平凡

平凡

小さな継承

わたしは歌うのが好きだ。

と書くと、「歌が上手い」と連想する向きもあろうが、

事実はむしろ反対である。

下手の横好き。

つまり、わたしはいわゆる音痴なのだ。

謙遜で言うようなかわいいものではない。

本気の本気、今様に言うなら“ガチ”である。

 

さらに、わたしには、親しい間柄の相手には、

作詞作曲・オリジナルソングを歌うという悪癖もある。

作詞作曲といっても複雑なものではない。

そのときどきに見たものや感じたことを、

呪われそうな節回しで歌うというだけである。

 

そういえば、このエントリーに書いた「家飲み」の次の日、

二日酔いに倒れた友人には、

「いま、本当に気分が悪いから、頼むからいまだけは歌わないで!」

と釘を刺されたのであった。

hei-bon.hatenablog.com

「二日酔いのときに聞かされたら、もっと気分が悪くなる歌」

といえば、ご想像いただけるのではないだろうか。

 

そんな即興ソングのひとつに、「くじこの歌」がある。

これは幼いころに歌っていたものだ。

何かの抽選で、大きなくじらのぬいぐるみが当たり、

わたしは「くじこ」と名前をつけた。

「くじこの歌」は、その愛らしさを歌ったもので、

「あ~↑あ↓ か~わいい、くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」

と繰り返すだけのシンプルなものであった。

 

そんなこと、ずいぶん長い間忘れていたのだが、

夫とまだ恋人だったころ、

「昔、こんな歌を歌っていたんだよー」と「くじこの歌」を披露した。

夫はおおいに笑い、

「あ~↑あ↓ か~かわいい、くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と、

元曲のおかしな節回しを見事に再現して歌った。

夫はわたしよりも音楽を聞き分ける耳にすぐれ、歌もうまいのだ。

しばらくはふたりで「くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と歌っていたのだ、

やがてはブームが過ぎ去った。


そして、数年後。

 

最近、夫が皿洗いをしながら、

「くじっ↑こ↓ くじ↑っこ↓」と歌っているではないか。

「よく覚えているね」と言うと、

夫は皿洗いの手を休めず、

「『くじこの歌』だよね」とだけ答えてふふふと笑った。

 

夫が自発的に歌い出した「くじこの歌」を聞いて、

わたしはなんとも不思議な気持ちになった。

子どものころ、家族の前だけで歌った、下手くそで、おかしな歌。

家族の記憶に埋もれて、やがて消えるはずだった戯れだ。

それを、時を経て、赤の他人である夫が歌っている。

これは、とてもとても小さな、

文化、あるいは記憶の継承ではないだろうか。

 

年齢を重ねて思うのは、

身の回りの記憶や家族の歴史は、意識をして記録しないと、

消えていってしまうということだ。*1

家族の小さな思い出や、皆で営んだ暮らしの細部。

そういったものは、消えても、生きることに差しつかえはない。

ただ、過去の細かなエピソードは、自分を形作る一片でもある。

そして、年々、歳月が過ぎ去るスピードは速くなり、忘却は加速度的に進んでいく。

若かったころは「こんなことはきっと忘れないだろう」と思っていたことも、

あっという間に忘れてしまう。

昔のちょっとしたメモや写真、誰かの思い出話に刺激され、

忘れたことさえも忘れていることに気づくと、

足元がグラグラするような感覚に見舞われる。

わたしは記憶力がよいほうではなく、

子ども時代のことなど、もはや幻のように感じられる。

 

もうひとつ、親の死を多少なりとも意識する年齢になって思うのは、

父母の記憶は、今、聞き出しておかないと、永久に消えてしまうということだ。

たとえば、祖父母は父母から見てどんな親だったのか。

未来にどんな期待を抱いていたのか。

あるいは抱かなかったのか。

子育て時の心境についても、大人になった今なら聞き出せるかもしれない。

これもまた、人知れず朽ちても、まったく問題がない。

しかし、わたしのなかには、父母の一個人としての歴史を

もっと知っておきたい欲求がある。

 

「くじこの歌」は、些末なことだが、

やはりそういった「記憶しておきたい記憶」につながっている。

わたしと夫は年齢もそう変わらないので、

長く語り伝えるわけではないだろう。

子どもに恵まれるかどうかもわからない。*2

ただ、些末だからこそ、

世界からすれば、溢れるゴミのひとつに過ぎない記憶だからこそ、

自分や実家の家族以外のメンバーがシェアしていることに驚きを禁じ得ないのだ。

 

我々がシェアするのは、もちろん、「くじこの歌」だけではない。

夫が幼いころ、ラーメンの湯をかぶってしまって大やけどをしかけたこと。

その昔、義実家が、一家総出でミルクセーキにハマったこと。

義母が生まれ育った故郷での暮らしの話。

夫とわたしが出会う前に亡くなってしまった義父のこと。

同じく、わたしが会ったことのない、夫が昔飼っていた猫のこと。

 

わたしも、夫の記憶の継承者であるのだ。

それも不思議なことだと思う。

わたしたちは雑談のなかで、記憶を交換し続け、シェアし続けている。

結婚すること、家族が増えること、新たな世帯をもつこと。

その機能のひとつに、記憶のシェアと継承がある。

(少なくとも、わたしにとっては、そう感じられる)

わたしの悪癖から生じた「くじこの歌」は、

その機能に気づかせてくれたのだった。

 *3

 

 

 

 

*1:家族のこと意外でも、なんてことない住宅街などの街並みの変化は意外と写真に残っていなかったりする。また、インターネット初期に見られたホームページやその文化は、サービス終了でガンガン消えていっている。当たり前のものは、意外と記録が残りにくい

*2:子どもが「くじこの歌」の継承するというのは、それはそれで嫌な気はする……

*3:こういった“継承”は家族間だけで行われるものではない。

しかし、家族は規模が小さく、ありふれているだけに、

“継承”が頻繁に行われる共同体でもあるのだと思う

“家飲み”から“家お茶へ”

もうだいぶ前になるが、友人が結婚した。

挙式は、オーストラリアで。

当然、出席した。

 

中高生のころから彼女は、

「わたしは、結婚して、子どもを生んで、将来おかあさんになる」

と断言していた。

「まあ、いつかは子どももほしいし」

「やさしい旦那様と出会って」

のようなふんわりした夢ではなく、

確固たる家庭像があることを感じさせる、

力強い宣言だった。

 

大学時代も

「30歳までには、第一子がほしい。

結婚までにふたりでゆっくりしたいから……。

そのためには、27歳ぐらいまでには結婚するとして、

結婚までは交際期間が必要だから、24、25歳で出会わないと……」

と逆算していた。

今は当たり前の発想だが、

「婚活」という言葉もなかった20年ほど前には、

驚くほどしっかりとした将来設計にうつった。*1

 

そして、大学卒業前に出会った、

やはり確固とした家庭像と人生像をもった男性と結婚した。

 

そんな彼女の晴れの日はうれしくめでたく、

一緒に行った別の友達と、キャッキャッと祝福した。

祝福したい人だけが参列している式は、こぢんまりとあたたかかった。

式後はコアラを抱いたりしてオーストラリアを満喫し、

帰国して落ち着いたころ、

「結婚式のビデオができあがったので、

よかったら新居に遊びに来てください」

とお招きをいただいた。

 

ありがたく、参列した友達と新居にお邪魔した。

デパ地下でおいしいお惣菜を手土産に、お酒も少し持っていった。

いわゆる「家飲み」をしながら、結婚式の思い出話をしようという算段だ。

ビル最上階にある、ペントハウスのような新居は、日当たりがよかった。

実際に参列したときとはまた別の角度から、

ビデオで結婚式を見るのは楽しかった。

また、アルバムをめくりながら、

「このとき、カメラマンに『スマーイル!』と言われて、

●●ちゃんは相当照れていたよね~」

「かわいい、ていうか、美しい!」

などとワイワイ盛り上がった……のは我々だけで、

新婦である友人は、「恥ずかしいーーー!」と床を転げまわり始めた。

とくにビデオには照れるらしく、映像を流している間は

転がったり目を伏せたり、

しまいには「ああ、本当に嫌~」と酒をぐいぐい飲み始め、

ソファーで寝てしまった。

そのうち、旦那さんが帰宅し、

「あれ、酔っちゃったの」と

手際よく妻を介抱し、

テーブルを片付け、我々の寝床を用意してくれた。

翌朝、彼女は二日酔いでぐったりとしていた。

彼女は酒に強く、自制心も人一倍。

結婚式のビデオの破壊力と、家飲みの安心感があってこその珍事だった。

 

「家飲み」と聞いて思い出したのは、そんなエピソードだ。

あんな友人を見たのは、後にも先にもそのときだけだ。

 

そんな彼女も、今では2人の子どもの母。

少女時代に語った通りの人生を、家族とともに着実に歩んでいる。

そして、結婚式に共にはせ参じた友人も、今では2人の母となっている。

先日、皆で子連れで集まった。

当然、家飲みではなく、昼間の“家お茶”だ。

新婦(だった友人)の長子は、小学生男子。

普段はお兄さん然としているが、まだまだ甘えたい年頃らしく、

ソファに座る母に、抱きつく一シーンもあった。

しかし、風船ガムを嚙んだままと判明し、

「ちょっと、髪についちゃうから!」「ああ、本当に嫌~」と

母は抵抗。

 

その「本当に嫌~」は、

あのビデオを見ていたときと変わらぬ言い方だった。

当時を思い出すとともに、

我々に流れた時間をしみじみと思ったのだった。

 

 

今週のお題「家飲み」

*1:我々の若いころは、まだ漠然と、親世代と同じようなライフスタイルを踏襲するのではと、多くの人が考えていたように思う。一方で、実際のワーキングスタイルなどは、腰掛けが当たり前だった親世代の女性とは大きく異なっていた。仕事に就いた後、このまま社会人として一人前になると30手前じゃん? 結婚、出産は? なんとなく結婚できていた親世代とは違い、なんとなくでは結婚できなくない? と徐々に気づいていき、そのうち婚活という言葉が台頭し、高齢出産のリスクが知られるようになっていったというのが、肌感覚である

「いつかあなたにも、そんな相手が見つかるよ」とその人は言った

まず、「ツチノコ」の話をしよう。

もし、世界に「ツチノコ」という概念がなかったなら。

当然、「ツチノコ」を捕まえようとは思わないだろう。

そして、仮に「ツチノコ」を見ても、特異な存在とはわからないはずだ。

「ちょっと太った蛇がいるわ」などと思っているうちに、

藪の中に逃げてしまうかもしれない。

 

話は過去へ戻る。

そのころの私は独身で、恋に敗れたばかりだった。

仕事である人に会ったときのこと。

必要な打ち合わせを済ませたあと、流れで結婚についての話になった。

「あなた、恋人はいるの?」と聞かれ、

「失恋したばかりなんですよ。結婚なんて、できるんでしょうかねえ」

自虐気味にそう言ったのはなかば本気で、

まだまだ、わたしの心には、

結婚に対する恐怖と憧れが混然一体となっている時期だった。

 

「できるわよ!」と、その人は明るい表情で、力強く言った。

 

それから、彼女が現在の伴侶と出会い、

結婚するまでのことを話してくれたのだった。

 

若くして、ある仕事で大成功を収めた彼女。

そのころ、一度目の結婚をするが、

成功への驕りと慢心が落とし穴となった。

仕事もなくなり、離婚。

 

どん底を経験し、自身の弱さに気づいたという。

その後、仲間内の集まりで、

現在の夫に出会ったのだそうだ。

出会ったその日から話が尽きず、

集まりの場でもしゃべり、

帰り道でもしゃべり、

ついには自宅に行ってしゃべり、

そのうち朝になった。

まだまだ話し足りなかったが、仕事がある。

そこで、「夜、ここで会おう!」といったん別れ、

夜にはまたふたりで話し込んだ。

それを繰り返すうち、自然と一緒に暮らすようになり、

自然と結婚に至ったとのことだった。

 

そんな話もあるんだと驚いた。

たいへんに明るいその人は、

「平凡さんは血液型何型? わぁ、私と一緒だよ! 

平凡さんにも、ぜったい、そんな人が見つかるよ!」

と力強く背中をたたいてくれた。

血液型占いに根拠があろうがなかろうが、

誰かに何かをポジティブに断言してもらえるのは、

妙に心強かった。

人生を心もとなく感じているときなら、なおさらのことだ。

 

ただ、心強く感じる一方で、

彼女の話はすばらしいけれど、

そんな相手と出会うなんて、

わたしに起こりえるんだろうか? と思った。

そんな相手なんて、ツチノコみたいなもんじゃないの?

いるかどうかもわからない。

仮に存在を信じたとしても、

「それを捕まえるのはわたしだ!」と思えるかどうかは

別の話なのだ。

 

何年もたって、その人と会ったことも忘れかけたころ、

わたしは夫と出会った。

夫とは、はじめてふたりで遊びに行ったときから、

ほかの人とはまったく違っていた。*1

 

とにかく楽しい。

話が尽きない。

ワクワクする。

はじめてのデートらしいデートは、

ひどく混み合っているイベントだったが、

混雑に疲労しても、

相手に疲れることはまったくなかった。

お昼前に待ち合せて、

イベント、喫茶店でのお茶、本屋巡り、遅めの夕食と、

結局、夜まで一緒にいた。

 

ターミナル駅の改札で別れたあと、

夫がいい、好き、というより、

とにかく、あの楽しい時間をもう一度過ごしたいと思った。

夫も同じだったのだろう。

それからは、

「話題の映画が封切されるから」

スカイツリーに行ったことがないから」

果ては「寒いので鍋を食べに行きましょう」

など、強引な理由をつけてデートをした。

きちんと付き合うようになってからは、

休日は予定がないかぎりは共に過ごすことが当たり前になり、

離れることは考えられず、自然に結婚にいたった。

 

結婚してから、ふと、わたしに

「そんな人が見つかるよ」と断言してくれた

その人のことを思い出したのだった。

ツチノコレベルの信憑性だと思っていたけれど、

わたしにとっての「そんな人」は実在したのだ。

 

冒頭に書いたように、幻のツチノコだって、

ツチノコがいるよ」と

その存在を教えてもらえなかったら、

見つけることができなかったのではないか。

出会いの不思議さを考えると、そんな風にも思ってしまう。

 

いつかその人にもう一度会うことがあったなら、

結婚の報告と、ツチノコがいる、その可能性を教えてくれたことへの、

お礼を言いたいなと思っている。

*1:

ここでいう「人」とは、恋愛関係に近い相手に限らない。

出会ったことのあるすべての「人」である。

精算する男

もう梅雨も間近だけれど、少し前の話。

フリーランスの春といえば、確定申告である。

結婚以来、夫は毎年確定申告を手伝ってくれるようになった。

 

腰が重いわたしに再三、夫は「確定申告、だいじょうぶ?」と声をかける。

遅まきながら領収書を集めて渡すと、

夫はPCのテンキーを使い、金額を項目別にパカパカと実に手際よく打ち込んでいく。

「若手だったころ、仕事でExcelに死ぬほど数字を打ち込んだからね~」

「こういう単純作業は好きなんだよ」

とニコニコしている。

わたしがギャランティの支払い調書を揃えたり、

ネット支払いの領収書をかき集めたりしているうち、

夫の作業はあっという間に終わる。

 

そのなかで、いくつか、宛先が取引先になっている領収書を見られてしまった。

昨年はバタバタとする中で、請求しそびれた経費があったのだ。*1

事情を話すと、「ええっ、もったいない!」と夫は眉をひそめた。

「経費って請求しなかったらただの出費でしょ。

平凡家から、お金がなくなっちゃうんだよ。

ちゃんとしようと」と夫。

当然の反応である。

そんなに責めているわけではないのだが*2、ついつい、

「そういう夫はどうなの? 付き合いはじめたころ、

『交通費の精算、忘れがち』って言ってたよ」

などと言ってしまう。

 

夫の返答は意外なものだった。

「最近、忘れたことないよ。毎月、キッチリ精算してる」。

聞くと、「結婚したから」とそんなに意識したわけではないけれど、

籍を入れたあたりから、必ず精算するようになったとのこと。

「平凡家から資産がなくなっちゃうってことだし」

「まあ、自分のお金を取り戻しているだけだし」

夫は、得意気になることもなく話す。

 

わたしは心底驚いた。

精算がめんどうなのは皆同じだと思うが、

世の中にはその実、なんだかんだきちんとやる組と、

ついつい忘れてしまう組がいる。

似ているようでいて、この二者の間には、埋めがたい断絶がある。

だらしない人間にとって、「やる」「やらない」、

さらに、「ときどきやる」「忘れずにやる」の間には、

明確なハードルが存在する。

恥ずかしながら、これは、わたしが大変にだらしないからわかることである。

夫は「ついつい忘れてしまう組」だったはずだ。

それが、結婚を機に、「忘れずにやる」にひと飛びした。

しかも、この確定申告のやり取りがあるまで、意識していなかったという。

それゆえ、自慢もしなかった。

なんという無言実行ぶり。

 

「やる」組の皆さんには、なんとだらしないと誹りを受けるだろうが、

だらしない人間が行動を変えるというのは、大変なことだ。

夫は、無自覚にせよ、「新しい家庭を築いた」「共同生活を営む」ことを、強く意識したのだろう。

そして、行動を変えていた。

わたしの知らないところで。

無言の誠実さだと思う。

これには正直、まいった。

 

 

わたしが夫に与えられるものなんてあるのかなあと、ときどき考える。

あんまりありそうにないが、

せめて、自分のことはきちんとしよう。

そう思って、パカパカとテンキーを打ち込み、

経費の請求書を作成している今日この頃である。

*1:念のためだが、仕事のギャランティはもらっている。請求しそびれたのは経費のみである

*2:ここで責めない夫のやさしさよ……

異種族としての猫

最近はもっぱら、夫婦で看板猫のいる店巡りをしている。

店では、猫と人間が、さまざまな関係をむすんでいる。
それを見るのも、看板猫巡りの醍醐味である。


ある店にいるのは、そっくりな4兄妹だ。
店を訪れると、開店準備中にもかかわらず、店主は中に招き入れてくれた。
店主が掃除機をかけると、起きている2匹が、たたたたたっと店の端まで走っていく。*1
が、あまりこわがっているようすはない。
たぶん、ちょっとうるさくてイヤ、ぐらいなのだろう。
残る2匹はスヤスヤ寝ている。
掃除機の音がしなくなると、猫たちは店内をウロウロ。
店に積んである段ボールの端っこをかいだり、
我々の足元をわざわざすり抜けて歩いたりする。*2

店主がテーブルを拭き出すと、すかさず1匹がテーブルに飛び乗る。
「●●ちゃん、テーブル拭くんだよ、どいてよ」
店主が困った顔で訴えるも、猫は「何言ってんの」という顔で居座っている。
「どいてくれないと、霧吹き、シュッてするよ」
と言っても知らん顔。
店主はますます困り顔になりつつ、
猫にかからぬよう、テーブルの端っこにシュッシュッと霧吹きをかける。
猫はやっとテーブルの下にピョンと飛び降り、また隣のテーブルに飛び乗った。
当然、そのテーブルは店主が次に拭く予定のものだ。*3

店主は我々に気を遣って、いろいろ話しかけてくれる。
猫を拾ったときのこと、猫たちの健康管理で困っていること、他の看板猫のいる店の様子はどうか……。

4匹の猫は、幼いころ、捨てられているところを、店主が見つけたそうだ。
ミルクもスポイトでやらねばならない齢だったという。
当初は4匹の見分けがつかず、健康管理に四苦八苦したこと、
大きくなった今も、猫たちを何くれと心配していることが、言葉のはしばしから感じられた。

と、カウンターにのぼった猫が、何かを飲もうとしている。
グラスに固形物が入っているように見えたため、
「あっ、飲んでますよ!」とあわてて店主に訴えると、
なんとそれは、氷をたっぷり浮かべた猫専用の水飲みグラスなのであった。*4

開店準備が整い、店主が我々にお冷を出してくれる。
それぞれ飲み物を注文し、待っていると、猫がテーブルにやってきた。
「グラス! グラスに気を付けてください!」と厨房に戻りながら、店主。
さっきカウンターで水を飲んでいた猫が、我々のお冷を狙ってやってきたのだ。
グラスに掌でフタをしたり、両手でグラスを宙に浮かせたりして猫から守り、
「お水はあっちにあるよ」
「これはダメだよ」
と阻止すると、
猫はものすごく不本意な顔をする。
「わたしの水を、わたしが飲みたいだけなのに、
なぜか人間が邪魔をしている」と言いたげだ。
《猫は自分の都合よいようにしか現実を解釈しない》
《助けられると、犬は『この人はこんなに優しいなんて神様だ』と思う。
猫は『こんなに優しくされるなんて、わたしは神様なんじゃないか』と思う》
などなど、ネットで見かけた言説を裏付けるような顔である。*5
「もし、猫が水飲んじゃったら言ってくださいね、交換しますから」と、
店主は飲み物を作りながら声をかけてくれる。

飲み物が運ばれてくる。
が、こちらには猫は興味を示さない。
健康的で、よい嗜好である。
隣のテーブルに移って、退屈そうに寝そべっている。*6

店主が厨房から出てきて我々と話していると、
水飲み猫とは違う猫が、「にゃーにゃー」と何事か店主に訴えかけはじめた。*7
「『にゃー』って言われても、わかんないんだよ」
と諭しながら、店主は猫の真意を確かめるがごとく、
その瞳をじっとのぞき込んでいた。

やがて店主が仕事に戻る。
空き瓶を捨てるため、
空の段ボールを持ってくると、
すかさず猫が中に入る。
みかん箱大の箱から、耳だけがわずかに出ているところを見ると、
香箱座りでもしているのだろう。
「あのね、これは空の瓶を入れるんだよ。困るよ」
と店主はまたまた困り顔だ。
「空瓶をどんどん入れるからね、寝っ転がる場所なんて、なくなっちゃうんだよ」
と諭すも、猫は出ない。
瓶に箱を占拠されはじめても、猫はお座りの姿勢になって粘っていたが、
やがてしなやかに飛び出した。*8

テーブル拭きのときも、空き瓶段ボール詰めのときも、
店主はただ、猫をどかしてもよいのだ。
猫たちは、店主に大変なついている。
きっと、ひょいっと抱き上げられたら、
されるがままだろう(不満顔をするにしても)。
しかし、店主はそれをせず、話しかける。
一方で、猫と人間は、言葉が通じないこともよく理解している。
それでも、自分の意図を説明しようとする。
終始、尊重すべき異種族として猫に接しているようすが、
我々にはとても好ましく映った。

店主はおそらく、昔から大の猫好き、というわけではなかったのだろう。
命の危険がある猫を放ってはおけず、知識も経験もないなか、懸命に世話をした。
猫たちはすくすくとわがままいっぱいに育ち、
今では4匹それぞれ意思と個性をもつ異種族として、店主とともに暮らしている。
そんな関係性が、見る者を幸せにしてくれた。

そういえば、先日放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、
動物写真家・岩合光昭さんが、
「猫と対等に接することが大切」というようなことを話していたことを思い出す。

店主によく礼を言い、我々は店をあとにした。
4匹と1人に、幸多からんことを、と願いながら。

*1:かわいい

*2:かわいい

*3:かわいい

*4:かわいい

*5:とてもかわいい

*6:かわいい

*7:かわいい

*8:かわいい

「貧むす」と「夜廻り猫」

スーパーで買い物中。

思うところあって、三つ葉と天かすをカゴに入れる。

夕食後、天かすに白だしとしょうゆをしみこませ、

三つ葉を刻み、余ったごはんと混ぜ合わせる。

明日の朝食にするのだ。

 

食べてみると、

天かすの油分とコク、

三つ葉の爽やかさと茎のシャリシャリした食感がいい感じ。

 

ざっくりとした分量でできあがるこのレシピは、

Twitter発の人気漫画「夜廻り猫」(深谷かほる著)に出てくるものだ。

その名も「貧むす」。*1

 

「夜廻り猫」の筋立てを簡単に説明すると、

猫の遠藤平蔵が、「涙のにおい」をかぎ、

そのにおいをさせている人や動物から話を聞く、というもの。

「涙のにおい」であるから、そこには人生の悲喜こもごもが秘められている。

ときには、事情をはっきりと書かず、余韻を残すこともある。

基本は1話完結なので、どこから読んでも楽しむことができる。

 

「夜廻り猫」は、散発的にTwitterで目にしていたのだが、

良さがわかったのは、ある程度まとめて読んだときだった。

「涙のにおい」をさせているのは、たいてい、人生で報われなかった人たちだ。

 

たとえば、組織の不正を追求したものの、

結局は不正の罪をきせられて会社を追われ、

家庭も崩壊し、ホームレスになっている男性が出てくる回がある。

すべてを失い、絶望的な日々だろう。

それでも男性は遠藤の問いかけに、

「過去に戻ったら同じことをする」と断言する。

www.moae.jp

 

 

不正を追及した結果、ホームレスになるというのは、

遠い物語のようでいて、実は身近だと思う。

たったひとつのつまずきで、貧困に陥ることを、我々はニュースで見聞きする。

正義が勝つわけではないと、経験と伝聞から知っている。

この男性の“縮小版”ともいうべき物語は、身の回りに溢れている。 

正しさややさしさが報われるとは限らない世の中で、

それでもたったひとつ、

自分がやったことに誇りをもつことの美しさを、

この作品は提示してくれる。

それが、“落とし穴”におびえる人々には、光になる。

 

ネットを見ていると、真面目で優しく、

それゆえつぶされてしまう人が、世の中にこんなにいるのかと思う。

仕事を引き受けすぎたり、

振られた仕事を断れず、

心身を病んでしまう、というのもそのひとつだ。

そういった、頑張っている心優しき人々に、

「夜廻り猫」は届いたのかなと、遅まきながら気がついたのだった。

 

また、作品の随所に「今の感覚」が織り込まれているのも、

すぐれたところだと思う。

「貧むす」の回の主人公は、料理が不得意な女性だ。

彼と暮らし、料理は交代制。

彼は料理をしてくれるが、自分はできないので、

彼女の当番の日には、弁当などを買っている。

やっぱり料理が作れた方がよいのでは……と悩む女性に、

遠藤が教えるレシピが「貧むす」なのだ。

登場するカップルは、料理は交代制で、男性も料理をしている。

また、女性だから料理が作れる方がよい、とは提示されない。

人はあたたかいものを食べると元気になるから、

作れたほうよい、とこの作品はメッセージを送る。

ここには現代のジェンダー感覚が反映されている。

 

 

「貧むす」の回は、こちらから。 

www.moae.jp

 

この「貧むす」のように、料理を扱う回もあり、

(上記のセレクションはそのいった回を集めたもの)

思わず作りたくなる簡単なレシピが登場する。

作中、その簡単でおいしい料理を食べ、登場人物は癒やされていく。

我々は日々にそのレシピを取り入れ、それを簡単に追体験できるのだ。

(単純に、料理のバリエーションが増えるのもうれしいことだ)

 

「涙」だけではなく、

上記のセレクションにある、ツナと大葉のおむすびが出てくる

トーリーをはじめ、「笑い」で締める作品も織り込まれていて、

エピソードのバランスもよい。

 

人情、現代性、笑い、涙、寄り添い、共感。

そして、人間の活力の源となる食。

短い1回1回に、複数のものが詰まっている。

 

 

そんな「夜廻り猫」が、先日、「手塚治虫文化賞短編賞」を受賞。

Twitterからはじまり、書籍化、受賞。

人々に支持されてこその流れで、

初期からのファンの方々は、相当うれしかったのではないかと思う。

 

そんなことを、「貧むす」をほおばりながら思ったのだった。

 

最後に、わたしが一番好きなのは、この「わがままモネ」の回だ。

お母さんとお父さんの愛、モネの愛。

わたしはこれを読むと、心が締め付けられる。

(夫はこれを読んで「かわいいー!」と破顔していた)

www.moae.jp

 

*1:検索すると、「漫画に載っていたレシピ」との2010年の書き込みが見つかるので、正確には「夜廻り猫」以前からあるレシピの模様

三つの顔をもつ男

猫に相対するとき、夫は三つの顔を見せる。

 

たとえば。

土曜日、映画を見て終電近くなる。

そんなとき、商店街を横切る猫の姿。

見慣れないハチワレちゃんである。

我々夫婦は、わああ、とおよそ中年と思えぬ声をあげて、猫を追う。

夫は前にちらっと見た猫だ、この辺がテリトリーなのだと、すっかり興奮している。

短いしっぽをフリフリしながら、

駐輪場の塀の隙間に入っていったのを見て、我々も駐輪場に吸い込まれていく。

夜遅いとあって、駐輪場はガラガラだ。

伸びあがってのぞきこむと、まんまるの瞳がこちらを見ている。

街灯の光も届かぬ場所だが、瞳と、ハチワレの白い部分で、

輪郭がわずかに判別できる。

わああ、わああ、と言っているうちに、

猫は暗闇の奥へ消えていく。

「かわいかったねえ」

はじけるように、夫は目を輝かせる。

これが第一段階。

 

休日、お気に入りの保護猫カフェへ行く。

なんとなく、猫たちと馴染んだところで、夫がキャットタワーに近づく。

くつろぐ丸顔の白猫を、そっとなでる。

耳の間やら喉やらをなでて、猫がいい気分になったところで、

頭にそっと手を乗せて、耳を寝かす。

嫌がらない程度に、すっと手を離し、また、喉などやさしくなでている。

夫はこういった、猫の顔の「まるみ」を強調するのが好きなのだ。

猫をなでているときの夫は、ふふふと穏やかな顔をしている。

これが第二段階。

 

看板猫のいるお店や、保護猫がいる場所で、

「猫ちゃんを抱いてみますか」と提案してもらうことがある。

抱っこが好きな猫がいるときに、特別に、といったニュアンスだ。

ふたりでいても、そうすすめられるのは、たいてい夫だ。

そして実際、夫のほうが、猫を抱くのがうまい。

思い切って抱くので、しっかりとホールドされ、

猫も居心地良さそうである。

わたしも猫は好きだが、

「わたしに抱かれて嫌じゃないかしら」「抱かれ心地悪くないかな」

などとこわごわ抱くのが良くないのだと思う。

 

夫が猫を抱いているということは、猫が近くにいるということだ。

もちろん、ふたりとも、その最中は猫だけを見ている。

脳内には幸せを感じさせる何かが大量に分泌され、記憶は曖昧模糊となる。

しかし、写真を見ると、夫の目じりは下がり、口角は上がり、

実にうれしそうな表情をしている。

写真を見せると、夫自身、ひとしきり猫のかわいさをほめたあと、

「俺、とろけてるね……」と驚いていた。

これが第三段階。

 

常々、夫には猫に接したときのみに見せる

「猫専用顔」があると思っていたが、

同じ「うれしそう」「幸せそう」でも、

段階に応じて、明確なボーダーがあるのだ。

そう、最近気がついた。


いつか我々が猫を飼うことになったら、

ことにそれが二匹以上であったなら、

第一、第二、第三段階までが同時に起こりえるわけだ。

そのとき、夫はどうなってしまうのだろう。

ずっととろけ顔になるのだろうか……などと、

ついつい考えてしまうのだった。