平凡

平凡

引き渡しの日

引き渡しの日がやってきた。

今まで借りていた部屋を引き払い、空の状態にして、
オーナーや管理人の立ち会いのもと、部屋の状態を確認して、その管理下に戻すのだ。

空っぽになった部屋を見ていると、はじめて内見した日のことを思い出す。
なんて日当たりがよく、明るいのだろうと思った。
そして、こんなに風に、広々としていた。
ふたりで暮らし、片付けもままならない生活のなかでは、すっかり狭く感じていた。

気になるところを掃除して、お昼ごはんに買ってきたモスバーガーを食べて、
管理人が来るのを待つ。

手持ちぶさたに、ロフトに上がってみる。
引っ越し作業中でてきた、この部屋の間取り図には、「5畳のロフト」とあった。
なるほど、広い。
引っ越してきたばかりのとき、「なんでも置けちゃうな!」とワクワクしたものだ。

やがて、管理人が到着。
「きれいに使われてますね」と言われて胸をなでおろす。
なんでも、10件に2~3件は、土足で上がった方がよいほど、ひどいケースがあるとのこと。

クリーニング代を確認して、書類にサインし、鍵を返す。
部屋を出るとき、管理人が「では、失礼します」と見送ってくれた。

共用廊下の屋根は、車庫でよく使われている透明のルーフで、紫色だ。
そのため、心なしか視界が色づいて見える。
ここをはじめて歩いたとき、変な色、と思ったっけ。
最近は、慣れて気にしなくなっていたけれど。

夫婦で階段を降りる。
「変な感じ」
夫が「げせない」といった表情でつぶやく。
「見送られてるの、俺たちなんだよね。
俺たちが見送るんじゃないんだよね」。

見送られ、出てきたあの部屋に、私たちが入ることは、二度とない。
つい少し前まで、あんなに慣れ親しんでいた場所なのに。
これから、私たちは新しい住まいへ向かう。
しかし、「帰る」という感じはまだしない。

あの部屋はこれから、クリーニングされ、私たちの痕跡をさっぱりきれいにして、次の住人を待つ。
がらんどうの部屋に、相変わらず陽光がさんさんと降り注ぐ。
夜は、四隅にしんと闇が落ち、窓から街灯の光が差し込むだろう。

建物から出る。
外は快晴。
目がくらむような明るさだ。
まぶしすぎて、現実感がない。
まるで白昼夢のなかにいるようだった。

今まで、へその緒のようにつながっていた場所から、
すっぱりと切り離されて、どこに行けばよいかわからない。
そんな気持ちで、私たちはしばらくマンションの門前で、ぼんやりと立ち尽くしていた。



その部屋について書いたエントリー。
hei-bon.hatenablog.com