平凡

平凡

「いつかあなたにも、そんな相手が見つかるよ」とその人は言った

まず、「ツチノコ」の話をしよう。

もし、世界に「ツチノコ」という概念がなかったなら。

当然、「ツチノコ」を捕まえようとは思わないだろう。

そして、仮に「ツチノコ」を見ても、特異な存在とはわからないはずだ。

「ちょっと太った蛇がいるわ」などと思っているうちに、

藪の中に逃げてしまうかもしれない。

 

話は過去へ戻る。

そのころの私は独身で、恋に敗れたばかりだった。

仕事である人に会ったときのこと。

必要な打ち合わせを済ませたあと、流れで結婚についての話になった。

「あなた、恋人はいるの?」と聞かれ、

「失恋したばかりなんですよ。結婚なんて、できるんでしょうかねえ」

自虐気味にそう言ったのはなかば本気で、

まだまだ、わたしの心には、

結婚に対する恐怖と憧れが混然一体となっている時期だった。

 

「できるわよ!」と、その人は明るい表情で、力強く言った。

 

それから、彼女が現在の伴侶と出会い、

結婚するまでのことを話してくれたのだった。

 

若くして、ある仕事で大成功を収めた彼女。

そのころ、一度目の結婚をするが、

成功への驕りと慢心が落とし穴となった。

仕事もなくなり、離婚。

 

どん底を経験し、自身の弱さに気づいたという。

その後、仲間内の集まりで、

現在の夫に出会ったのだそうだ。

出会ったその日から話が尽きず、

集まりの場でもしゃべり、

帰り道でもしゃべり、

ついには自宅に行ってしゃべり、

そのうち朝になった。

まだまだ話し足りなかったが、仕事がある。

そこで、「夜、ここで会おう!」といったん別れ、

夜にはまたふたりで話し込んだ。

それを繰り返すうち、自然と一緒に暮らすようになり、

自然と結婚に至ったとのことだった。

 

そんな話もあるんだと驚いた。

たいへんに明るいその人は、

「平凡さんは血液型何型? わぁ、私と一緒だよ! 

平凡さんにも、ぜったい、そんな人が見つかるよ!」

と力強く背中をたたいてくれた。

血液型占いに根拠があろうがなかろうが、

誰かに何かをポジティブに断言してもらえるのは、

妙に心強かった。

人生を心もとなく感じているときなら、なおさらのことだ。

 

ただ、心強く感じる一方で、

彼女の話はすばらしいけれど、

そんな相手と出会うなんて、

わたしに起こりえるんだろうか? と思った。

そんな相手なんて、ツチノコみたいなもんじゃないの?

いるかどうかもわからない。

仮に存在を信じたとしても、

「それを捕まえるのはわたしだ!」と思えるかどうかは

別の話なのだ。

 

何年もたって、その人と会ったことも忘れかけたころ、

わたしは夫と出会った。

夫とは、はじめてふたりで遊びに行ったときから、

ほかの人とはまったく違っていた。*1

 

とにかく楽しい。

話が尽きない。

ワクワクする。

はじめてのデートらしいデートは、

ひどく混み合っているイベントだったが、

混雑に疲労しても、

相手に疲れることはまったくなかった。

お昼前に待ち合せて、

イベント、喫茶店でのお茶、本屋巡り、遅めの夕食と、

結局、夜まで一緒にいた。

 

ターミナル駅の改札で別れたあと、

夫がいい、好き、というより、

とにかく、あの楽しい時間をもう一度過ごしたいと思った。

夫も同じだったのだろう。

それからは、

「話題の映画が封切されるから」

スカイツリーに行ったことがないから」

果ては「寒いので鍋を食べに行きましょう」

など、強引な理由をつけてデートをした。

きちんと付き合うようになってからは、

休日は予定がないかぎりは共に過ごすことが当たり前になり、

離れることは考えられず、自然に結婚にいたった。

 

結婚してから、ふと、わたしに

「そんな人が見つかるよ」と断言してくれた

その人のことを思い出したのだった。

ツチノコレベルの信憑性だと思っていたけれど、

わたしにとっての「そんな人」は実在したのだ。

 

冒頭に書いたように、幻のツチノコだって、

ツチノコがいるよ」と

その存在を教えてもらえなかったら、

見つけることができなかったのではないか。

出会いの不思議さを考えると、そんな風にも思ってしまう。

 

いつかその人にもう一度会うことがあったなら、

結婚の報告と、ツチノコがいる、その可能性を教えてくれたことへの、

お礼を言いたいなと思っている。

*1:

ここでいう「人」とは、恋愛関係に近い相手に限らない。

出会ったことのあるすべての「人」である。

精算する男

もう梅雨も間近だけれど、少し前の話。

フリーランスの春といえば、確定申告である。

結婚以来、夫は毎年確定申告を手伝ってくれるようになった。

 

腰が重いわたしに再三、夫は「確定申告、だいじょうぶ?」と声をかける。

遅まきながら領収書を集めて渡すと、

夫はPCのテンキーを使い、金額を項目別にパカパカと実に手際よく打ち込んでいく。

「若手だったころ、仕事でExcelに死ぬほど数字を打ち込んだからね~」

「こういう単純作業は好きなんだよ」

とニコニコしている。

わたしがギャランティの支払い調書を揃えたり、

ネット支払いの領収書をかき集めたりしているうち、

夫の作業はあっという間に終わる。

 

そのなかで、いくつか、宛先が取引先になっている領収書を見られてしまった。

昨年はバタバタとする中で、請求しそびれた経費があったのだ。*1

事情を話すと、「ええっ、もったいない!」と夫は眉をひそめた。

「経費って請求しなかったらただの出費でしょ。

平凡家から、お金がなくなっちゃうんだよ。

ちゃんとしようと」と夫。

当然の反応である。

そんなに責めているわけではないのだが*2、ついつい、

「そういう夫はどうなの? 付き合いはじめたころ、

『交通費の精算、忘れがち』って言ってたよ」

などと言ってしまう。

 

夫の返答は意外なものだった。

「最近、忘れたことないよ。毎月、キッチリ精算してる」。

聞くと、「結婚したから」とそんなに意識したわけではないけれど、

籍を入れたあたりから、必ず精算するようになったとのこと。

「平凡家から資産がなくなっちゃうってことだし」

「まあ、自分のお金を取り戻しているだけだし」

夫は、得意気になることもなく話す。

 

わたしは心底驚いた。

精算がめんどうなのは皆同じだと思うが、

世の中にはその実、なんだかんだきちんとやる組と、

ついつい忘れてしまう組がいる。

似ているようでいて、この二者の間には、埋めがたい断絶がある。

だらしない人間にとって、「やる」「やらない」、

さらに、「ときどきやる」「忘れずにやる」の間には、

明確なハードルが存在する。

恥ずかしながら、これは、わたしが大変にだらしないからわかることである。

夫は「ついつい忘れてしまう組」だったはずだ。

それが、結婚を機に、「忘れずにやる」にひと飛びした。

しかも、この確定申告のやり取りがあるまで、意識していなかったという。

それゆえ、自慢もしなかった。

なんという無言実行ぶり。

 

「やる」組の皆さんには、なんとだらしないと誹りを受けるだろうが、

だらしない人間が行動を変えるというのは、大変なことだ。

夫は、無自覚にせよ、「新しい家庭を築いた」「共同生活を営む」ことを、強く意識したのだろう。

そして、行動を変えていた。

わたしの知らないところで。

無言の誠実さだと思う。

これには正直、まいった。

 

 

わたしが夫に与えられるものなんてあるのかなあと、ときどき考える。

あんまりありそうにないが、

せめて、自分のことはきちんとしよう。

そう思って、パカパカとテンキーを打ち込み、

経費の請求書を作成している今日この頃である。

*1:念のためだが、仕事のギャランティはもらっている。請求しそびれたのは経費のみである

*2:ここで責めない夫のやさしさよ……

異種族としての猫

最近はもっぱら、夫婦で看板猫のいる店巡りをしている。

店では、猫と人間が、さまざまな関係をむすんでいる。
それを見るのも、看板猫巡りの醍醐味である。


ある店にいるのは、色柄そっくりな4兄妹だ。
店を訪れると、開店準備中にもかかわらず、店主は中に招き入れてくれた。
店主が掃除機をかけると、起きている2匹が、たたたたたっと店の端まで走っていく。*1
が、あまりこわがっているようすはない。
たぶん、ちょっとうるさくてイヤ、ぐらいなのだろう。
残る2匹はスヤスヤ寝ている。
掃除機の音がしなくなると、猫たちは店内をウロウロ。
店に積んである段ボールの端っこをかいだり、
我々の足元をわざわざすり抜けて歩いたりする。*2

店主がテーブルを拭き出すと、すかさず1匹がテーブルに飛び乗る。
「●●ちゃん、テーブル拭くんだよ、どいてよ」
店主が困った顔で訴えるも、猫は「何言ってんの」という顔で居座っている。
「どいてくれないと、霧吹き、シュッてするよ」
と言っても知らん顔。
店主はますます困り顔になりつつ、
猫にかからぬよう、テーブルの端っこにシュッシュッと霧吹きをかける。
猫はやっとテーブルの下にピョンと飛び降り、また隣のテーブルに飛び乗った。
当然、そのテーブルは店主が次に拭く予定のものだ。*3

店主は我々に気を遣って、いろいろ話しかけてくれる。
猫を拾ったときのこと、猫たちの健康管理で困っていること、他の看板猫のいる店の様子はどうか……。

4匹の猫は、幼いころ、捨てられているところを、店主が見つけたそうだ。
ミルクもスポイトでやらねばならない齢だったという。
当初は4匹の見分けがつかず、健康管理に四苦八苦したこと、
大きくなった今も、猫たちを何くれと心配していることが、言葉のはしばしから感じられた。

と、カウンターにのぼった猫が、何かを飲もうとしている。
グラスに固形物が入っているように見えたため、
「あっ、飲んでますよ!」とあわてて店主に訴えると、
なんとそれは、氷をたっぷり浮かべた猫専用の水飲みグラスなのであった。*4

開店準備が整い、店主が我々にお冷を出してくれる。
それぞれ飲み物を注文し、待っていると、猫がテーブルにやってきた。
「グラス! グラスに気を付けてください!」と厨房に戻りながら、店主。
さっきカウンターで水を飲んでいた猫が、我々のお冷を狙ってやってきたのだ。
グラスに掌でフタをしたり、両手でグラスを宙に浮かせたりして猫から守り、
「お水はあっちにあるよ」
「これはダメだよ」
と阻止すると、
猫はものすごく不本意な顔をする。
「わたしの水を、わたしが飲みたいだけなのに、
なぜか人間が邪魔をしている」と言いたげだ。
《猫は自分の都合よいようにしか現実を解釈しない》
《助けられると、犬は『この人はこんなに優しいなんて神様だ』と思う。
猫は『こんなに優しくされるなんて、わたしは神様なんじゃないか』と思う》
などなど、ネットで見かけた言説を裏付けるような顔である。*5
「もし、猫が水飲んじゃったら言ってくださいね、交換しますから」と、
店主は飲み物を作りながら声をかけてくれる。

飲み物が運ばれてくる。
が、こちらには猫は興味を示さない。
健康的で、よい嗜好である。
隣のテーブルに移って、退屈そうに寝そべっている。*6

店主が厨房から出てきて我々と話していると、
水飲み猫とは違う猫が、「にゃーにゃー」と何事か店主に訴えかけはじめた。*7
「『にゃー』って言われても、わかんないんだよ」
と諭しながら、店主は猫の真意を確かめるがごとく、
その瞳をじっとのぞき込んでいた。

やがて店主が仕事に戻る。
空き瓶を捨てるため、
空の段ボールを持ってくると、
すかさず猫が中に入る。
みかん箱大の箱から、耳だけがわずかに出ているところを見ると、
香箱座りでもしているのだろう。
「あのね、これは空の瓶を入れるんだよ。困るよ」
と店主はまたまた困り顔だ。
「空瓶をどんどん入れるからね、寝っ転がる場所なんて、なくなっちゃうんだよ」
と諭すも、猫は出ない。
瓶に箱を占拠されはじめても、猫はお座りの姿勢になって粘っていたが、
やがてしなやかに飛び出した。*8

テーブル拭きのときも、空き瓶段ボール詰めのときも、
店主はただ、猫をどかしてもよいのだ。
猫たちは、店主に大変なついている。
きっと、ひょいっと抱き上げられたら、
されるがままだろう(不満顔をするにしても)。
しかし、店主はそれをせず、話しかける。
一方で、猫と人間は、言葉が通じないこともよく理解している。
それでも、自分の意図を説明しようとする。
終始、尊重すべき異種族として猫に接しているようすが、
我々にはとても好ましく映った。

店主はおそらく、昔から大の猫好き、というわけではなかったのだろう。
命の危険がある猫を放ってはおけず、知識も経験もないなか、懸命に世話をした。
猫たちはすくすくとわがままいっぱいに育ち、
今では4匹それぞれ意思と個性をもつ異種族として、店主とともに暮らしている。
そんな関係性が、見る者を幸せにしてくれた。

そういえば、先日放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、
動物写真家・岩合光昭さんが、
「猫と対等に接することが大切」というようなことを話していたことを思い出す。

店主によく礼を言い、我々は店をあとにした。
4匹と1人に、幸多からんことを、と願いながら。

*1:かわいい

*2:かわいい

*3:かわいい

*4:かわいい

*5:とてもかわいい

*6:かわいい

*7:かわいい

*8:かわいい

「貧むす」と「夜廻り猫」

スーパーで買い物中。

思うところあって、三つ葉と天かすをカゴに入れる。

夕食後、天かすに白だしとしょうゆをしみこませ、

三つ葉を刻み、余ったごはんと混ぜ合わせる。

明日の朝食にするのだ。

 

食べてみると、

天かすの油分とコク、

三つ葉の爽やかさと茎のシャリシャリした食感がいい感じ。

 

ざっくりとした分量でできあがるこのレシピは、

Twitter発の人気漫画「夜廻り猫」(深谷かほる著)に出てくるものだ。

その名も「貧むす」。*1

 

「夜廻り猫」の筋立てを簡単に説明すると、

猫の遠藤平蔵が、「涙のにおい」をかぎ、

そのにおいをさせている人や動物から話を聞く、というもの。

「涙のにおい」であるから、そこには人生の悲喜こもごもが秘められている。

ときには、事情をはっきりと書かず、余韻を残すこともある。

基本は1話完結なので、どこから読んでも楽しむことができる。

 

「夜廻り猫」は、散発的にTwitterで目にしていたのだが、

良さがわかったのは、ある程度まとめて読んだときだった。

「涙のにおい」をさせているのは、たいてい、人生で報われなかった人たちだ。

 

たとえば、組織の不正を追求したものの、

結局は不正の罪をきせられて会社を追われ、

家庭も崩壊し、ホームレスになっている男性が出てくる回がある。

すべてを失い、絶望的な日々だろう。

それでも男性は遠藤の問いかけに、

「過去に戻ったら同じことをする」と断言する。

www.moae.jp

 

 

不正を追及した結果、ホームレスになるというのは、

遠い物語のようでいて、実は身近だと思う。

たったひとつのつまずきで、貧困に陥ることを、我々はニュースで見聞きする。

正義が勝つわけではないと、経験と伝聞から知っている。

この男性の“縮小版”ともいうべき物語は、身の回りに溢れている。 

正しさややさしさが報われるとは限らない世の中で、

それでもたったひとつ、

自分がやったことに誇りをもつことの美しさを、

この作品は提示してくれる。

それが、“落とし穴”におびえる人々には、光になる。

 

ネットを見ていると、真面目で優しく、

それゆえつぶされてしまう人が、世の中にこんなにいるのかと思う。

仕事を引き受けすぎたり、

振られた仕事を断れず、

心身を病んでしまう、というのもそのひとつだ。

そういった、頑張っている心優しき人々に、

「夜廻り猫」は届いたのかなと、遅まきながら気がついたのだった。

 

また、作品の随所に「今の感覚」が織り込まれているのも、

すぐれたところだと思う。

「貧むす」の回の主人公は、料理が不得意な女性だ。

彼と暮らし、料理は交代制。

彼は料理をしてくれるが、自分はできないので、

彼女の当番の日には、弁当などを買っている。

やっぱり料理が作れた方がよいのでは……と悩む女性に、

遠藤が教えるレシピが「貧むす」なのだ。

登場するカップルは、料理は交代制で、男性も料理をしている。

また、女性だから料理が作れる方がよい、とは提示されない。

人はあたたかいものを食べると元気になるから、

作れたほうよい、とこの作品はメッセージを送る。

ここには現代のジェンダー感覚が反映されている。

 

 

「貧むす」の回は、こちらから。 

www.moae.jp

 

この「貧むす」のように、料理を扱う回もあり、

(上記のセレクションはそのいった回を集めたもの)

思わず作りたくなる簡単なレシピが登場する。

作中、その簡単でおいしい料理を食べ、登場人物は癒やされていく。

我々は日々にそのレシピを取り入れ、それを簡単に追体験できるのだ。

(単純に、料理のバリエーションが増えるのもうれしいことだ)

 

「涙」だけではなく、

上記のセレクションにある、ツナと大葉のおむすびが出てくる

トーリーをはじめ、「笑い」で締める作品も織り込まれていて、

エピソードのバランスもよい。

 

人情、現代性、笑い、涙、寄り添い、共感。

そして、人間の活力の源となる食。

短い1回1回に、複数のものが詰まっている。

 

 

そんな「夜廻り猫」が、先日、「手塚治虫文化賞短編賞」を受賞。

Twitterからはじまり、書籍化、受賞。

人々に支持されてこその流れで、

初期からのファンの方々は、相当うれしかったのではないかと思う。

 

そんなことを、「貧むす」をほおばりながら思ったのだった。

 

最後に、わたしが一番好きなのは、この「わがままモネ」の回だ。

お母さんとお父さんの愛、モネの愛。

わたしはこれを読むと、心が締め付けられる。

(夫はこれを読んで「かわいいー!」と破顔していた)

www.moae.jp

 

*1:検索すると、「漫画に載っていたレシピ」との2010年の書き込みが見つかるので、正確には「夜廻り猫」以前からあるレシピの模様

三つの顔をもつ男

猫に相対するとき、夫は三つの顔を見せる。

 

たとえば。

土曜日、映画を見て終電近くなる。

そんなとき、商店街を横切る猫の姿。

見慣れないハチワレちゃんである。

我々夫婦は、わああ、とおよそ中年と思えぬ声をあげて、猫を追う。

夫は前にちらっと見た猫だ、この辺がテリトリーなのだと、すっかり興奮している。

短いしっぽをフリフリしながら、

駐輪場の塀の隙間に入っていったのを見て、我々も駐輪場に吸い込まれていく。

夜遅いとあって、駐輪場はガラガラだ。

伸びあがってのぞきこむと、まんまるの瞳がこちらを見ている。

街灯の光も届かぬ場所だが、瞳と、ハチワレの白い部分で、

輪郭がわずかに判別できる。

わああ、わああ、と言っているうちに、

猫は暗闇の奥へ消えていく。

「かわいかったねえ」

はじけるように、夫は目を輝かせる。

これが第一段階。

 

休日、お気に入りの保護猫カフェへ行く。

なんとなく、猫たちと馴染んだところで、夫がキャットタワーに近づく。

くつろぐ丸顔の白猫を、そっとなでる。

耳の間やら喉やらをなでて、猫がいい気分になったところで、

頭にそっと手を乗せて、耳を寝かす。

嫌がらない程度に、すっと手を離し、また、喉などやさしくなでている。

夫はこういった、猫の顔の「まるみ」を強調するのが好きなのだ。

猫をなでているときの夫は、ふふふと穏やかな顔をしている。

これが第二段階。

 

看板猫のいるお店や、保護猫がいる場所で、

「猫ちゃんを抱いてみますか」と提案してもらうことがある。

抱っこが好きな猫がいるときに、特別に、といったニュアンスだ。

ふたりでいても、そうすすめられるのは、たいてい夫だ。

そして実際、夫のほうが、猫を抱くのがうまい。

思い切って抱くので、しっかりとホールドされ、

猫も居心地良さそうである。

わたしも猫は好きだが、

「わたしに抱かれて嫌じゃないかしら」「抱かれ心地悪くないかな」

などとこわごわ抱くのが良くないのだと思う。

 

夫が猫を抱いているということは、猫が近くにいるということだ。

もちろん、ふたりとも、その最中は猫だけを見ている。

脳内には幸せを感じさせる何かが大量に分泌され、記憶は曖昧模糊となる。

しかし、写真を見ると、夫の目じりは下がり、口角は上がり、

実にうれしそうな表情をしている。

写真を見せると、夫自身、ひとしきり猫のかわいさをほめたあと、

「俺、とろけてるね……」と驚いていた。

これが第三段階。

 

常々、夫には猫に接したときのみに見せる

「猫専用顔」があると思っていたが、

同じ「うれしそう」「幸せそう」でも、

段階に応じて、明確なボーダーがあるのだ。

そう、最近気がついた。


いつか我々が猫を飼うことになったら、

ことにそれが二匹以上であったなら、

第一、第二、第三段階までが同時に起こりえるわけだ。

そのとき、夫はどうなってしまうのだろう。

ずっととろけ顔になるのだろうか……などと、

ついつい考えてしまうのだった。

やるしかないのだ、何度でも

 

いきなりだが、わたしはいちおう、妊娠を希望している。

そのため、基礎体温を記録している。

基礎体温とは(知っている人も多いと思うが)、

起き抜けに体温計をくわえて測るあれだ。

専用の体温計を使うことで、日々の細かな体温の変化を記録することができる。

 

基礎体温は、起き抜け、目覚めて体を動かす前に測ることが必要だ。

体を起こすと、体温が上昇してしまい、繊細な変化がわからなくなってしまう。

 

目が覚めて、何かを口にくわえて測る。

これだけのことなのに、続けることが存外、難しい。

アラームをかけるとまず忘れないのだが、

土日に解除を忘れることが多い。

そうすると夫が目を覚ましてしまってしのびないので、

アラームを切ってしまった。*1

 

たびたび測り忘れるため、

スマートフォンに入れた妊活アプリの「基礎体温」の欄はぬけぬけだ。

強引にグラフにはしてくれるが、

果たしてこんなデータで何か意味があるのかと思ってしまう。

 

計測を忘れると凹む。

基礎体温の欄に入力された体温が、飛び飛びだと凹む。

 

ただ、最近気がついたことがある。

凹むと、忘れる確率が上がる。

失敗を気に病むことなく、「明日きっちり測れるようにしよう」と思うほうが、

成功率が高くなる。

 

凹むと、ついつい失敗から目を背けたくなる。

そうすると、なんとなく、基礎体温計を見ることも、

妊活アプリを開くこともおっくうになってくる。

 

あまりにも忘れるので、最近、こう思って開き直るようになった。

たとえばわたしが1年間基礎体温をきっちり測りつづけることができたとして、

その1日目は今日かもしれない。

明日かもしれない。

とにかく、今日は測る、それを繰り返すしかない。

明日は忘れても、明後日にまた測るしかない。

昨日忘れて、今日は測って、明日はまた忘れるかもしれないけれど、

とにかく、今日、測るしかない。

そして、今日は測れた、その成功には意味がある。

 

そう考えてからのほうが、

カレンダーの基礎体温欄が埋まっていることが増えた。

そして、5日でも続いていると、「よくやったな」とニヤニヤしてしまう。

数日続くだけでも、何かを日々記録して、「見える化」することの楽しさもある。

そうすると、また、明日も測ろう、測りたいという気持ちになる。

 

そこで思い出したのが、昔読んだ、

スタンフォードの自分を変える教室」という書籍の内容だった。

大変に自己啓発的な、

人によってはうさんくさいと思われるようなタイトルだが、

内容はどこまでも現実的だ。

この本の大きなテーマは、「意思を強くもつにはどうしたらよいか」。

 

たとえば、「何かを我慢する」にはどうしたらよいか。

「何かを我慢する/成し遂げるとき、意思の力だけでは決して成功しない」

「何かを我慢する/成し遂げることをしたければ、環境を整えること」と本書は説く。

ダイエットしたいが、毎日クッキーを食べてしまう……という人は、

クッキーを身近に置かないこと。

クッキーを手近に置いて、「我慢するぞ~」と言っていると成功率は低い。

そういう話が、実験のデータとともに語られている。

 

なかでも印象的だったのは、

「失敗したとき、自分を責めたり罰することには意味がない。

それどころか、さらに失敗する可能性が上がる」

ということ。

ダイエットに失敗して、甘いケーキを食べてしまったとき。

「なんで食べたの、わたしのバカ!」

などと考えていると、やけっぱちになって、

かえってドカ食いに走るケースが多い。

これも、実験で立証されている。

自分を責めず、

ケーキを遠ざける環境を作るか、

「明日からまた絶とう」と気持ちを切り替えた方が、

かえって上手くいくというのだ。

いつもすべてが上手くいくわけではない人生のなか、

自分をコントロールする術をエビデンス付きで学べる、興味深い内容だった。

 

スタンフォードの自分を変える教室」の内容はすっかり忘れていたのだが、

これはまさにあの本に書いてあったことではないか。

基礎体温表を見ながら、そう気がついたのであった。

 

本当に小さな小さなことだが、

いろいろなことに気を回すのが苦手なわたしにとっては、

基礎体温をつける」というよぶんな習慣を身につけることは、負担だった。

「こんな小さな習慣も継続できない自分」に落ち込み、

「きっとほかの女の人に話したら笑われるだろう」と自信を失っていた。*2

自信は行動の源泉になるものだ。

自信を失うと、上手くできないことが増え、

また自信を失うという悪循環に陥っていく。

 

人よりできない自分であっても、

くらべたり、責めることには意味がない。

何事も、自分のペースで、今日一日をやっていくしかない。

何より、責めることやめたほうが、

生活の質も上がり、前向きに物事に取り組んでいられる。

これは、大きなことも小さなことも、同じだろう。

めんどうくさく、少々苦痛であった基礎体温は、

そんなことを教えてくれたのだった。

 

しまいこんだままの「スタンフォードの自分を変える教室」を、

もう一度読み返してみたいなと思っている今日この頃である。

 

 

スタンフォードの自分を変える教室 (だいわ文庫)

スタンフォードの自分を変える教室 (だいわ文庫)

 

 

*1:本当は、決まった時間に測るのが理想なので、アラームを平日も土日もかけっぱなしでいるのがよいのだが、下手をすると眠りが深いわたしは目を覚まさず、夫だけが睡眠を邪魔されることになる

*2:ほかの女の人どころか、結局、こうしてこの事実を全世界に公開しているわけだが

夢の永久機関、その名は豆苗

鍋物ざんまいだった冬。*1
苦しまぎれの中華鍋に、豆苗を入れたときだった。
「豆苗って、家で栽培できるんだって!」と夫が興奮気味に言った。
好奇心旺盛な夫は、豆苗のパッケージをふんふんと読んでいた。
そして、「水につければ収穫できます」と、
ご丁寧に「豆の上からカット→ふたたび豆から芽が出てくる」イラスト付きで
解説されているのを見てしまったようだ。

わたしとて、過去に豆苗のひとつやふたつ、再生栽培したことがないではない。
しかし、なんとなく風味が落ちる、あるいはエグみが出る。
夏場は豆にカビが生えるなどの理由で、今は好んで挑戦はしない。

そう話すと、夫は
「へえ、そうなんだー。平凡ちゃんが嫌ならやめておこう」と聞き分けよく答えていた。

しかし、一緒にスーパーに行くと、夫は豆苗を手に取る取る。
「豆苗って、もう一回収穫できるんだよー」
「これって永久機関じゃない?」
「すごいよ、袋に書いてあるんだよ! 商売あがったりなのに!」
とまくしたてる。
夫はわたしの言ったことを簡単に忘れる男ではない。
とくに、嫌がることは注意深く覚えている。
その夫が、豆苗を買って栽培したいという。
「豆苗の再生栽培に関しては、クリティカルな嫌がりではない」
「押せばいける」と判断しているのだ。
そして、それはその通りなのであった。
ぐぬぬ
見透かされている。

スーパーに行くたびに目をキラキラさせている夫に根負けして、わたしは豆苗を購入した。
季節は春になっていた。
ちょうど余っていた駅弁の空き箱がジャストサイズなので、それを使って再生栽培をはじめた。

気温が低いころは、芽がのびるまでに、5日ほどかかった。
5センチほど伸びたところでカットし、鍋物に入れることにした。
夫は豆苗をキッチンバサミで切りながら、
「お相撲さんの断髪式みたいだね……」とうれしそうにしていた。
伸びるといっても、売り物のように太くしっかりはしていない。
まあしかし。
窓辺でわずかとはいえ、何かを収穫できるのは、
育てる喜びもあるし、来るべき食糧難への対抗策として、心強くもあった。
水をこまめに換えたおかげか、頼りない食感ではあるものの臭みはなく、
豆苗はそこそこおいしくいただけたのだった。

さらに5日ほど再生栽培を続け、2回目は、味噌汁に入れた。
歯ごたえもボリュームも、売り物にははるかに及ばない。

私はふたたび豆苗を購入し、鍋に使った後、再生栽培を試みた。
その頃には、春もたけなわ、だいぶ暖かくなっていた。
豆苗は、3日ほどでわさわさと伸びる。
材料を深く考えて料理する余裕がない日が続き、ほうっておくと、
さらにわっさわっさと生い茂り、シンクのほうまで垂れ下がってきた。
豆苗を使う機会がないまま、さらに土日で家を空ける。
もはや絡まり合い、もつれ合い、どこから切ってよいかわからない。
水もどんどん吸う。
容器がジャストサイズなこともあり、1日2回の水換えでも追いつかない。
さらに、小さな羽虫が豆苗を隠れ蓑にすることが判明。
けっして「わく」わけではないのだが、あまり気分のよいものではない。
暖かい時期は、あらゆる意味でコントロールが難しいと思いいたり、再生栽培を打ち切ったのであった。

結局、夫婦で至った結論はこうだ。
豆苗の再生栽培で、それなりにおいしくいただけるのは、おそらく1~2回だろう。
ベースの「豆」から栄養を得ているので、限界がある。
しかし、栽培の楽しさがあるので、収穫が終わればまた新しいパッケージを買ってしまう。
また、再生栽培後だと、パッケージの豆苗が、いかに完璧かがわかる。
完璧な豆苗を楽しみ、栽培を楽しみ、また完璧な豆苗が恋しくなり……。
豆苗は、永遠に収穫できる永久機関とはいえないが、
マーケティングとしてはかなり強い継続購入力があるのでは? 
だから、パッケージで再生栽培を促しても、「商売あがったり」にはならない。
「うまくできているねえ」と、夫も納得したようすで、めでたし、めでたし。

我が家の豆苗ブームは去った。
と同時に、鍋物頼りができるシーズンも去った今、
これから食卓をどうしようか……と考えている初夏である。

*1:最低限、野菜を切って適当なスープに投入するだけで完成するのだから、共働きにもやさしい料理といえよう