今年の夏は、なんだか溶けそうだった。
例年に比べてそんなに暑かったわけではないけれど、
じりじりとした陽光にやかれていると、
自分の境界線がぼんやりとしてくるので、
「わたしはこれこれこういう職業に就いていて、
結婚していて、
いま、こういう仕事をしていて、
これをやらないと納期に間に合わないから机に向かっていて」
と、ときどき言い聞かせていた。
思えば、わたしの人生のなかで、
これほどまでに現実が力をもったことはなかった。
頑張る方法がわかっていて、
やればやっただけの報酬(それほど多くはないが)をもらえる、
つまり、自分に合った仕事。
愛する、そして私のことを愛しているらしい夫。
その生活を支えるのは、ひたすらこまごました雑事だ。
掃除の分担、日々の食事、週末の予定。
そしてふたりの将来。
持ち家か賃貸か?
生活費はどう分担するか?
生命保険だってかけちゃおう。
できれば子どもがほしいな。
現実、現実、現実の積み重ねだ。
気持ちはあっても生活は伴わない恋愛関係、
空回りばかりしてうまくいかない仕事、
わたしを追い出したがる会社。
そういったものに囲まれていたとき、
わたしはしあわせではなかった。
ぐらぐらとした精神のすき間を縫って、
たくさんのイメージが流れこんできた。
森のなかでの静かな生活や動物のささやき、
ライト・ノベルのような異能力者の戦い、
コテコテのメロドラマ、
鮮烈な悲しみ。
キャラクター、情景、物語、何かの動き。
別に、心のすきまを空想で埋めていたつもりはない。
それらはただ、あって当たり前のものだった。
仕事が落ち着き、結婚により私生活が落ち着いた。
わたしにも、望む未来が見えた。
そこへ歩んでいくために、考えるべき現実的なことは山ほどある。
というより、夫との生活を成り立たせ、
未来へ連れて行ってくれるのは、現実的な物事だけだ。
わたしは望んでいた、地に足のついた暮らしを手に入れた。
情緒は飛躍的に安定した。
目の前に広がるのは、現実の海だ。
拡大すれば物を緻密に構成する粒子が見えるし、
引きで見れば輪郭がはっきりと見える、そういう現実。
それなのに、毎日がしあわせでフワフワしている。
真夏の日差しがくっきりと、浮き上がった足元を照らし出し、
これはいけない、と思う。
だから、わたしは現実をとなえる。
わたしはこの仕事をしている、結婚している、いま、ここに住んでいる。
現実が力をもつ一方、
わたしのなかの空想的イメージはなりを潜めた。
異能力者の散らす火花の音も、
架空の森に響く鳥の声も、
雪が降りしきるなかで悲嘆にくれる恋人たちの痛みも、いまは聞こえない。
しあわせが、こんなに静かなものだったなんて。
この傾向は、現在の住まいに引っ越してきてから強まった。
ふたりで手をつないでの買い物、緑道の散歩、鳩の鳴き声、感じのよいお気に入りの店。
夫婦ふたりの暮らしは甘やかで、ソーダ水のなかにいるように感じる。
ソーダ水のなか、ふわふわとただよいながら、わたしは、暮らしを眺めている。
キラキラした泡が、とてもきれい。
でも、ときどき息ができないように感じる。
だって、ソーダ水のなかにいるのだから。
ソーダ水のなかの息苦しさ、あるいは、
くっきりした3DCGの現実のなかで、
わたしだけが抽象画で配置されているような、居心地の悪さ。
わたしは、このしあわせと、現実と、うまくやっていきたいと思っている。
抽象画タッチのまま、3DCGにマッチする描き方を。
ソーダ水のなかではなく、外へ行って、
気泡を眺めたり、飲んだりする、そんな楽しみ方を。
空想的イメージの源泉がなくなったわけではないことも、ときどき感じる。
今までのようにざわざわしなくてもよい。
明るさを落として影をつくれば、きっとまたなつかしいざわめきが聞こえるはずだ。
その方法がわかりさえすれば。
わたしは、やっと、ソーダ水の水面から、顔を出すことを覚えた。
息継ぎのたび見上げる空は、少しずつ高くなっている。
濡れた髪を、涼しい風がなでていく。
こうして、秋がやってくる。