平凡

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「けものフレンズ」と時代

最初に断っておくが、この文章ではアニメ「けものフレンズ」の結末にふれている。

 

終了からもうすぐ3か月以上たとうとしているが、

2017年冬アニメでは、夫婦そろって「けものフレンズ」を毎週楽しみにしていた。

 

けものフレンズ」の舞台は、美少女化した動物たちが暮らす「ジャパリパーク」。

作中では、美少女化した動物のことを、「フレンズ」と呼ぶ。

物語は、「さばんなちほー」に住むサーバルキャットのフレンズ(サーバルちゃん)が、

謎の少女と出会うところからはじまる。

その少女は、とんがった耳もないし、羽もない。

何の「フレンズ」か皆目わからない……。

かばんを背負っているため、「かばんちゃん」と呼ばれることになった彼女は、

自分がどんなフレンズかを知るために、「としょかん」を目指すことになる。

 

最初は、「また美少女化ものかよー」と思った。

しかも、「けものフレンズ」には、先行するソーシャルゲームが存在する。

わたしの認識だと、ソーシャルゲーム原作で、大ヒットしたアニメはそう多くない。

そして、そのソーシャルゲームはすでにサービス終了しているのだ。

いろんな意味で、あまり注目していなかった。

 わたしの油断した視聴態度は、1話ラストから揺らぐことになる。

サーバルちゃんとかばんちゃんが歩いていくと、

あきらかに、人の手による看板やパンフレットが出てくるのだ。

かばんちゃんは透明な箱に入ったパンフレットを見つけ、蓋を開け、手に取るが、

サーバルちゃんは「なにそれなにそれ、どうやったの?」と驚く。

サーバルちゃんには、パンフレットが、目にすら入っていなかったのだ。

 

ここで、3つのことが示唆される。

 

ひとつめは、「ジャパリパーク」は人に手によって作られた、

サファリパークのような場所である。しかし、遺棄されている可能性が高いこと。

 

ふたつめは、かばんちゃんはおそらく人であろうということ。

 

みっつめは、この作品は、サーバルちゃんをはじめ「フレンズ」を、

たんに「人が動物のコスプレをした」キャラクターではなく、

「動物が美少女化した、動物の特徴を色濃く残す存在」

として描こうとしているということ。

 

ひとつめの、遺棄された施設であるという部分は、

「人間は、世界はどうなっているのか?」 という疑問を呼び起こす。

一見ほのぼのと始まった作品だが、いずれは世界の残酷さが暴かれるのか?

それとも、このまま、平和路線で行くのか?

そういった、今後の展開に関する興味を喚起し、続きを見たくさせる設定である。

 

そして、ふたつめとみっつめ、人としてのかばんちゃんと、

動物としてのフレンズの明確な違いは、作品全体を貫く大きな柱となる。

人であるかばんちゃんは、運動能力も低く、弱い。

しかし、道具や火を扱うことができ、文字も読める。

一方、フレンズはそれぞれが違った身体能力をもっている。

朱鷺のフレンズは飛べるし、

アルパカのフレンズは高山をものともせずのぼることができる。

かばんちゃんの知恵と、それぞれのフレンズの特徴で、

さまざまな難局や困ったことを切り抜けていく。

 

みんなそれぞれ得意なことは異なるけれど、誰もそれを否定しない。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

この、「違う存在が、得意なことで協力しあう」という

基本軸に厚みをもたせているのが、描写の丁寧さだ。

たとえば、かばんちゃんが文字を読んだとき、サーバルちゃんは、

「かばんちゃん、突然何を言い出すの⁉」と驚く。

サーバルちゃんは、文字というものの存在時代を知らない。

だから、かばんちゃんが何をしたのかが理解できないのだ。

これは、非常に丁寧な台詞まわしだと思った。

わたしだったら、「かばんちゃん、文字が読めるの⁉」と言わせてしまいそうだ。

こうした描写の積み重ねで、それぞれの違いを際立てているからこそ、

彼女たちの「共生」「協力」を見たときの喜びが、より強く感じられる。

 

みんなの「違い」を際立てながら、誰もそれを否定しないというのも作品の特徴だ。

顕著なのはサーバルちゃんだ。

身体能力の低さに自信をなくすかばんちゃんに、

「平気、平気、フレンズによって、得意なことは違うから!」

「でも、かばんちゃんは、すっごい頑張り屋だから」と言う。

それは励ますというより、

何かをあるがままを受容し、決して否定しない場合において、

自然に出る言葉、といったほうが正しい。

道中で出会う、違った動物の思考や行動に、

サーバルちゃんは「ええー!」と驚くことはあっても、それを否定しはしない。

 

多種多様なもの同士の、共生と受容の可能性を示しつつも、

常に滅びの気配をまといながら、物語は進んでいく。

11話、つまり、最終回の手前では、「ジャパリパーク」に危機が訪れる。

悲しい終わりになるのかと思いきや、12話では大団円。

彼女たちは協力し、誰ひとり欠けることなく、危機を切り抜ける。

かばんちゃんは新しい土地へと旅立つが、

サーバルちゃんは、それを追いかける。

世界は不穏なままだが、物語はどこまでもやさしく締めくくられた。

わたしは心底ほっとしたし、ネットにも、そういった声があふれていた。

 

その一方で、こんなにもやさしい終結を、

これほどまでに喜んでいる自分に、

少々驚きを禁じえなかった。

 

たとえば、20年前ぐらいだったら。

この終わり方を、「手ぬるい」と評した気がする。

(時代の目安として1タイトルを挙げるとすると、

新世紀エヴァンゲリオン」が大ヒットしたのは21年前のことだ)

 

10年前だったらどうだろう。

やはり、「いいけど、もうちょっとひねりがあっても……」

などとのたまった気がする。

(やひり目安として、乱暴に1タイトルを挙げると、

涼宮ハルヒの憂鬱」のオンエアは、11年前である)

 

もちろん、これは作品がすぐれているからでもある。

いたずらに暗い結末や、落差をつけなくても満足がいくぐらい、

キャラクターの描写やエピソードの積み重ねがあり、

作品に「強さ」があった。

 

ただ、以前の自分だったら、この作品の「強さ」に気づけただろうか。

この「強さ」を、物語に通底する「やさしさ」「受容」を、

今ほどよきものとして、喜び、尊べただろうか。

ことわたしに関していえば、「否」だと思う。

 

自分は思った以上に、疲れている。

深まる対立と格差、非寛容、

そんなものに。

受容の難しさを、日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

けものフレンズ」への感動と表裏一体で、

そのことに気がついたのだった。

違うものを受容し、共に生きる難しさを日々感じているからこそ、

サーバルちゃんやかばんちゃんの行動が心に刺さるのだ。

 

作品と時代は切り離せないが、

かといって、作品を通して時代を語ることは、

あまりにも乱暴だと、わたしは思っている。

ただ、「けものフレンズ」に関していえば、

作品に夢中になっている自分のなかに、

わたしにとっての時代を発見したのだった。

タイトルでは「『けものフレンズ』と時代」と大上段に

ぶってしまったが、ここでの“時代”は、

あくまでわたしが見ている主観的なものであることを断っておく。

 

「『けものフレンズ』よかったなあ」と思うたび、

わたしはわたしの主観がとらえている、社会と自分自身のドロドロに愕然とする。

一方で、だからこそ、この作品があってくれてよかった、とも思える。

サーバルちゃんとかばんちゃんの旅には、

現代を「多様化と断絶の時代」ととらえる者が、

今後どうふるまっていくかについて、

ヒントがたくさん含まれている。

わたしにとって「けものフレンズ」はそんな作品である。