平凡

平凡

人生は、砂漠を歩くようなもの、と思っていた

幼いころから、眉間に皺ばかりよせている子どもだった。

そのころ考えていたことでよく覚えているのが、

「人生とは、砂漠をひとりで歩くようなもの。

どうやって歩いていけばよいか」。

 

結婚とは、年齢がきたら適当な相手と❝してしまうもの❞。

そして、どうも自分がやっても、

うまくいかないもののような気がしていた。

さりとて、バリバリ働く自分も想像できなかった。

社会への順応性が低いことを感じていたのか、

あるいは、身近にキャリアウーマンなどいなかったので、

「働く自分」のことはぼんやりとしかイメージできなかったのかもしれない。

 

子どもの社会では、手ひどい裏切りや陰湿ないじめが蔓延していた。

結婚というものは、周りを見る限り、幸せな結果を生むとも思えない。

友達も、どうやら❝好きな人❞も信じられない世の中で、

ひとりでなんとか歩いていかねばならない。

でも、どうやって?

誰もいない書斎の隅で、

あるいはシルバニアファミリーで手持無沙汰に遊びながら、

庭で雑草を抜きながら。

四六時中考え続けたけれど、

どうしても「ひとりで生き抜いてやる!」という決意ができない自分には、

いつまでも結論を出すことはできなかった。

 

今なら、それが「誰かを信じたい」「誰かと生きていきたい」の

裏返しだったということがわかる。

「結婚なんてできるわけがない」「誰も信じられない」と

わざわざ考えること自体が、「結婚」「信じる」ことを強烈に意識していることの

裏返しだった。

 

誰かと一緒にいたい、でもやり方がわからない。

とりあえず思いつくことが、

「人生とは、砂漠をひとりで歩くようなもの」という

定義だったのだと思う。

 

育った家庭が崩壊し、荒れ狂う思春期を過ぎた。

友人に関しては、幸いにも恵まれた出会いがあったが、

「結婚」に関しての問題は取り残されたままだった。

 

大人になるにつれ、結婚は、より身近な恐怖となった。

結婚とは、私にとって、人生の落とし穴だった。

いつの間にか落ちてしまう、暗い場所だ。

ノルウェイの森』の直子が恐れていた野井戸のように。

 

20代前半で初めて友達が結婚したときは、精神を大きくかき乱された。

落とし穴が近づいている。

 

結婚は、自分の判断でするものであるし、

まず、「できない可能性」も十分にある。

そんなに怖いなら、しなければよい。

正しいロジックはこうだ。

しかし、当時の私にとって、

「結婚」は理論を越えて迫る恐怖のワードであり、

その恐怖はまともな判断を吹っ飛ばすほどに強大なものだった。

 

ただ、何人かの異性と付き合うなかで、

ときにはカウンセリングに通うなかで、

次第に私にもわかってきた。

私は誰かとともに、生きていきたいのだ。

 

次第に、周りの友人が結婚しても、動揺しなくなっていった。

彼女たちの話を聞いていると、結婚とは、

「わけのわからない恐ろしいもの」ではなかった。

もちろんうまくいかないことはある。

しかし、その多くは天災のようなものではなく、

日常と地続きなものだった。

 

何人かの友人は離婚した。

そのうち何人かは、再婚した。

相手がかわると、嘘のように上手くいったりした。

それは、私の親も同じだった。

 

誰かと暮らすうえでは、相性と、コミュニケーションが大事なのだと

冷静に考えられるようになった。

私は結婚したい、家庭を築きたいのだ。

自分なりの、あたたかな家庭を。

幼いころから眉間に皺をよせ、長い長い時間をかけて、

やっとその願望を認めることができたのだった。

 

私は年齢を重ね、世は婚活ブーム。

「私も結婚できるのかな、結婚できないかもしれないな」。

そう考えられるようにさえ、なった。

 

そんなとき、夫と出会った。

夫とは、初デートのときから、他の人とはまったく違っていた。

とにかく楽しい。

ずっと一緒にいたい。

そう思ってデートを重ね、

ごく自然に結婚した。

 

夫と結婚できたことは、

私の人生で2本指に入る、よい出来事だった。

僥倖と言ってよい。

 

おそらく、私の人生の目標のひとつは、

あたたかい家庭を築くことだ。

空中分解しない、地に足ついた、安心できる場所。

長く回り道をしたが、願い、考え続けて、そのスタートラインに立った。

そのことをうれしく、誇らしく思う。