平凡

平凡

三つの顔をもつ男

猫に相対するとき、夫は三つの顔を見せる。

 

たとえば。

土曜日、映画を見て終電近くなる。

そんなとき、商店街を横切る猫の姿。

見慣れないハチワレちゃんである。

我々夫婦は、わああ、とおよそ中年と思えぬ声をあげて、猫を追う。

夫は前にちらっと見た猫だ、この辺がテリトリーなのだと、すっかり興奮している。

短いしっぽをフリフリしながら、

駐輪場の塀の隙間に入っていったのを見て、我々も駐輪場に吸い込まれていく。

夜遅いとあって、駐輪場はガラガラだ。

伸びあがってのぞきこむと、まんまるの瞳がこちらを見ている。

街灯の光も届かぬ場所だが、瞳と、ハチワレの白い部分で、

輪郭がわずかに判別できる。

わああ、わああ、と言っているうちに、

猫は暗闇の奥へ消えていく。

「かわいかったねえ」

はじけるように、夫は目を輝かせる。

これが第一段階。

 

休日、お気に入りの保護猫カフェへ行く。

なんとなく、猫たちと馴染んだところで、夫がキャットタワーに近づく。

くつろぐ丸顔の白猫を、そっとなでる。

耳の間やら喉やらをなでて、猫がいい気分になったところで、

頭にそっと手を乗せて、耳を寝かす。

嫌がらない程度に、すっと手を離し、また、喉などやさしくなでている。

夫はこういった、猫の顔の「まるみ」を強調するのが好きなのだ。

猫をなでているときの夫は、ふふふと穏やかな顔をしている。

これが第二段階。

 

看板猫のいるお店や、保護猫がいる場所で、

「猫ちゃんを抱いてみますか」と提案してもらうことがある。

抱っこが好きな猫がいるときに、特別に、といったニュアンスだ。

ふたりでいても、そうすすめられるのは、たいてい夫だ。

そして実際、夫のほうが、猫を抱くのがうまい。

思い切って抱くので、しっかりとホールドされ、

猫も居心地良さそうである。

わたしも猫は好きだが、

「わたしに抱かれて嫌じゃないかしら」「抱かれ心地悪くないかな」

などとこわごわ抱くのが良くないのだと思う。

 

夫が猫を抱いているということは、猫が近くにいるということだ。

もちろん、ふたりとも、その最中は猫だけを見ている。

脳内には幸せを感じさせる何かが大量に分泌され、記憶は曖昧模糊となる。

しかし、写真を見ると、夫の目じりは下がり、口角は上がり、

実にうれしそうな表情をしている。

写真を見せると、夫自身、ひとしきり猫のかわいさをほめたあと、

「俺、とろけてるね……」と驚いていた。

これが第三段階。

 

常々、夫には猫に接したときのみに見せる

「猫専用顔」があると思っていたが、

同じ「うれしそう」「幸せそう」でも、

段階に応じて、明確なボーダーがあるのだ。

そう、最近気がついた。


いつか我々が猫を飼うことになったら、

ことにそれが二匹以上であったなら、

第一、第二、第三段階までが同時に起こりえるわけだ。

そのとき、夫はどうなってしまうのだろう。

ずっととろけ顔になるのだろうか……などと、

ついつい考えてしまうのだった。