友人が飼っていた猫が、死んだ。
私たち夫婦の馴れ初めには、その猫ちゃんが関わっている。
私たち夫婦が知り合ったのは、ネットでつながった、ゆるい同業界人のグループだった。
猫ちゃんを飼っていた友人も、そのなかにいた。
私たちがお互い猫好きなことを知っていた友人が、ある日、「猫を見においでよ」と誘ってくれた。
駅前でケーキを手土産に買い、私たちは友人宅で、おしゃべりと、猫ちゃんとの時間を堪能した。
その猫ちゃんはおっとりとして、初対面の人を嫌わなかった。
私たちがかつてそれぞれの実家で飼っていた猫は、いずれも気難しかったため、ふたりで驚いた。
その後、恋人となり、夫婦となった私たちは、SNSに投稿される猫ちゃんの写真を見ては、顔が丸い! あんよがぬいぐるみみたい! と騒いだ。
「あのとき、『ざりっざりっ』ってなめてくれたよね。はじめて会ったのに!」。
あの子がもういないのだと思うと、私たちもかなしく、さみしい。
しかし、飼い主の友人のかなしみは、いかばかりかと思う。
ネット上では、愛らしい動物たちの写真を、私たちはたくさん目にすることができる。
飼い主の愛情をたっぷりかけられて、のびのびしている動物たち。
その様子は、なんだかこの世界は悪くないのだなと感じさせてくれる。
しかし、どんな動物も、いつかは死んでしまう。
のこされた飼い主の表現は、それぞれだ。
亡くなる、虹の橋をわたる、眠りについた、おやすみなさい。
いとしさ、悼み、思いやり、死後のイメージ、闘病からの解放。
いずれの表現にも、それらが行間からにじみ出る。
そういえば、「今日で、おしまいにします」とだけ書いて、動物ブログを突然閉鎖してしまった方がいた。
後で、その子が死んでしまったと知った。
死にふれないことが、かえってかなしみの深さを感じさせた。
動物、ことに10年以上生きる犬や猫を1匹、しあわせにすることは、当たり前のようでいて、大変だと思う。
かわいいだけでは済まされない。
日々の世話、病気になったら医療費も通院の手間もかかる。
病気になると、排泄関係で問題が出ることも多い。
そして、苦しんでいる生き物を見るのはつらい。
人が苦しむのももちろんつらいが、
物言わぬ動物が苦しむ姿は、また別の何かがあると思う。
飼って、世話して、愛して、看取る。
尊いことだ。
友人の猫ちゃんは、しあわせであったと思う。
我々は、そのしあわせをおすそわけしてもらっていた。
さようなら、ありがとう、猫ちゃん。
ゆっくりとおやすみなさい。