうなれば「宇宙飛行士になりたい!」「サッカー選手になりたい!」というような、「実現しないことがわかっている寄り」だ。

 

「サークルを作っての同人活動」とは何か。

萌えを共有したりしなかったりする仲間と原稿を手伝い合ったり、あるいはスカイプしながら励まし合ったりして、萌えを詰め込んだ一冊の本を作る。

それを印刷所に入れて形にする。

当日は搬入し、仲間内で売り子を交代でする。

 

なぜこれが憧れに終わるかというと、まずわたしは二次創作ができない。

わたしはどんなに好きな作品でも、原作の展開を、「ほー! そうか!」と受け止めて終わってしまう。

「もっとこのキャラクターの姿が見たーい! 自給自足できたらなあ」と思っても、それを自力で作成することができないのだ*2

萌えが足りないので萌え語りができず、そうすると萌えを分かち合う仲間もできない。

萌えがどうのの前に、何より協調性がないので、共同作業ができない。

 

活動するとしたらオリジナル作品(一次創作)で、単独で、となると思う。それはそれで同人活動の立派なひとつの形だ。

しかし、だからこそわたしは憧れているのだ。

「サークルを作っての」「仲間たちとの」「同人誌作り」に。

 

それを疑似的にかなえてくれたのが、「FGO」のサバフェスだったというわけだ。

ゲームなので自分で何かを作るわけではないのだが、悩みながら一冊の本を作り、それを頒布する……という流れを物語を通じて疑似体験できた。

「疑似体験」だと感じられたのは、ループしていることも大きい。

何度も何度も同じことを繰り返し、そのたびに違う同人誌ができ上がる。

まるで、ひとりの人間が何度も何度もコミケやコミックシティ*3に参加して、そのつど違った本を作るように。

そのうえ、仲間たちとの楽しいカンヅメ! しかも場所は世界のリゾート、ハワイのホテルだ。

 

憧れのきれいな上澄みだけをすすれた、そんな感動があった。

 

ただ、理想の同人誌作成は、ゲーム内とはいえハードルは高かった。

ループを抜け出すにはものすごい量のバトルをこなさねばならなかったのだ。

これもまた「疑似体験感」を高めてくれるすぐれた仕掛けではあったが、その仕掛けのできが良すぎた、というべきか。

実は期間内にイベントをクリアできなかった*4

 

「仮想の思い出」というと、病み病みな印象を与えるが、わたしはこの思い出をそう悪いものだととらえていない。

なぜなら、ゲームとは、一種の体験だからだ。

それがたとえテキスト主体のゲームであっても、ストーリーがほぼ一本道であっても、何かを入力してゲームを進める以上、ただ「読む」よりも体験に近いものになる。

そして、仮想であるから、さまざまな憧れが叶う。

忍者になったり、格闘家になったり、同人作家になったり。

それがゲームのすごさでもあるのだと思う。

 

夏になると、「『サバフェス』楽しかったな~」と思い出す。

お気楽なBGM、それに反して厳しいバトル、繰り返される同人誌執筆。

仮想の中でだけ叶えられた、ひそやかな憧れ。

客観的に見れば「ゲームで憧れが叶った」なんて実にバカバカしいとわかってはいても――。

現実とはレイヤーが違う夏の思い出が、いまもわたしの脳にひっそりと刻まれている。

*1:同人誌即売会において、同人誌は金で取引されているが、「販売」ではなく「頒布」と表現される。「ほしい」という人に金と引き換えに渡しているだけ……だとか、二次創作はグレーゾーンだからとか理由は諸説ある模様

*2:「サバフェス」で作る同人誌はオリジナルだったように記憶しているが、コミックマーケットでは二次創作で参加するサークルが多く、わたしはそれに強い憧れを抱いているのだ

*3:同人誌即売会の名前

*4:翌年復刻したので、そこでやっとクリアができた。