平凡

平凡

やるしかないのだ、何度でも

 

いきなりだが、わたしはいちおう、妊娠を希望している。

そのため、基礎体温を記録している。

基礎体温とは(知っている人も多いと思うが)、

起き抜けに体温計をくわえて測るあれだ。

専用の体温計を使うことで、日々の細かな体温の変化を記録することができる。

 

基礎体温は、起き抜け、目覚めて体を動かす前に測ることが必要だ。

体を起こすと、体温が上昇してしまい、繊細な変化がわからなくなってしまう。

 

目が覚めて、何かを口にくわえて測る。

これだけのことなのに、続けることが存外、難しい。

アラームをかけるとまず忘れないのだが、

土日に解除を忘れることが多い。

そうすると夫が目を覚ましてしまってしのびないので、

アラームを切ってしまった。*1

 

たびたび測り忘れるため、

スマートフォンに入れた妊活アプリの「基礎体温」の欄はぬけぬけだ。

強引にグラフにはしてくれるが、

果たしてこんなデータで何か意味があるのかと思ってしまう。

 

計測を忘れると凹む。

基礎体温の欄に入力された体温が、飛び飛びだと凹む。

 

ただ、最近気がついたことがある。

凹むと、忘れる確率が上がる。

失敗を気に病むことなく、「明日きっちり測れるようにしよう」と思うほうが、

成功率が高くなる。

 

凹むと、ついつい失敗から目を背けたくなる。

そうすると、なんとなく、基礎体温計を見ることも、

妊活アプリを開くこともおっくうになってくる。

 

あまりにも忘れるので、最近、こう思って開き直るようになった。

たとえばわたしが1年間基礎体温をきっちり測りつづけることができたとして、

その1日目は今日かもしれない。

明日かもしれない。

とにかく、今日は測る、それを繰り返すしかない。

明日は忘れても、明後日にまた測るしかない。

昨日忘れて、今日は測って、明日はまた忘れるかもしれないけれど、

とにかく、今日、測るしかない。

そして、今日は測れた、その成功には意味がある。

 

そう考えてからのほうが、

カレンダーの基礎体温欄が埋まっていることが増えた。

そして、5日でも続いていると、「よくやったな」とニヤニヤしてしまう。

数日続くだけでも、何かを日々記録して、「見える化」することの楽しさもある。

そうすると、また、明日も測ろう、測りたいという気持ちになる。

 

そこで思い出したのが、昔読んだ、

スタンフォードの自分を変える教室」という書籍の内容だった。

大変に自己啓発的な、

人によってはうさんくさいと思われるようなタイトルだが、

内容はどこまでも現実的だ。

この本の大きなテーマは、「意思を強くもつにはどうしたらよいか」。

 

たとえば、「何かを我慢する」にはどうしたらよいか。

「何かを我慢する/成し遂げるとき、意思の力だけでは決して成功しない」

「何かを我慢する/成し遂げることをしたければ、環境を整えること」と本書は説く。

ダイエットしたいが、毎日クッキーを食べてしまう……という人は、

クッキーを身近に置かないこと。

クッキーを手近に置いて、「我慢するぞ~」と言っていると成功率は低い。

そういう話が、実験のデータとともに語られている。

 

なかでも印象的だったのは、

「失敗したとき、自分を責めたり罰することには意味がない。

それどころか、さらに失敗する可能性が上がる」

ということ。

ダイエットに失敗して、甘いケーキを食べてしまったとき。

「なんで食べたの、わたしのバカ!」

などと考えていると、やけっぱちになって、

かえってドカ食いに走るケースが多い。

これも、実験で立証されている。

自分を責めず、

ケーキを遠ざける環境を作るか、

「明日からまた絶とう」と気持ちを切り替えた方が、

かえって上手くいくというのだ。

いつもすべてが上手くいくわけではない人生のなか、

自分をコントロールする術をエビデンス付きで学べる、興味深い内容だった。

 

スタンフォードの自分を変える教室」の内容はすっかり忘れていたのだが、

これはまさにあの本に書いてあったことではないか。

基礎体温表を見ながら、そう気がついたのであった。

 

本当に小さな小さなことだが、

いろいろなことに気を回すのが苦手なわたしにとっては、

基礎体温をつける」というよぶんな習慣を身につけることは、負担だった。

「こんな小さな習慣も継続できない自分」に落ち込み、

「きっとほかの女の人に話したら笑われるだろう」と自信を失っていた。*2

自信は行動の源泉になるものだ。

自信を失うと、上手くできないことが増え、

また自信を失うという悪循環に陥っていく。

 

人よりできない自分であっても、

くらべたり、責めることには意味がない。

何事も、自分のペースで、今日一日をやっていくしかない。

何より、責めることやめたほうが、

生活の質も上がり、前向きに物事に取り組んでいられる。

これは、大きなことも小さなことも、同じだろう。

めんどうくさく、少々苦痛であった基礎体温は、

そんなことを教えてくれたのだった。

 

しまいこんだままの「スタンフォードの自分を変える教室」を、

もう一度読み返してみたいなと思っている今日この頃である。

 

 

スタンフォードの自分を変える教室 (だいわ文庫)

スタンフォードの自分を変える教室 (だいわ文庫)

 

 

*1:本当は、決まった時間に測るのが理想なので、アラームを平日も土日もかけっぱなしでいるのがよいのだが、下手をすると眠りが深いわたしは目を覚まさず、夫だけが睡眠を邪魔されることになる

*2:ほかの女の人どころか、結局、こうしてこの事実を全世界に公開しているわけだが

夢の永久機関、その名は豆苗

鍋物ざんまいだった冬。*1
苦しまぎれの中華鍋に、豆苗を入れたときだった。
「豆苗って、家で栽培できるんだって!」と夫が興奮気味に言った。
好奇心旺盛な夫は、豆苗のパッケージをふんふんと読んでいた。
そして、「水につければ収穫できます」と、
ご丁寧に「豆の上からカット→ふたたび豆から芽が出てくる」イラスト付きで
解説されているのを見てしまったようだ。

わたしとて、過去に豆苗のひとつやふたつ、再生栽培したことがないではない。
しかし、なんとなく風味が落ちる、あるいはエグみが出る。
夏場は豆にカビが生えるなどの理由で、今は好んで挑戦はしない。

そう話すと、夫は
「へえ、そうなんだー。平凡ちゃんが嫌ならやめておこう」と聞き分けよく答えていた。

しかし、一緒にスーパーに行くと、夫は豆苗を手に取る取る。
「豆苗って、もう一回収穫できるんだよー」
「これって永久機関じゃない?」
「すごいよ、袋に書いてあるんだよ! 商売あがったりなのに!」
とまくしたてる。
夫はわたしの言ったことを簡単に忘れる男ではない。
とくに、嫌がることは注意深く覚えている。
その夫が、豆苗を買って栽培したいという。
「豆苗の再生栽培に関しては、クリティカルな嫌がりではない」
「押せばいける」と判断しているのだ。
そして、それはその通りなのであった。
ぐぬぬ
見透かされている。

スーパーに行くたびに目をキラキラさせている夫に根負けして、わたしは豆苗を購入した。
季節は春になっていた。
ちょうど余っていた駅弁の空き箱がジャストサイズなので、それを使って再生栽培をはじめた。

気温が低いころは、芽がのびるまでに、5日ほどかかった。
5センチほど伸びたところでカットし、鍋物に入れることにした。
夫は豆苗をキッチンバサミで切りながら、
「お相撲さんの断髪式みたいだね……」とうれしそうにしていた。
伸びるといっても、売り物のように太くしっかりはしていない。
まあしかし。
窓辺でわずかとはいえ、何かを収穫できるのは、
育てる喜びもあるし、来るべき食糧難への対抗策として、心強くもあった。
水をこまめに換えたおかげか、頼りない食感ではあるものの臭みはなく、
豆苗はそこそこおいしくいただけたのだった。

さらに5日ほど再生栽培を続け、2回目は、味噌汁に入れた。
歯ごたえもボリュームも、売り物にははるかに及ばない。

私はふたたび豆苗を購入し、鍋に使った後、再生栽培を試みた。
その頃には、春もたけなわ、だいぶ暖かくなっていた。
豆苗は、3日ほどでわさわさと伸びる。
材料を深く考えて料理する余裕がない日が続き、ほうっておくと、
さらにわっさわっさと生い茂り、シンクのほうまで垂れ下がってきた。
豆苗を使う機会がないまま、さらに土日で家を空ける。
もはや絡まり合い、もつれ合い、どこから切ってよいかわからない。
水もどんどん吸う。
容器がジャストサイズなこともあり、1日2回の水換えでも追いつかない。
さらに、小さな羽虫が豆苗を隠れ蓑にすることが判明。
けっして「わく」わけではないのだが、あまり気分のよいものではない。
暖かい時期は、あらゆる意味でコントロールが難しいと思いいたり、再生栽培を打ち切ったのであった。

結局、夫婦で至った結論はこうだ。
豆苗の再生栽培で、それなりにおいしくいただけるのは、おそらく1~2回だろう。
ベースの「豆」から栄養を得ているので、限界がある。
しかし、栽培の楽しさがあるので、収穫が終わればまた新しいパッケージを買ってしまう。
また、再生栽培後だと、パッケージの豆苗が、いかに完璧かがわかる。
完璧な豆苗を楽しみ、栽培を楽しみ、また完璧な豆苗が恋しくなり……。
豆苗は、永遠に収穫できる永久機関とはいえないが、
マーケティングとしてはかなり強い継続購入力があるのでは? 
だから、パッケージで再生栽培を促しても、「商売あがったり」にはならない。
「うまくできているねえ」と、夫も納得したようすで、めでたし、めでたし。

我が家の豆苗ブームは去った。
と同時に、鍋物頼りができるシーズンも去った今、
これから食卓をどうしようか……と考えている初夏である。

*1:最低限、野菜を切って適当なスープに投入するだけで完成するのだから、共働きにもやさしい料理といえよう

近所のお祭り、その名状しがたきよろこびよ

近所の商店会が、何か小さな催しをやるという。

入場料に500円を取り、ちょっとした屋台で焼きそばやたこ焼き、焼き芋などを食べさせるらしい。

入場料? 手作りの会で、一律取るのだろうか。

そして、チラシを見ても、食べ物が有料なのか無料なのかわからない。

「お楽しみの出し物」とあるものの、何をやるのか判然としない。

場所もなんてことない駐車場である。

わからない尽くしだが、近所なのでふらりと夫婦で足を運ぶ。

 

肌寒い春の曇天、運動会で校庭に建ててあるような白い屋根のテントがいくつか並んでいた。

つま先立ちになって見てみると、どうも焼きそばなど、食べ物を出す屋台が見える。

入り口には受付らしきものがあるのものの、何も払わずに入場する人がいる。

よくわからないので聞いてみると、

スタッフが「会場を見るだけならタダ、食べ物を買うならまた別」と言うので、

とりあえず会場をぐるりと見てみる。

数や量はだいぶ減っているものの、焼き芋や焼きそば、たこ焼きなどはまだ買えそうだ。

我々は小腹が減っていた。

入り口に戻って「食べ物も買いたい」と告げると、100円×5枚つづりのチケットを買うことができた。

500円とは入場料ではなく、このチケットを指すらしい。

正確には、チケットは6枚つづりで、“通貨”ではない残り1枚には通し番号がふってあり、

「後から抽選があるのでこれは大切に」と言われたのだった。

 

屋台といってもテキヤではなく、近所の人が大きなホットプレートなどを持ち寄って調理している。

焼きそばにはきちんと肉やキャベツ、もやし、桜エビまで入っていたし、

たこ焼きにも大ぶりのタコが入っていた。

おでんは昆布の出汁がしっかりとしみて、なかなかの味だ。

そういった、お祭りでよく食べるフード類が、

100円のチケットでちょこっとずつ買える。

これは楽しい。

 

やがて、何をやっているかまったくわからなかった手品が終わり(何しろ舞台も何もなく、駐車場のすみっこで披露しているのだ)、

抽選会がはじまった。

当たるのは商店会で使える金券だ。

ダララララララララとドラムロールが鳴り響く音楽が流され、

商店会のおっちゃんらしき人が、くじを引きつつ、

「これは若い番号ですね、10番、10番の人~!」とマイペースに読み上げていく。

呼ばれた番号の人が名乗り出なかった場合は、

「それでは5、4、3、2……」とカウントして「無効です!」と無慈悲に次の番号を引く。

このカウントが楽しいらしく、周囲の子どもたちがいっしょに「5、4、3……」と声を合わせる。

当たったら、盛大にアピールしないと見逃されるため、当選者は、皆、すごい勢いで手を挙げ声をあげ走っていく。

子どもたちも、「(当たった人)いるよ!」と協力する。

どうも主催者側で参加しているという感覚が楽しいらしい。

我々も、「当たったらふたりで手を挙げて『やったー!』と喜びを表し、夫が走ることにしよう」と

当選時の打ち合わせ及び、シミュレーションをする。


当たった人が名乗り出ると、「チャラララッララ~」と、

いかにも当選、という効果音が鳴る。

抽選時のあおり音楽も、この当選音も、懐かしい。

こんなものをよく見つけてきたなと思う。

 

番号がひとつずつ読み上げられ、手元のチケットの番号を確認する。

実にシンプルなイベントなのだが、これが案外、燃える。

聞き逃したら無効になってしまうので、自然と緊張感が生まれる。

近くのパイプ椅子に腰を下ろしたおじいさんは、計5枚分を真剣な目で見つめ、

番号が読み上げられるたび、かすかに残念さをにじませる。

我々も、たった1枚を手に、一喜一憂する。

 

結局、わたしたちの番号が読み上げられることは最後までなく、

参加賞のティッシュだけもらって帰ったのだった。

 

手作り感溢れる、バザーのような、学園祭のような小さな催し。

それがなぜこんなに楽しいのか、説明は難しい。

小さいゆえに、手作りなゆえに、シンプルな仕組みゆえに、

一体感が生まれる。

なんだか、ワクワクしてしまう。

 

名状しがたきそのよろこびを胸に、我々は

「来年は早めに行き、2組チケットを買って絶対に当てよう」

「焼き芋がもう売り切れていたので、来年こそは絶対に食べよう」

と、鬼が笑いそうな算段をしつつ、家に帰りついたのだった。

部活動、そのロールプレイと癒し

運動はとんとできない子どもであった。

暗い顔で、本ばかり読んでいた。

 

そんなわたしが大学に入ってすぐ、部活動に入った。

大学公認の、純然たる体育会系である。

比較的新しい競技なので、ややゆるい雰囲気ではあるものの、

それなりのしごきもある。

先輩後輩の縦社会、校歌は全部覚えて節目に斉唱。

飲み会ではラベルを上にお酌が必須。

周囲はおおいにびっくりした。

 

大学から知り合った友人たちは、

当時、わたしがボーイッシュなショートカットだったので、

「運動神経がいい、俊敏なタイプなんだろう」と思ったらしい。

が、なんでもない道路でつまづいたりしているのを見て、

「これはそういうわけでもなさそうだ」と次第に悟っていった。

 

 

わたしだって、最初から、

「先輩に会ったら『こんにちは!』と(大声で)挨拶する」

「罰の筋トレ百回」

みたいな世界に入りたかったわけではない。

サークルで、フワフワ浮ついた生活を楽しみたかった。

しかし、足を運んだサークルは、どうにも落ち着かなかった。

だいたい、1か月前まで眉を八の字にして本ばかり読み、

男子とロクに口をきいたこともないわたしが、

どうやってキャッキャと浮ついた会話をしようというのか。

クラスメイトとも違う、微妙な年齢グラデーションのある任意参加の団体で、

どう振る舞えばよいのか、そのすべをわたしはまったくもたなかった。

そのすべをもたないことに気づかないほどに、わたしは無知だった。

 

そんなときに、サークルに来ていた男の子から、

とある競技を見学しようと誘われた。

それは前から興味があるものだったので、二つ返事でOKした。

サークル、部活といろいろ回って、結局、部活が一番落ち着いた。

 

当時は、「やる気があるから、入部したいんだ」と思っていた。

しかし、今ならわかる。

サークルと違って、先輩だからこう、後輩だからこう振る舞うと、

ロールプレイがはっきりしている縦社会の関係性が、居心地がよかったのだ。

サークルでは、在籍意図はさまざまだ。

その団体の主たる活動を目的とする者(たとえばテニスサークルならテニスを思い切りやりたいタイプ)、

恋愛を目的とする者、

なんとなくの居場所を求める者などが存在する。

一方で、部活動では目的は単一だ。*1

その競技にがっつり励み、取り組み、結果を出すこと。

それぞれの能力や競技へのスタンスには差はあれど、

団体としてのカラーはパッキリしている。

それが楽だったのだ。

 

そもそも、大学というのはとても自由な場だ。

学び方から、何を生活のメインに据えるか、自分で決めていかねばならない。

部活動は、それもはっきりさせてくれた。

講義が終わったら、即部活。

そこにはわたしのアイデンティティも用意されている。

何々部の、1年生。

だから練習場を掃除もするし、先輩の言いつけにはハイと答える。*2

 

入部にさいしては、己のポテンシャル以外にも、不安はあった。

大学受験前後、わたしは体調を崩していた。

下宿を決めるための上京予定日に嘔吐して以来、

貧血気味で、胸や胃のむかつきがひどく、90分の講義中座っているのがやっとだった。

そのうえ情緒不安定で、夜中まで眠れない日も多かった。

それでも、体験入部中、練習場で声を出したり、運動をしていると、

夜よく眠れたし、貧血も少しずつ改善していった。

型にはまる心地よさは、アイデンティティだけではなく、

規則正しい生活という形でも発揮されたのだった。

 

部活では、少ない女子部員ということで重宝はされたが、まあお荷物だった。

それでも皆、弱いわたしを弱いなりに受け入れてくれた。

 

いろいろなことがあった。

部活動を辞めようとしたこともあった。

それでも4年間競技を続けて、最後の試合を終えたとき、

自分でも予想しえなかった自信をもてた。

気後れしてうまく話せなかった、とても強い女性の先輩と、

会話ができるようになって、驚いた。

最後の試合後に撮った写真を、長らくわたしは手帳に入れて持ち歩いていた。

最後まで負けて、負けて、勝てなくてくやしかったけれど、

それでもそこでのわたしは、ハタチを越えた人間と思えないほどの笑顔を見せている。

 

今にして思えば、上京したときのわたしはボロボロだった。

その少し前まで希死念慮にとりつかれ、毎日ただ生きるのに必死だった。

当時は、病院に行こうという発想はなかった。

そんななかで、部活動でのロールプレイは、有効な回復手段だったのではないか。

ロールプレイは、考えることや選択肢を減らしてくれる。

よけいなことを考えなくてもよい。

ぐちゃぐちゃになった自我に、とりあえず容れ物を与えてくれる。

それはもちろん、危険なことでもあるのだが、

肉体を傷つけたり、搾取したり、理不尽なことを求められない限りは、

精神の安定には有効なのだと思う。

 

大学生活、部活動ばかりに傾注しすぎたなと思うことはある。

ただ、入部しなければ、その後の人生は今より悪くなっていただろう。

 

 

今、わたしの体は固く、体力もなく、当時のおもかげはまるでない。

根性とも無縁だ。

それでも何か、ドロドロ溶けていたわたしに、

部活動というロールプレイが与えてくれた輪郭のなにがしは、

わたしの中に残っている。

その輪郭は、今ではすっかりとフィットして、

何か、「わたし」としか言えない形になっているけれど。

 

今週のお題「部活動」

*1:少なくとも表向きは

*2:先輩方もそうそう理不尽なことも言わない空気があったので言えることだと思う

フリーランス駆け出し時代を支えてくれたのは、ビビッドなピンクのケータイだった

特別お題「おもいでのケータイ」

 

フリーランスになって1年目のころ。

収入の不安定さ以上にこたえたのは、人とコンスタントに話すことのない生活だった。

会社に行って、好むと好まざるとにかかわらず、他人と話す。

そのことが、いかに貴重なことかを知った。

孤独以上に恐ろしかったのは、言葉が日々、自分の中から抜けていくような感覚だ。

それはテレビを見ても、本を読んでも補うことができないものだった。

人と話さねば。

 

そんなわけで、わたしは、週末のみの日雇いのバイトをはじめた。

チラシやバイト情報誌などを配る系もやったが、長続きしたのは、携帯電話の売り子だった。

家電量販店や携帯ショップの店頭で、ケータイを見ていると、「その新型は使いやすいですよ~」なんて声をかけてくる、あれ。

店頭で、「最新の機種が発売されました~。ただいまキャンペーン中です~」などとマイクアナウンスをしている、あれ。

 

研修(時給あり、交通費支給)で新機種や、キャリア(通信会社)が提供する新しいサービスを頭に叩き込み、新しいケータイをご案内。

最初はしどろもどろだったが、経験を積むうち、知識も蓄積していく。

毎週末、違う現場に派遣されて、知らないお客様と話す。

アレコレ要望を聞きつつ、1台が売れるとうれしかったし、

「ご通行の皆さん~~! 今日! 今日だけのお得なキャンペーンがあるんです!」なんてマイクアナウンスを工夫して、耳目を集めるのもなかなかに楽しかった。

 

10年前のことなので、お客様との具体的エピソードを書いてしまうと、

「ケータイはピンクに決めているんです」という若い男性のお客様が来店されたことがあった。

当然、ピンクのケータイをいくつかご案内した。

「これ! これです! こういう上品な色合いを求めていたんです」とお買い上げになったのが、

FOMA SH904iのプレミアムピンクだった。

FOMA SH904i サポート情報 | お客様サポート | NTTドコモ

納得のいくピンクが見当たらない時期もあるとのことで、大変に喜んでいらした。*1

 

そんなわたしが当時使っていたケータイは、N904iのソーダピンク。

Alessiのステファノ・ジョバンノーニがデザインしたモデルだ。

FOMA N904i サポート情報 | お客様サポート | NTTドコモ

この色の見本もお見せしたところ、

「そういうんじゃないんです! なんていうか! もっと! 上品な……」とおっしゃった。

ソーダピンクはとてもハッキリした色合いで、

角が丸くなったフォルムとあいまって、ビビッドな印象があった。

 

フリーランスになりたてのころの漠然とした不安、

❝売り子スイッチ❞を入れたときのアッパーな楽しさ、

やっと入った本業仕事のアウトラインを、

バイトの休憩時間にケータイをポチポチ打って考えていたときの興奮。

今ではぼんやりとしてしまった記憶のなかで、

このソーダピンクだけがビビッドだ。

 

やがて本業が忙しくなって、携帯の派遣バイトはきっかり1年で辞めた。

ソーダピンクのN904iを通じて、いくつもの仕事を受けた。

出先で、いろんな連絡をした。

GPS機能付きだったので、地図アプリは重宝した。

持ち合わせがないとき、おサイフケータイに助けられた。

やがて気に入っていたソーダピンクがハゲハゲになり、

「ずいぶん古いケータイを使っているんですね」と言われるようになり、

さらに「スマホじゃないんですか」と驚かれるようになってもなお使い続け、

フリーランス6年目ぐらいでスマートフォンに持ち替えた。

 

二つ折りのケータイが、「ガラケー」と呼ばれる前の時代と、

フリーランス駆け出しのころの記憶。

角が丸っこい、イタリアン・デザインのケータイは、その象徴だ。

だから、わたしの「おもいでのケータイ」はN904i

N904iの、ビビッドなソーダピンク。

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sponsored by KDDI

*1:

今はすっかりとスマートフォンの世の中になってしまったが、ピンクの機種は少ない。

ああいったメタリックなピンクはほんとんど見かけないし、iPhoneだと別の色を使わざるをえないだろう。

ネクタイも上品な桜色だったあの男性は、どんな色のスマートフォンを使っているのだろうとときどき考える。

イマドキはカバーやケースでなんとかなってしまうのかもしれない。

フィーチャーフォンガラケー)を使っている可能性もあるけれど。

 

人生はティラミスのように苦くて甘く、記憶はホロホロと崩れてゆく

ティラミス、という食べ物がある。

生地は、エスプレッソが染みこませてあって、苦い。

その間に挟まれたカスタード状のクリームやマスカルポーネチーズは、甘い。

甘い、苦い、甘い、苦い。

ひとつのお菓子のなかに、その繰り返しがある。

生地はホロホロと崩れやすい。

 

人生もそうだな、と思うことがある。

 

さて、わたしは思春期の一時期、古い木造アパートに暮らしていた。

寝起きしていたのは、何もないひと部屋。

朝起きて、母が出してくれる味噌汁とご飯を食べ、

NHKのニュースを見て、7時7分発の普通電車に乗って登校する。

夕方には学校から帰る。

家には何もないので、勉強をするか、図書室から借りた本を読む。

その後は、母のしたくしてくれた夕飯を食べる。

これまた何もすることがないので、早めに床に就く。

が、情緒不安定になってめそめそ夜中まで泣く。

目を泣きはらさないよう、こまめに顔を洗う。

 

それは、わたしの実家たる家庭が崩壊した後の日々であり、

父のもとで暮らしていたわたしが、

母のもとへ居を移したのは、

あまりにも不摂生な暮らしから、

体重が極端に減り、貧血を起こして学校で倒れたからだった。

 

不規則の極みのような生活から、パターン化された規則正しい暮らしへ。

❝型❞にのっとった生活のなかには、肉体が回復していく安心感があった。

 一方で、家庭崩壊の影響は尾を引き、精神は安定しなかった。

 

ある夜、かなしくてかなしくて、部屋を出た。

だいぶ寒かったけれど、わたしはぺたぺたと裸足で歩いた。

何かで足を切ってもかまわない、と思った。

月がさえざえと明るいものの、星の瞬きもまた、よく見えた。

夜空は色あせたビロードのような色をしていた。

どこからかよい香りがする。

あたりを見回すと、路地ぞいの生垣に、白く小さな花をたくさんつけた木があった。

沈丁花だった。

甘い香りと月の光が混然一体となって、清らかにあたりを満たす。

それまで心を乱していたものを忘れ、

わたしは月夜と沈丁花を包む静けさに身をゆだねた。

沈丁花がここにいてくれて、よかった。

そんなふうに思った。

 

そのころ、何もない部屋でどうやって勉強をしていたかというと、

細いパイプとベニヤ板で作った机だった。

母の再婚相手であった❝おじちゃん❞が作ってくれた。

わたしはその机が好きだった。

 アパートの仮住まい感にぴったりだったし、

パイプの無骨さが、当時ハマっていたサイバーパンクっぽくないか、なんて思っていた。

 

その後、精神のぐらつきはじょじょに強くなった。

心の中を、蟻にすこしずつ食われていくように感じ、

頭の中で暗い未来がえんえんと流れ続けていた日々、

この苦しみの外にいけるなら、なんでもいいと思った瞬間。

その瞬間の強い恐怖。

人を死へと追いやる暗い道の、ぬかるんだにおい。

 

人生でもっとも苦く、生き抜くだけで精いっぱいだった日々。

しかし、あのアパートでの暮らしには、

不思議と甘やかな思い出がちりばめられている。

 

あの沈丁花は、とっくに切り倒されてしまった。

パイプとベニヤの学習机は、引っ越すときに捨ててしまった。*1

それを作ってくれた人も、もうこの世にいない。

 

苦い、甘い、苦いと積み重なって、人生のある一時期の思い出が、心にパッケージされている。

わたしはときどき、そのティラミスを引っ張り出す。

年々、記憶も、記憶を構成していた事物もどこかへ去ってしまい、

生地はホロホロと崩れやすくなっていく。

 

今年も沈丁花が香る。

引っ張り出すまでもなく、ティラミスはわたしの前に置かれている。

苦い、甘い、苦い、甘い。

その繰り返しの合間に、沈丁花の香りが絶え間なく流れ込んできて、

なんだか胸がくるしい。

 

苦い、甘い、くるしい。

いつまでわたしはこのティラミスを食べなければならないのか。

いや、いつまで食べられるのか。

苦さも甘さもくるしさも、きっと永遠ではない。

そのことがまた、くるしい、くるしい、くるしい。

ホロホロと崩れる生地を、かき集めているうちに泣いてしまう。

そんな春である。

*1:持って行きたかったのだが、親から「頼むから新しい机を使ってくれ、好きなのを買ってあげる」と言われたのだった。親からしたら、みすぼらしいものを使わせてしまったという負い目があったのだろう

子どもの足音

木造の、古い古いアパート。

間取りは、かろうじてテーブルを置ける広さのダイニング・キッチンに6畳2間がついた2DK。

当然、家族連れが多く住んでいた。

そんな物件に、まかり間違ってひとりで入居したのは、

2011年の2月のこと。

わたしは独身で、夫とは、まだ会ったことはなかった。

 

階下の家庭には、男ばかりの3人兄弟がいた。

小学生2人に中学生1人。

学校から帰っては夕方にドタバタと走り回り、

夜、共用廊下に出ると、「ロナウジーニョジーニョ~」など、

覚えたばかりの単語を使った、自作ソングが風呂場から響いてきた。

まあ、うるさい盛りである。

しかし、あまり度をすぎると「コラッ」と母親が雷を落とす。

夕方は、ひとしきドタバタの後は外へ遊びに出るらしく、

いつの間にか音は聞こえなくなる。

そして、日中の遊び疲れもあるのか、夜は早い時間に静かになる。

母親は感じのよい細身の女性だったが、肝っ玉母ちゃんなのだと推測された。

わんぱく盛りの少年たちをきちんと叱り、

彼らもそれを(基本的には)きいていることは、階下から伝わってきた。

 

わたしは家で仕事をしているし、どちらかというと神経質なほうである。

しかし、子どもたちのたてる音は、

気になるといえば気になるが、生活や仕事には差し支えるほどではなかった。

大変にうるさい少年たちであったが、生活習慣がきちんとしていれば、

子どもたちがうるさい時間は、限られていると、はじめて知った。

起きてしばらくドタバタしてもすぐに学校に行くし、

放課後騒ぐといっても1時間ぐらいのもの。

風呂場のご機嫌ソングだって、部屋の中には聞こえてこない。

 

ただ、子ども、それも少年の足音や声が聞こえることに慣れていなかったので、

なんとなく戸惑いはあった。

わたしはあまり、子どもが得意ではない。

嫌いとか苦手、というわけではないのだが、

ちょっと怖いと感じることがある。

自分も通ってきた道のはずなのに、

何を考えているかわからない、と感じてしまうのだ。

おそらく少子化核家族育ちの弊害であろう。

そのため、苦痛ではないけれど、未知の存在が騒いでいる。

そんな違和感はあった。

 

そして3月11日の金曜日、地震が起きた。

被害にはあわなかったが、東京も揺れに揺れた。

わたしは当時、家で進まぬ原稿を書いていた。

被害はないとはいえ動揺してしまい、

それ以降、インターネットばかりを見て過ごした。

そこで、何か恐ろしいことが中継されていると知り、

TVはとてもじゃないけれどつけられなかった。

いろいろな情報が流れて行った。

それをただ目にしながら、いつの間にか眠ったのは、明け方だった。

わたしの浅い眠りをさましたのは、階下の子どもたちの足音だった。

その日は土曜日。

土、日の子どもたちは、8時ぐらいから10時過ぎまで家でドタバタし、

さらにエネルギーを発散させるべく外へ飛び出すのがお決まりだった。

少年たちは、昨日の地震もなんのその、何やら楽し気に笑い、騒ぎ、やがて外出していった。

彼らの心中はわからないが、少なくとも階上にいるわたしからは、

先週と変わらない様子に感じられた。

わたしは心底ほっとした。

生命力溢れるその声や足音、いつもと変わらない彼らの習慣。

ここでは日常が続いていて、

子どもたちは元気いっぱいなのだ。

 

それ以降、子どものたてる音に、違和感を覚えることはなかった。

ザワザワした日常にあって、むしろ、子どもたちの声や足音は、救いだった。

学校から帰れば、騒いで歌って、やり過ぎれば怒られる。

「子どものすごさ」をほんの少しだけ、理解した出来事だった。

 

その後、わたしはその物件から引っ越した。

彼らも、もうあそこには住んでいないだろう。

挨拶してもし返さない*1

昭和の悪ガキといった風情の、ちっとも可愛くなかった三兄弟。

今もどこかで元気にしているといいなと思う。

*1:今にして思えば、彼らは不審者から身を守るため、そういう教育を受けていたのではないか。2間のアパートにひとりで住んで、昼間ウロウロして何の仕事をしているかわからないおばさんなんて、まあ、不審であったろう