「親なるもの 断崖」という漫画がある。
昭和初期、北海道・室蘭の遊郭に売られた少女の人生を描く作品だ。
幼いころは親に従い、結婚しては夫に従い、老いては子に従い、
女性に安住の地はないという成句「女三界に家なし」があるが、
親に売られた女性たちの身の上のよるべのなさは、言うまでもない。
遊女たちのすさまじい境遇を描く。
この作品はフィクションではあるが、
人権が収奪された女性の境遇とともに、
はしばしに描かれている男性の命の軽さも印象に残っている。
炭鉱で危険な労働に従事し、使い捨てにされる男たちが、
女を買いに、遊郭へやってくる。
多くの女性が、激しく差別されていたころ。
それは、男女ともに命が軽い時代なのだと思った。
大相撲の巡業で、土俵上で挨拶をしていた市長が倒れた。
救急救命に入った女性に対し、
「女性の方は土俵を降りてください」とアナウンスが流れたという。
なんでも、客から「女性が土俵に上がるのはいいのか」と指摘があり、
若い行司があわててアナウンスをしたのだそうだ。
その客や行司が、当時、土俵上で何が起こっているかを把握していたかどうかはわからない。
誰かが倒れている、誰かがそれを助けている、それがわからなかったのかもしれない。
それでも、異常事態が起きていることはわかったろう。
そのとき、気になるのは女性が土俵に上がっていることなのか、
それをアナウンスしてしまうのか。
そこに、衝撃を覚える。*1
その少し前、世間を揺るがせた角界の暴力事件のとき。
印象的だったのは、関係者がことごとく、
「暴力は決して許されることではありません」と前置きをしたうえで、
でも、相撲界には暴力が蔓延しています、撲滅は難しい……と歯切れが悪かったことだ。
対外的にコメントを発する彼らは、今の時代、暴力事件が非常にマズいことを知っている。
同時に、相撲界が「外」とは違う理屈で動いていることも知っているのだろう。
関係者の表情から、わたしはそんなことを思った。
そのあとに判明した事件からも、暴力事件の暗数はかなりあると思われる。
被害者は相撲界を去り、加害者は相撲を続けている。
そんなケースが多い。
また、「救命事件」の関連で、
取り組み中、うつぶせに倒れてしまった力士を、
皆が静観しているという動画が流れてきた。
相撲のルールが何かあるのかもしれないし、
あの試合には、何か事情があったのかもしれない。
が、他の格闘技では、まず見ない光景なので驚いた。
選手がうつぶせに倒れたら、まずスタンバイしていた医者が駆け付けてくる。
暴力事件のこととあわせて、相撲の世界は、
強者男性しか生かす気がない世界なのだと思った。
ここでいう強者とは、もちろん、相撲が強いということではない。
厳しい稽古に耐えることに加えて、理不尽な暴力に耐えられること。
理不尽な暴力により、運悪く致命的なケガを負った者は、弱者なので排除される。
そうなった場合、加害者よりも被害者の弱さに責任があるとされる。
そのうえ、土俵で取り組み中に倒れても、誰も助けてくれないのだとしたら、
彼らの命は軽く扱われすぎではないのか。
女性が差別され、男性の命も大切に扱われない。
そこで、わたしは「親なるもの 断崖」を思い出したのだった。
あの時代を、わたしは伝統として肯定することはできない。
「相撲」という、特殊な仕事に従事しているからといって、
そこで特殊な社会が構成されているからといって、
人権が軽視される世界があっていいのか。
いいはずがないと、わたしは思う。
相撲をめぐるあれこれに、わたしは、「そうなってほしくない世界」を見ている。
運よく生き残ることができた強者男性だけが認められ、
そこからこぼれた男性や、女性、マイノリティが排除される世界。
わたしは相撲に詳しくないし、ファンというわけではない。
相撲に関わることに言及するのは、おこがましいと思う。
でも、そんな世界にはノーと言いたい。
2018年の今、人権意識はわたしの子ども時代より確実に強くなっているし、
個も尊重されている。
「生きやすさ」は年々、少しずつであっても広がっており、
これからもそうなり続けると、わたしは信じている。
変わり続ける世界のなかで、どうか相撲界も変わっていってほしい。
*1:救命以前に、土俵に女性が上がれない、女性市長には土俵下であいさつをさせるといったしきたりにも疑問がある