「俺、やめたよ。今は、ぜんぜん別の仕事してる」。
久しぶりに会った彼は、はっきり言った。
酔いと居酒屋のざわめきでぼんやりした頭が、その瞬間、クリアになった。
それは、大学時代に所属していた部活の、同窓会のような集まりだった。
運動系の部活で、卒業後の進路はさまざま。
とくに私たちの同期は、自由業から官僚まで、バラエティ豊かだ。
冒頭の彼と私は、同じ学部だった。
学生時代は同じ創作系の授業を取っていて、書いた作品を見せ合ったりした。
彼は、漫画家志望だった。
卒業後も、ずっと描いていた。
ある有名少年誌の賞に入って、読み切りが掲載されたこともある。
アシスタントに行っていた時期もある。
原作付きの実録コミックの作画をしていたこともある。
ただ、いつもアルバイトと並行だった。
「食う」という意味で苦しいのは、はたから見ていてわかった。
同時に、生活をしながらきっちり努力していることも、知っていた。
そして、彼が「やめた」と言ったのは、漫画を描くことだった。
私のまわりには、「どうやって食っているのかよくわからない」仕事の人や、世間でいう夢追い人が多い。
大きな絵を描いているアーティスト、
造形系の仕事で講師をやりつつ、自分の作品を制作している友人、
TV出演もするようになった役者。
バイトと並行していたり、最近、それ一本で食えるようになったり。
部活の同期にも、ある楽器の奏者としてプロになった人や、とある国の永住権を取得した人がいる。
私自身は、夢を叶えたとはいえないが、やりたかったことの延長線上にある仕事に就いている、在宅フリーランスだ。
妥協はあれど、みな、夢とどこかでつながりながら生きている。
彼のように、夢であったことをスッパリとやめ、違う仕事に就いたケースは、私の狭い狭い世間では、はじめてだった。
そういうわけで、冒頭の彼の言葉を聞いたとき、クリアな脳裏によぎったのは、(マンガかドラマの台詞みたい)というどうしようもない感想だった。
次にやってきたのは、圧倒的なさみしさだった。
あれほど頑張ってきた人が、やめてしまったのだ。
そういう人生の選択をする人が、私のまわりにも、出てきたのだ。
私や多くの友人たちは、若いころの夢とつながりながら、その延長線上で生きてきた。
これからだってそう生きていく。
けれど、もう若くはないのだ。
彼が続けていたことは、漫画の他にもうひとつあって、それは部活動でもやっていた運動だった。
その運動は、精神論で語られることも多く、多少、求道的なところがある。
呼吸法、世界と自分のつながり、力の流し方、足の運び方。
現役のころから、彼はその運動のなかに、哲学を求めているところがあった。
帰りの電車で、彼は
「ずっと、漫画と、その運動を続けてきてさ。
うまくいえないんだけど、それは俺の中でつながっているんだよ。
無駄じゃないんだ」
と言葉を選びながら話し出した。
「俺さ、わかったんだ――」
そう言いかけたとき、電車は乗り換えのターミナル駅に着いた。
降りる人と乗り込む人にもみくちゃにされながら、私たちはそれ以上会話を続けることもなく、手を振った。
夢を追い続けた若き日々を終えて、
彼がたどり着いた結論を、きっと私が知ることはない。
それでも。
少なくとも、彼が無駄ではなかったと感じている、
それは小さな救いだった。
若かった日々が私に別れを告げ、去っていく。
雑踏を抜け、家路をたどりながら、私はその静かな足音を聞いていた。